お受験狂想曲

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春の嵐が駆け抜けて、今年の桜は入学式を待たずに散ってしまった。

春休みの人気がない校舎は、花冷えに、冷えに冷えて。
耐え切れず、紅茶をいれた。

生物室の窓から外を眺めると、桜の古木が雨風に打たれて激しく花を散らしていた。
その姿は凄絶なまでに美しかった。
先人たちのあれほどまでに桜を愛でた理由の一端がわかる気がするというものだ。


もうすぐ、まだ幼さを残した子供たちが入学してくる。

俺がこの学園に入った年、桜はまだ咲いていたろうか。

実のところ、全く覚えていなかった。
テニスに出会い、個性的なチームメイトと相棒とに出会い。
その印象が強すぎて、1年生の4月分の記憶容量は飽和状態だったから。



☆☆☆☆



青春学園に入りたい、最初にそう思ったのがいつだったかは覚えていない。


子供の頃、土曜日の朝は、祖父が犬を散歩させていた。
俺も、5年生に上がる頃には、一緒に出かけるのが習慣になっていた。

散歩のコースは、青春台の駅の北側。
人気の少ない早朝の商店街を通り抜け、青春学園の周りを巡った。
学園のそばの児童公園で休憩して折り返すのが、土曜日の散歩コースだった。

普段は祖母が散歩させていて、駅の南側にある大きな公園の中を一周するコースを辿っていた。
飼い犬という生き物は、実のところ常に退屈している。
週に一度であっても、普段と異なる散歩コースと同行者は、彼にとっては大きな刺激だったろう。
尻尾をぱたぱたと引っ切り無しに動かして、甘えた声で早く行こうとねだった。


犬と散歩するのも楽しかったが、そもそも俺が散歩について行くようになったのは、帰りに買い食いをさせてもらえるという理由からだった。

商店街のはずれに昔ながらの駄菓子屋が一軒あった。
散歩の帰りにそこへ寄り、入口で祖父に100円玉をもらって好きなものを買って食べた。

2か月に一度くらいであったが、時々、祖父は500円玉をくれた。
そういう時、俺は店の中をゆっくりと吟味した。
祖父は早くしろとは一言も言わず待っていてくれた。
買い込んだ駄菓子を抱えて帰ると、二人で祖母に小言を言われたものだった。
実際、大量の駄菓子は食べ切れなかった。
近所の友達に配って喜ばれていたのだから、無駄にはならなかったろう。


兄弟の誰に聞いても、祖父に一番可愛がられたのは俺だというが、俺自身もそうだと思う。

一番忘れられないのは、5年生の春休みの出来事だ。

その頃にはもう、俺の散歩の目的は駄菓子ではなく、青春学園の中を眺めることに変わっていた。

長い長いポプラ並木を歩いて突き当たりが、高等部の正門だ。
そこから塀に沿って反時計回りにぐるりと廻る。
高等部の正門から見てほぼ真裏に、中等部の正門がある。
そこからまた更に半周廻って、高等部の正門に戻る。
距離にしたらなかなかのものだろう。

だけど、学園の敷地の中を覗きながら歩くのは、全く退屈しなかった。
土曜日は授業がなくて、多くの学生が朝早くから部活動の練習に励んでいた。
俺は運動全般に自信があったから、他人がスポーツをするところを見るのも好きだった。
あの人下手だ、手首の使い方が良くないのだとか、スタートダッシュが遅すぎるとか思いながら眺めていた。


風に翻る校旗は青く青く。
春霞の空に映えていた。

青春とは何か。
青い春と書いて、青春。
この塀の中には青春があるのか。
青春とは、どんなものか…。

当時の俺には「青春」という言葉が、恋に似た甘美な憧れを持って響いていた。


高等部の敷地の隅に弓道場があった。
土曜日の朝に通り掛かると、いつもたくさんの弓が塀に立て掛けてあった。
何をしているのかはわからなかったが、掃除か虫干しでもしているのだろうと勝手に思っていた。

高校生らしき女の子が弓道場から出て来て、弓の前にしゃがみ込んだ。
そうして弓の弦をしきりにいじっていた。

袴姿の彼女は、面差しが上の姉に似ていた。
きれいに整えた黒い眉。
長い黒髪を一束に結って。
一文字に結んだ口元。
いかにも芯が強そうだ。

姉に似ているという気安さから、俺はおもむろに近付き、話し掛けた。

「あの…。せ、青春…してますか?」
「はっ?」

彼女はしゃがんだままで、こちらを見上げた。
沈黙が流れた。

「…えーと。君、小学生?」
「はい」
「ここ受けるの?」
「いえ。そーじゃないです」
「んーと。青春、だっけ?」
「はい」
「してますよ、青春」
「そーですか…。ここには青春がありますか?」
「ええ、ありますとも。たくさんね」

そう言って微笑んだ顔は輝いて眩しかった。

彼女が弓道場に戻るので、礼を言って別れた。
彼女はまた微笑って、君うちへ来ればいいのに、と最後に言った。

うちって…。
ここか。
青春学園。

小学生の俺は、自分の学校を「うち」と呼んだことはなかった。
だから、彼女の言葉に、静かに衝撃を受けた。


「英二」

振り向くと、祖父がぽかんとした顔で立っていた。

「この学校に入りたいの?」

俺は沈黙を返した。
こういう時の沈黙は、どんな答えよりも雄弁だ。
祖父はたちまち俺の気持ちを察してこう言った。

「じいちゃん、もうすぐお金持ちになるんだよ」

あんまりびっくりして、俺は固まったみたいになった。
祖父が自分の退職金のことを言っているのだということはすぐにわかった。
だけど、まさかそれを俺のために使うと言い出すとは思わなかった。

「…だめだよ。ちぃ兄ちゃんも受験だもん…」
「大丈夫。大きいお兄ちゃんだって働き始めたんだから。何とかなるよ」

そんな風にあっさり受け入れられるとは思ってもみなくて本当に驚いた。
俯いたら、何故だか涙がこぼれた。

「行ったらいいよ」
「…でも。俺、バカなのに…」

「…そうか、試験があるのか…」
そう言うと祖父は難しい顔になった。

英二はバカじゃないよと祖父が言ってくれなかったのには、いくら俺でも少し傷付いた。

「帰り道に進学塾があったろう?寄って帰ろう。な?」
「…うん。」

涙を両方の手で拭った。
犬は全く状況が解らないまま、それでもうれしそうに俺と祖父を交互に見上げた。

その日は、駄菓子屋には寄らず、駅前にある中学受験専門の学習塾を見学して帰った。



☆☆☆☆☆



それが、全ての始まりだった。

その日、袴姿の彼女に話し掛けなければ、俺が青春学園に入ることはなかったかもしれない。

もしかしたらテニスを始めることもなく、相棒と出会うこともなく。

俺は誰と出会い、恋をしたろうか。

恩師と呼べる人に出会えなければ、こうして教師になることもなかったろう。

毎年春になれば、このことを思わずにはいられない。

人生にはIFはないというけれど…。


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