お受験狂想曲

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「そうなのよ。なんか急にやる気出しちゃって…」
「ちょっと、かあちゃん。塾長先生から電話くるってのにー…」

母の長電話は今に始まったことではないが、今日はいつも以上に興奮気味だ。
明日は、英二の中学入試の日なのだから。

12月の模試で、英二はついに青学A判定を出した。
我が家の大人たちのテンションは上がりに上がった。


「英二、受験票入れた?」

上の姉は、なんだか気が気じゃなくてと言いながら、アルバイトを休んで帰って来た。
リクルートスーツのまま着替えもせずに、さっきから弟の世話を焼いている。

「入れた。…あれ?あれ?わーどうしよ…あった…」
「小さいからどこに入れたかわかんなくなっちゃうでしょ。これに入れなさい、ね?」

訪問先の企業から貰ったであろう社名入りのクリアファイルを取り出して、受験票を挟んでやっている。


去年の夏休みまで、母は英二の中学受験について我関せずの姿勢だった。
そもそも英二の成績で青春学園になど合格するわけがない、母だけでなく家族全員がそう思っていたのだ。
祖父だけがやけに熱心で、進学塾の授業料まで出していた。

夏休みに入ってすぐに、その塾の塾長から電話があり、母が呼び出された。

戻ってきた母は紅潮した顔で、お水ちょうだい、と言った。
祖母が、それくらい自分でおやんなさいと言うと、珍しく家にいた妹がコップに水をくんで渡してやった。

母はコップの水を一気に飲み干すと、はーと大きなため息をついて宙を見上げた。

「英二ね、青学合格圏内だって」

「へー、たいしたもんだ。さすが我が孫!」

軽い口調で祖母が答えて、ケラケラと笑った。

英二が7月の模試で取った総得点は、4月時点の2倍を優に超していたという。

「塾長先生が短期間でこんなに伸びた子見たことないって…」
「青学って4科目でしょ。あの子、理社が強いから…」

母の興奮はなかなかおさまらなかった。

「ふーん。英二、要領いいもんね…私に似て。なぁんて」

妹はそう言うと意味ありげに微笑って、細い三つ編みの先を指で弄んだ。

妹の仕草を見て、俺はなんだかむかむかした。


…要領。
弟妹にあり、俺にないものの筆頭はこれなのかもしれない。

英二には、確かに末っ子らしい可愛い気というものがあった。
俺だって甘えてこられれば悪い気はしないから、つい甘やかしてしまう。
だけど、あいつは一歩外に出れば典型的なガキ大将をやっているというのは俺も知っている。
頭のネジが2、3本抜け落ちたようなガキどもを引き連れていばりくさっているのだ。

妹はというと、私服の高校に通いながら、いつ見てもいかにも女子高生でございますという格好をしている。
どこからか制服のような服を手に入れて、好んで着ているのだ。
好みというよりは、妹はそういう演出をするのが好きなのだ。
三つ編みだって、その雰囲気作りの一つなのだ。

妹は、塾に一度も通わず学区一のレベルの都立高校に合格し、今も上位の成績を維持している。
優秀な上にお金のかからない孝行娘と、母の評価は当然ながら高い。

妹が近所のファミリーレストランで大学生らしき男に勉強を教わっている。
その話を友人から聞いた時、俺は口の中が苦くなるのを感じた。
友人はそのファミレスでアルバイトをしていて、度々妹を見かけていた。

妹が一緒にいる男はいつも同じというわけではない。
かといって、いつも違うというわけでもない。
つまり、3、4人の男に勉強を見てもらっている。
俺が想像するに妹は、数学はこの男、英語はあの男と使い分けているのではないか。

そして友達によれば、男の方は明らかに気があるが、妹の方はさほどでもない、そういう温度差が感じられるのだという。

なんだかその図がありありと目に浮かぶようだった。

男の好みに合わせて、妹は細い三つ編みを編んだり、ほどいたり。
男はきっと鼻の下をのばして、妹の白いうなじや、さくら貝のような爪に見惚れているのだ。

やわらかい猫っ毛、弓形の淡い色の眉、もも色の頬と耳たぶ。

妹も、弟も、それを持っていた。

そして、ちょうど去年の今頃に俺を振ったあの娘も…。


母がやっと電話を切って、夕食の時間になった。

妹は勉強会と称して今夜も出掛けていた。
兄は残業だったので、6人で食卓を囲んだ。

今夜は、ベタなことにトンカツだった。
といっても、我が家では誰の受験の前日であっても必ずこのメニューだ。
先月の俺のセンター入試前日もそうだった。

「はい」
祖母からご飯茶碗を受け取って、俺は絶句した。
そこには山盛りの赤飯がよそってあった。

「なによこれ…」
「おばあちゃんたら、まだ合格してないのに…」

祖母は舌を出しておどけていた。

祖父がからからと愉快そうに笑って言った。
「たぶん合格するんだろう?いいじゃないか」


あずき色に染まったご飯粒を見下ろして、俺の中の何かがぷつりと音を立てて切れた。

「トンカツには、白飯だろー!?」

思わず、いつにない大声で叫んでいた。

食卓はしんと静まり返った。

「…そうよ。おばあちゃんたらふざけすぎよ」
「…ほんと。確かに、トンカツには白いご飯じゃなくちゃ、ねえ?」

母と姉が取り繕うようにフォローを入れた。
ささくれ立ったもう一人の受験生の存在に今初めて気が付いた、そういう雰囲気がありありだった。
なんであんな大声を出してしまったのだと、空しくなった。

電話が鳴って、英二が慌てて席を立って出た。
塾長先生かららしく、いつになくはきはきと礼儀正しく応対していた。


はあー、と祖母が大きなため息をついた。

「…ばあちゃん。大きい声出して、ごめんな」

俺がそう言うと、祖母は黙ってトンカツを二切れ箸で取って、俺の皿にそっと載せた。





お受験狂想曲 end
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