●● おいしい人生 --- 3 ●●
早起きして、車を東へ走らせた。
初冬の朝の空気は、清潔で新鮮に感じる。
日曜の朝は道も空いていて、まっすぐな幹線道路を走ると、知らずアクセルを踏み込んでしまう。
久しぶりの休み、いつもなら、眠りを貪るところ。
今日は、恋人が借りた家庭菜園へと、収穫に出向く。
大きな川をひとつ越えると、風景はだいぶのどかになる。
東京という街には、いろいろな顔がある。
このあたりは、江戸時代からはじまり昭和40年代頃までは、一大農園地帯だった。
その名残でか、裏道に入ると時折、立派に手入れされた畑が目についた。
知識としては知っていたが、実際に足を運んだのは、これがはじめてだった。
英二が借りた畑は、さらにもうひとつ先の大きな川の、すぐ手前にある。
川は、いわゆる県境に当たる。
東京の、はずれのはずれ。
指示どおりに車を止めて降りると、なるほど、住宅地の合間に畑が広がっていた。
思っていたより、だいぶ広い。
道をはさんで、高い土手がある。
あの土手の向こうに、川があって、その川の向こうは千葉県だ。
あとで登って、あちらを眺めてみよう。
感心して見渡していると、かくしゃくとした雰囲気の老人が近寄ってきた。
白髪ではあるが、腰はすっと伸び、眼元が涼やかで若々しい。
おそらく、ここの地主兼、管理人さんだろう。
「おはようございます!」
英二がいきなり大きい声でそう言ったので、つられて慌てて会釈した。
「おはようございます。早いですね。今日は収穫ですね、ビーツ。」
「はい!今日はもう一人いますから、早く済むと思います!」
彼がやけに、はきはきと話すので、どぎまぎした。
「…この辺りのご老人はさ、もたもたしてると怒っちゃうんだよ…。」
彼が小声で教えてくれた。
袖をまくりあげて、ゴム手袋をはめた。
それを通しても、よく耕された土の、やわらかな感触が指先に伝わった。
引き抜いたビーツを、管理人さんが持ってきてくれた大型のバケツの中に入れていく。
引き抜くといっても、ごくごく注意深く。
子供のころに遠足でやった、イモ掘りを思い出しながら。
はじめは、いつものようになんやかやと他愛のない話をしていたが、次第に無言になった。
二人とも、無心で作業に集中した。
しばらくすると、曲げていた腰が痛くなり、立ちあがった。
普段使わない筋肉が疲労するのだ。
バケツの中には、美しい赤紫色をしたビーツが、まだ土をまとったままで折り重なっていた。
「もう9割がた終わりだね。あとここだけ。」
「意外に早かったな。」
「あっという間。あっけないよね。」
「育てる過程をもっと楽しめればいいんだがな。」
「ほんと。」
管理人さんがやってきて、土を落としていきますか、と尋ねた。
英二は、元気よく、はいと答えた。
二人で一つのバケツを持って水場まで運び、ビーツを洗った。
ゴム手袋を通しても、冬の水の冷たさが感じられたが、かえって気持ちがいいくらいだった。
また、無言で、ビーツを洗っては並べた。
並べられたビーツは、壮観だった。
なにしろ、色が美しい。
自然の作り出す色とは、見事なものだと思った。
俺は、生のビーツを見たのさえ、はじめてだった。
母が2度ほど作ってみたボルシチの中のビーツは、缶詰めのものだった。
「すみません、ちょっと土手に登ってきますんで、このままにしておいてもいいですか!?」
英二がまた、必要以上にはきはきと、管理人さんに尋ねた。
機嫌よさげに頷いたのを見届けて、二人で道路を渡り、土手を登った。
「うわぁ…。」
「ね。いい景色だろ。」
大きな川が二手に分かれて、南へ西へと伸びている。
その上に、ひろびろと、大空が広がっている。
高い建物はひとつもなく、目の前をさえぎるものは何もない。
冬の朝の空気は澄んでいて、海までも、見渡せそうだ。
「せいせいするだろ。」
「…うん。きもちいーな…。」
人生には、扉を開けねばならないときがある。
その度に、勇気を奮い、扉を叩き、自ら開いてきたつもりだった。
だけど、俺がまったく思いもしないところにも、扉があって。
それを開いては、新しい世界を見せてくれるのは。
英二、君なんだ。
思わず、彼を、後ろからぎゅうと抱きしめた。
管理人さんが鍬を取り落とした音が、背後で響いた。
「…なに?もしかして、感動しちゃった?」
「うん。しちゃった…。」
「意外に、感動しぃなんだよなぁー。」
「はは。ボルシチ、楽しみだな。」
「うん。缶詰じゃないビーツ、使うのはじめて。うまくいくかな。」
「きっと、大丈夫だよ。」
「うん。」
きっと、大丈夫。
きっと、うんと、おいしいのが、できる。
君といれば。
きっと、おいしい人生だから。
end
注:冒頭のなぞなぞの答えは、農作業、です…