Stand by me
英二の跡部邸レポート2
「マルちゃん!」
「あん!」
マルちゃんの長ったらしい名前を、俺はなかなか覚えられない。
紙にメモしてポケットに入れておいたが、その後、そもそも書き間違えていたことに気が付いた。
毎晩、わんこ日誌に、食事量やうん×の状況を記入する。
前任者の日誌を見てはじめて、俺はマルちゃんの名前を思い出すのだった。
これを見ると、この1年の間に俺を入れて4人の人間が、この犬の世話係を務めたことになる。
俺が「マルちゃん」と呼んでそれに素直に答えるところをみると、以前の世話係もそう呼んでいたのではないだろうか。
朝5時半、といえば、3月ならばまだまだ暗い。
そんな時間に自分が起きられるとは、思わなかった。
仕事となればできるものだから不思議だ。
まずはマルちゃんのご飯。
その間に簡単に掃除。
散歩。
グルーミング。
本格的に掃除。
おやつタイム。
駆け抜けるようにここまでやってきて、ふと時計を見ると、そろそろ青学では練習が始まる時間だ。
跡部邸の前に大きなリムジンが止まり、跡部と、いつの間にかやって来ていた樺地とが乗り込む。
二人もこれから練習へ出かけるのだろう。
俺はそれを窓から眺めてため息をつく。
「あーあー。俺もテニスしたい」
つぶやくと、マルちゃんが俺の頬をぺろりと舐めた。
「やーん。なぐさめてくれてんの?いいこだね」
マルちゃんの、絹糸のような毛を撫でて俺は満足する。
「さっきとかしたから、サラサラだねー。息はくさいけど…おやつ後の歯磨きまだだったね…」
と、俺は歯ブラシを取りに行く。
犬の世話係はこのように、午前中だけでもなかなか忙しかった。
いかに楽ではないにしても、前任者たちの仕事が半年と続いていないようなのはなぜなのだろう。
☆☆☆
いくら破格の金持ちとはいえ、俺と同じ中学2年生の跡部が会社を持っていたことは驚きだった。
実際に経営しているわけではないようだが、口は出す、といった風だ。
気をつけて見ていると、携帯電話で話しているのは大抵そういった内容のことである。
多忙な跡部は、あまり家にいない。
いても、パソコンを叩いているか、携帯電話で何か話している。
そういうわけで、同じ屋根の下に居ながら、跡部と話す機会はあまりなかった。
その日も、跡部が帰って来たのは、夕食後の時間帯だった。
夕食を終えしばらくの休憩後、俺はマルちゃんの夜の散歩に出かける。
ちょうど家を出るその時に、跡部が乗ったリムジンが家の前に着いた。
「わおん」
マルちゃんの豊かなしっぽが、たふたふと嬉しそうに揺れる。
自分の飼い主が車から降りてくるのを、マルちゃんは嬉しそうに待ち受けている。
「おお、マルや」
跡部は、見たこともない柔和な表情をして、かがんでマルちゃんを撫でた。
なんだ、跡べーもちゃんと呼んでないんだ…。
しかも「マルや」なんておじいちゃんみたい。
俺はちょっと笑い出したくなった。
「菊丸、仕事はどうだ?」
「大変だけど、なんとかやってます」
「そうか。兄のために文句も言わず、おまえは意外と男気があるな」
跡部は自分の発言になぜかウケて、むははと笑いながら家の中に入って行った。
その時はらりと紙きれのようなものが、風に乗って舞った。
はしと握りしめたそれを見て、俺はふぎゃーと叫びだしたくなるのをこらえた。
それは写真だった。
青学テニス部2年生部長(来年度も)、手塚国光その人の写真だったのだ。
☆☆☆
「どーして?どーして?手塚?」
写真を手にあわあわとうろたえる俺の横に、いつの間にか樺地が居て、写真の裏を見ろと指で促した。
樺地は、リムジンの助手席に乗っていたようだ。
言われたとおりに写真をひっくり返して裏を見ると、こう書いてあった。
「打倒、青学。打倒、手塚国光」
俺は絶句して、樺地の顔を見上げた。
「…ま、予想通りだけど。なんか、やりすぎっつーか。執着しすぎじゃない?」
写真なんて持ち歩いて、正直ちょっと気持ちが悪い、とは樺地の手前言わなかったが。
「…跡部サン、初めてだから。負けたの」
樺地は大きい体に似合わない優しい声をしていて、その声で、いとおしむように語った。
「ああ…」
その声で語られると、納得してしまうのだから不思議だ。
それに、俺だって、跡部の気持ちがわからないではないのだ。
自分を負かした相手に執着するのは、男として当然のことだ。
その点で、俺だって他人のことは言えない。
でも、ダブルスを組んで一緒に戦っているうちに、いつの間にか執着心は消えてしまった。
戦うべき相手が、すり替わったといえばそれまでだが。
どちらかというと、大石と一緒に戦うことの方が楽しくなってしまった、というのが本当だと思う。
「あいつらも、ダブルス組んだりできたらいいのになあ」
そう言っておいて、二人のダブルスを想像したらおかしくなって俺は吹き出してしまった。
樺地はそんな俺の話を、ぽかんとして聞いていた。
「あはは…。ほんと、ダブルス組んだら、仲良くなれちゃうのになー…」
樺地の顔は表情に乏しくて普段から何を考えているかよくわからなかったが、その時の俺にはなんだか悲しそうに見えた。
それで、その話はもう終わりにした。
☆☆☆
その晩は珍しく、テニスコートにナイター設備の照明が当たっていた。
跡部と樺地が打ち合っている。
カーテンを閉めても、打ち合う音だけは響いた。
「いいなあ、テニス…」
さっき、大石のことを思い出したのもあり、いつも以上に悲しくなって、涙が出てしまった。
一人で眠るのが寂しくなった俺は、マルちゃんの部屋で一緒に寝ることを思いついた。
ドアを半分開いて部屋の中を覗くと、マルちゃんはしっぽをたふたふと揺すって歓迎してくれた。
マルちゃん専用の大きいクッションの横に、持参した布団にくるまって座り込む。
マルちゃんは喜んで自分の方から体をすりつけてくる。
俺はそのままマルちゃんのクッションに上半身を乗せて、体を寄せ合って眠る体勢になった。
「ふふ。マルちゃん…」
「わふん」
「あのね、もう死んじゃったけど、うちにもわんこがいたんだよ。マルちゃんよりずっと小さい、優しい子だった」
マルちゃんは神妙な顔つきで、俺の話に耳を傾ける。
「死んじゃってから、わんこをまた飼おうと思ったんだけどね、家族みんなできなかったんだ。だからうちのわんこはその子っきり」
黙っていれば非常に利口に見える犬種である。
この世の真理を何もかも見通したような、そんな瞳で、俺を見つめ返す。
「だれかが死んじゃったら、その代わりはいないんだよねえ。大切な人が死んじゃったら、どうしたらいいんだろうねえ…」
「くうん」
俺はなんだかやたらに悲しい気分だったので、言ってることも支離滅裂だった。
そうして、また涙が出そうになって鼻水をすすった。
犬は、人間が支離滅裂だろうとそんなことは気にしやしない。
ザ・センチメンタルになっている俺のために、体を擦りつけ、顔を舐め、全身全霊で慰めようとしてくれる。
かたん…。
「わふ!」
部屋の外でした音にマルちゃんが反応してしっぽを揺すったが、その音はそれっきりだった。
マルちゃんはしばらく気にしていたようだが、俺はマルちゃんと体を寄せ合ったまま眠ってしまった。