●● おいしい人生 --- 2 ●●
「ちょっと。この耕運機、いいなぁ。『らくらく家庭菜園・らくぅん』だって。ねー、見てみて。」
「…消費税込みで7万じゃないですか。夢見るの、やめましょうよ…。」
もう、2年ちかく、彼に振り回されている。
生物部の副顧問、菊丸先生に。
先生は、僕が青学の中等部に入学した時から、非常勤講師をしていた。
高等部へ進学した年に、専任教諭になった。
そういうわけで、すでに5年の付き合いで、気心が知れるどころではない仲ではあった。
彼が専任教諭になって、生物部の副顧問になると、それは始まった。
突拍子もない、思いつき…。
「畑、作ってみないか。」
高等部に入ってすぐのこと、先生が、野菜を育てようと言い出した。
部員に反対意見はなかった。
皆、そこそこの興味は持っていたのだ。
ただ、生物部というのは、動物に興味がある連中がほとんどだ。
野菜の栽培について知識のある者は、皆無に等しかった。
だけど、言い出したのは彼なのだし、なにしろ先生なのだから、彼を頼ればいいと思っていたのだ。
だが、しかし。
「俺?…俺、よく知らないよ。専門じゃないし。」
あっさりと言われて、唖然とした。
弓道場の横の花壇は、すでに取り壊してしまっていた。
「ネットで調べりゃ、なんとかなるだろ。」
先生はそう言ったが、なんとかなんて、なるわけなかった。
まずは、土づくりが大変だった。
花壇とは名ばかりの、ほったらかしの植え込みだったから。
それこそネットで方法を調べ、土をほぐすだけで半月かかった。
堆肥についてはネットからの知識では不十分で、隣の市の農家まで出向いて教えを乞うた。
そうこうしているうちに、4月末。
ゴールデンウィークに登校して、遅めの苗付けを終えた。
菊丸先生は、テニス部の顧問なので、練習の合間に顔を出すだけ。
「やってるな。」
「すげえ、すげえ。」
「お前ら、たいしたもんだ。」
言い出しっぺの自分が関わっていないのが後ろめたいのか、褒めるだけ褒めて、さわやかに去っていった。
そして、5月中は、考えることといえば肥料のことばかり。
気がついたら、中間考査が始まっていた。
そんなある日。
われらが愛すべき青学猫、学園に暮らす猫たちが、畑へと侵入した。
彼らは、完全な肉食で、野菜など食べるはずもない。
ただ、苗の上で背中を掻いてみたり、柔らかい土の上にしゃがんで放尿してみたり、普段通り気まぐれに過ごしているだけだった。
だが、菊丸先生は怒った。
「あいつら、捕まえて、三味線屋に売りとばす!」
その剣幕には毒気を抜かれてしまった。
僕らも、そりゃあ頭にはきた。
でも、猫ってのは躾ができない生き物だから、それに野良なのだし、仕方ないと思ったのだ。
なにしろ、学園の中で一番猫たちを可愛がっていたのは、当の僕らだったのだし。
学校というところは、だいたいにおいて、猫たちの聖域のようなもの。
特に、武蔵野の緑が深いこの学園には、昔からたくさんの猫が住みついていた。
だけど、先生はほんとうに、猫を片っぱしから捕まえては、連れ去った。
神楽坂の三味線屋の店先で先生を見かけた、という噂も飛び交う中。
連れ去られた猫たちが、彼の自宅で新生活を始めているという事実がわかった。
「野良なのに。逃げません?」
「しょっちゅう逃げる。でも、フロアをひとまわりしたら、満足して戻ってくるよ。」
「…そうですか。…あの。三毛の小さい方、元気ですか…?」
「元気だよ。」
僕らは、猫たちに会えなくなったさみしさに、涙で枕を濡らしているというのに…。
先生の言動は、気まぐれで、あっけにとられることばかりだ。
幽閉された猫たちは、それでも、暑さ寒さを避けることができて、幸せなのだろうか。
そうしてしばらく平穏な日々が続いたが、再び、猫が菊丸先生の逆鱗に触れた。
身ごもった母猫が、安全地帯を探して青学に迷い込み、子供を産んだ。
母猫は、2匹の子猫の遊び場として、生物部の畑を選んだ。
「…キリがねぇ…。ハウス栽培やってみるか。そしたら、もうあいつらも入って来れねえだろ。」
先生の思いつきには、すでにうんざりな僕らだった。
でも、ハウス栽培という言葉の響きには、惹きつけられた。
予算が学校からもらえるならば、こんなにいい機会はめったにない。
「…100万円?箱だけで?」
「そうです。暖房機能をつけたら、プラス300万円ってとこですね。」
「…お前ら、バカか?どこの学校がそんな金を文化部に払うんだよ。」
「だって、先生が、やろうって…。」
「そこを、金を使わずにやるのが、部活ってもんなんだよ!!」
僕たちは、奔走し、化学部の助けを得て、当初の予想から10分の1以下の予算を立てた。
それでも菊丸先生はぶつぶつと言っていたが、顧問である教頭先生が僕らの計画をおおいに気に入ってくれた。
「君たちがやってることは、なんだか、園芸部みたいだね。僕は、むかし園芸部だったんだよ。」
かつて、青学に園芸部があったとは初耳だった。
それならば、なぜもっと早く助言をくれなかったのだと、教頭先生を恨めしく思った。
ともかく、教頭先生の力添えでもって、特別予算が下りて、無事にビニールハウスは完成した。
しかも、高等部のホームページの表紙を飾ることになった。
生物部員と化学部員と並んでの、記念撮影。
あれだけ文句をたれていた菊丸先生は、僕らの中央で艶然と微笑んでいた。
「菊丸先生、相変わらず素敵ねぇ。ここだけ、合成写真みたいだわ。」
アップされたホームページを見て、母が言った。
…合成写真って。
そうなのだ、先生は、見ためはいいのだ。
あんな性格なのに、あんな性格なのに…。
それでも、僕は、一言も文句を言わず、いや、言えず、今日も奔走する。
日差しを受けて、きらきらと光る、トマト、なす、えんどう豆、彼らのために…。
作ってみれば、野菜というのは、手がかかるだけに、ほんとうにかわいいし愛着も湧くものなのだ。
先日提出した進路調査表に、僕はうっかり、「農学部」と記入してしまった。
ほんとうは、動物のお医者さんになりたかったのだ。
小さい頃から、それが夢だったのに。
どうしてか、どうしてか、僕の人生設計が、狂っていく…。
「…苺、作ってみるか。ハウス栽培で。」
またですか。
苺、食べたいんでしょ、どーせ。
冬に食べられたら、いいよな、って発想でしょ。
「練乳って、予算でおちねーよな?まさか…。アハハ。」
あー、ほら。
思った通りだよ。
あぁ、でも。
先生と野菜とに、翻弄され、奔走する毎日が、ずっと続けばいいと思っている。
そんな僕もいるのだ。
ずっと、ずっとこうして、いられたらって。
あぁ、僕の人生、どうなるのかな、ほんとうに…。
人生って、思い通りに、ならないものなんだ。
それに気づくの、ちょっと、早すぎたんじゃないだろうか…。