ミラクル・タブレット3

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跡部家のリムジンが角をゆるりと曲がる。

日曜の早朝とはいえ、街には散歩やジョギング中の住民の姿がちらほらと見えた。
道に立ち止まった人々は、みな一様に目を丸くしている。
こんなに巨大で豪奢な車が住宅街に現れたのだから当然だろう。

「…この車、目立ちすぎませんか?」

失礼とは思いつつ、英二は尋ねてみた。
何しろ、明け方に裏口から病院を出ろと言われたのだ。
人目についてはいけないということだと思ったのであるが。

「配慮が足りませんで…。派手でないお色にさせていただいたつもりでしたが…」

跡部が「じい」と呼んでいた年配の男性は、恐縮した様子で額をハンカチで押さえた。

英二は、この車の色が濃紺であったことを思い出した。
なるほど、色としては確かに派手ではない。
ならば、普段、跡部景吾はいったいどんな色の車に乗っているのだろう。
白だろうか、あるいは赤であるかもしれない。


車は英二の家の前につけられた。
運転手が車のドアを開ける。

「いえ、こちらこそ送ってもらったのに失礼なことを言ってすみません。それから、入院費も。ありがとうございました」

英二は丁寧に礼を言い、リムジンを降りた。
リムジンは巨体を滑らすように静かに走り出した。
それを見送ると、英二は懐かしいという思いで自宅の門を開けた。

「…ただいま」

誰もいない玄関で、英二は奥の居間に向かって声を上げた。
ただし、声はいつもよりも控えめだった。
心配をかけた、という引け目があった。

「…英二!?」

出かける支度をした上の姉が、初めに顔を出した。

「おかあさーん!英二が帰って来た!」

「英二!」
「英二!」

母と祖母が泡食った様子で走り出て来た。

「かあちゃん、ばあちゃん…心配かけてごめん」

「…!」

母と祖母は二人で顔を見合わせた。

「戻ってる!」
「ばあちゃんって、言った!!」

祖母は涙ぐみ、着ていたエプロンの裾をたぐりよせるようにして握りしめた。

「…?わかるよぉ…」

母が近づくと、腕を回して英二に抱きついた。

「もう、バカな子!みんなに心配かけて…」

奇跡の生還、というような母と祖母の歓迎ぶりに、一体どんなひどい事故だったのだろうと英二は思った。




☆☆☆☆☆




朝食は、昨晩の残りのカレーだった。

祖母の食事で育った英二にとって、数少ない「母の味」である。
温かいご飯に冷たいカレーの塊を載せると、箸で茶碗の中をかき混ぜた。
英二は、家に帰ってきたのだとしみじみと感じた。

英二がカレーを掻き込む間、傍らで祖母が、英二が記憶をなくした時の話を繰り返しした。
もう何度も聞いたわよ、と姉が言う。
母は笑って聞いている。
英二は驚きつつ、また恥ずかしい思いで祖母の話を聞いた。


事故に遭ったのが前日の昼過ぎ、そして気がついたのが午前一時過ぎ。
約12時間の間、気を失っていたのだと思っていた。
しかしその間に、自分は意識を取り戻し検査を受け、祖母と大石と会話を交わしていた。
それらの記憶は全くなかった。

「ずっと思い出せないままなのかな…」

心細い気分で英二がつぶやく。
記憶の一部がないということの、なんと落ち着かないことか。
たとえて言うならば、ある人の顔は思い出せるのに名前が思い出せない、ここまで出かかっているのに、ということがある。
それがもっとずっと進んだ感じ、と英二は皆に説明した。

