お受験狂想曲
2
「おーきーにーちゃん…」
振り返ると末の弟の英二が、部屋のドアのすき間に体を挟むようにしてこちらを窺っていた。
「どうした?入っておいで」
そう言って微笑んでやると、英二はおずおずと近付いて来て、急に抱きついた。
「母さんに怒られた?」
英二は俺に抱きついたままで首を横に振った。
「んー…じゃあ、欲しいものがあるの?」
「…ちがうよ。兄ちゃん嫌い。俺のこと子供だと思ってる…」
「…だって、子供じゃん…」
そう切り返すと、きっと睨んで見上げてきた。
「ごめんごめん…」
苦笑しながら英二を促して、二人でベッドに腰掛けた。
「兄ちゃんさ、青春した?」
「…青春?」
青春?
青い春の?
せいしゅんって他にないよなあ…
「青春だよ、青春!青春学園の青春!」
俺がぼんやりしていたものだから、英二は焦れて声を荒げた。
しかし言うに事欠いて、「青春学園の青春」か…そう思いかけてふと閃いた。
「英二、もしかして、青春学園に行きたいの…?」
英二は黙り込んで答えようとしない。
図星だったということだろう。
「青春なんて、どこにいたって経験できるんだよ」
最初に俺の口をついて出たのは、何故だか否定的な言葉だった。
途端に英二は顔を歪めて泣きそうになった。
だから慌てて頭に手をやって撫でてやった。
そしたら余計に泣きじゃくりだしたから、焦ってしまった。
「母さんには話したの?」
「まだ…。じいちゃんには話した…」
「じいちゃんは何て?」
「もうすぐお金持ちになるから何とかなるよって」
退職金を末の孫のために使う気か。
それは勝手だが、うちにはもう一人受験生がいる。
あいつの学力では浪人せずに国立は狙えないだろう。
それに、最近やたらとひがみっぽいのだ。
英二だけ私立に行かせてもらって狡いとか言い出して、拗ねるのは目に見えている。
「友達がさ、みんな青春学園受けるんだ」
「友達って、あいつらか…」
英二が高学年になってからつるんでいる子供たちの顔を思い浮かべた。
どいつもこいつも、下品で愚鈍そのもののような顔をした…。
…あいつらが青学で、うちの英二が公立中学なんて…。
それはなんだか腹立たしかった。
英二は俺の小学生の頃によく似ていて、中身はともかく顔だけは賢そうなのだ。
それに、あいつらに比べればどことなく品だってある。
…口を開かなければの話だが。
英二は俺の膝を枕に寝転んだ。
「だからさ、中学行ったら、俺ひとりになっちゃう…」
「そうか…それは寂しいよな…」
俺を見上げる瞳は、幼い頃に祖母のエプロンのポケットを漁って奪った飴玉のよう。
素朴で、懐かしい色…。
英二のいとけない眉の上を指でなぞった。
茶色い産毛が申し訳程度に寄り集まって、眉の形を成している。
外ではガキ大将の英二だが、一歩うちに入れば甘えたがりの末っ子だ。
それに、俺と二人きりのときは、オムツが取れるか取れないかの頃のように甘えてくる。
ベビーパウダーと、オムツの蒸れた匂いとが混ざり合った、独特の、あの甘い匂い。
英二が甘えてくるといつも、その記憶が甦った。
「英二、そんなに青春学園行きたい?」
「…うん。行きたいよ…」
「ちゃんとお勉強する?」
「するよ。俺、がんばるよ」
「兄ちゃんだって、ちゃんとお給料貰ってるんだ…」
バタン、と大きな音を立てて部屋のドアが開いた。
何事かと思えば、上の弟が怒っているような、泣きそうな顔でこちらを睨みつけていた。
「兄貴は…俺のことは、かわいくないんだろう…?」
「…何を急に言い出すんだ。つーか鏡見てみろ。かわいいわけがないだろう…」
今年18になるという男が何を言っている、そう思って弟の眉間のしわを見つめた。
黒い眉が真ん中で繋がりそうになっている。
少し前まできれいに整えていたのに、先月彼女に振られて以来、手入れを怠っているらしい。
「…そういう意味じゃない。狡い。英二も狡い。みんな嫌いだ…」
そう言い捨てると、部屋を飛び出して行った。
「…ちぃにーちゃん…」
驚いた英二は、いつの間にか俺の膝の上に乗り上げていた。
子供らしい汗の匂いが鼻先を掠めた。
まだ幼い匂いは、心の奥の柔らかいところをくすぐって、甘い痺れをもたらした。
もしも、英二が青学に合格したら…
スポーツが得意な英二のことだから、運動部に入るだろう。
そうしたら、学費以外にも何かと出費がかさむだろう。
不自由な思いをさせたり、引け目を負わせたりは、させたくない…
結婚資金のために、彼女と積み立て貯金をしていた。
その関係で、俺の給料内訳のだいたいのところを知られていた。
さて、彼女にばれないように、月々いくらを英二のために使えるだろうか…
そう考えながら、英二のやわらかい髪に鼻を埋めた。