「すごいわね、韓流ドラマみたい」
「茶化さないで」

姉が呆れたようにこぼした言葉を、母がたしなめた。

「まあ、おおかたの記憶が戻ったのだから、問題ないさ」

祖母がとりなした。


母に謝りを入れ、英二は携帯電話を返してもらった。
切ってあった電源を入れ、メールと着信を確認する。
たくさんのメールが届いていた。

「誕生日おめでとう」
ほとんどのメールにはその言葉が書かれていた。

メールを確認し、返信を打った。
大石からのメールはなかった。
そうしながら、英二はいつの間にか眠ってしまった。



次に英二が目覚めたのは昼少し前だった。

なんという休日だろう。
それ以上に、なんという誕生日だろうか。
少々めまいを覚えたが、悲しくはならなかった。

英二は出かける支度を始めた。

「出かけるのかい」

祖母が階下から大声で尋ねた。

「自転車!大石の塾の前に置きっぱなしだから!」

応えて英二も大声を上げた。

「少し落ち着いてからでもいいんじゃないの?自転車なんて…」

母が階段を上がって来た。

「だって、ないと不便でしょ」

ジーンズに脚を通しながら英二が答える。

「ケーキ、どうする?」

母の問いに英二はぽかんとした表情で見返した。

「ケーキって?」
「あんた、誕生日じゃない。丸いのがいいんでしょ?」

「要らないよ」

英二はジーンズの後ろポケットに財布をねじ込んだ。

「食欲ないの?」

「ないことないよ。カレーおかわりしてるんだから」

言いながら、祖母も階段を上がってきた。

「遠慮なんて、柄にもないことするんじゃないよ」

そう言って祖母が笑った。

「してないって。今年はいいや」

英二は携帯電話を充電器から外し、ダウンジャケットのポケットに収める。
同時に、ポケットの中に自転車のカギが入っていることを確認した。

「…じゃあ、オムライス作るね」
「ん、ありがと」

釈然としない表情で、母と祖母は目を合わせた。
毎年、ケーキケーキとうるさい末っ子の変化に戸惑う二人だった。




☆☆☆☆☆




大石の塾は模擬試験の最中だった。

自転車置き場には人気がない。
奥の方に、置きっぱなしの自転車が十台前後、まとめて置かれていた。
英二の自転車もその中にあった。

両隣の自転車を動かさないと、自分の自転車を出せそうにない。
ともかく、と英二は腕を伸ばし、自転車の鍵穴にカギを差し込んで回した。

その時、ガタガタと机と椅子が動く音が一斉にした。
テストが終わったのだ、と英二は思った。

自転車を倒さないように、少しずつ寄せ、自分が入る分のスペースを作った。
一台が倒れたら将棋倒しになるのは明白だから、慎重にならざるをえない。

テスト後の学生たちの、解放感に満ちた騒ぎ声が響いている。

英二は注意深い動作で、自分の自転車を無事に引き出した。

ほっとして、塾舎から跳び出してくる学生たちに目を遣った。
こうして待っていれば、大石は出て来るだろうか。
ふと、英二はそんな気分になり、苦労して出した自転車を再び置き場に戻した。

建物の陰に隠れて、英二は待った。
今回は長い時間待たずとも、大石は現れた。
また、例の中三にしては大人びた少年と二人連れである。

連れの少年が参考書を開き、指さして何か話している。
大石は、うんうんと頷いて何か返事したようである。

もちろん英二の場所までは何も聞こえてこない。
当たり前だが、そのことが悔しかった。
手に入らないものを手に入れたいと願うような、もどかしい気分にさいなまれた。


こうして少し離れた所から見ると、大石はいつもと違って英二の目には映った。

背は高すぎず低すぎず、すらりと手足が長く、面差しは端正ながら冷たくない。
柔和で、どこか品がある。
テニスコートの外で大石を見守る女子生徒の気分が、初めて英二にもわかった。

英二はおもむろに携帯電話を取り出して、メールを送った。

「退院したよ!!元気だから心配しないで!いろいろゴメンネ…」

宛先はむろん大石である。
絵文字を選ぶ余裕もなく、文字だけを打ち込みすぐさま送信した。

英二は大石の様子を見守る。
思わずごくりとつばを飲み込んだ。

大石はジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
取り出した携帯電話を開くと、何か一言少年に残し、はじかれたように駆け出した。

「え?うちに来る気…?」

英二は、いったん戻した自転車を引き出して跳び乗った。


大石は電車で来るから、20分はかかるはずである。
こちらが早く着くだろうから、焦る必要はない。
英二はそう思うと、自転車をこぐのも上の空になった。

建物の陰から覗き見た大石の姿を思い浮かべた。
大石とあの少年は何を話していたんだろうと考えた。
勉強のことに決まっている。
テストに出た問題の答えか、あるいは解き方か。
内容に興味はなかったが、英二はそれを、大石の声で想像した。

英二が自宅に着くと、案の定、大石はまだ到着していなかった。
我に返ってみれば、大石が見たメールが英二のものであったという保証はどこにもないのである。
それを自分の所に来るのだと思い込んで、あわてて帰って来たのだが、早とちりかもしれないのである。

英二は自嘲しつつ、家の門扉を開けて自転車を入れた。

「英二」

背後から呼び止める声は、大石のものだった。
先ほど想像したよりも、幾分甘い。
大石の声が、これほどしっとりと水気を含んでいるとは、今まで気づかなかった。
それは、染み入るように英二の心になじんだ。

どうしてか、英二は振り向くのが怖かった。
大石の顔を見るのが怖かったのか、自分の顔を見られるのが怖かったのかはわからない。
ともあれ、怖いのは一瞬のことだった。

振り向けば、先ほどの、柔らかい面差しの少年がそこにたたずんでいた。

「大石…」
「俺がわかるの?」

甘く、水気のある声で、大石はつぶやいた。

「ごめん、俺…。あれ、あれは俺の気持ちじゃないって…」

大石、わかるよな?、英二はそう続けたかったが言葉が続いて行かなかった。
涙を飲み込んだら、言葉までも飲み込んでしまった。

大石の顔がくしゃっとゆがんだと思ったら、英二は二つの腕の中に抱きしめられていた。

「よかった」

大石は泣いているようだった。
大石が泣いてくれたおかげで、英二の涙はかえって引っ込んだ。

「…あんなこと、俺は思ってないから」

言いたかった言葉が英二の喉を通過する。

「よかった」

大石は、英二の言葉には頓着していないようだった。
甘く湿った吐息と声が、英二の耳元をくすぐる。

大石は、しなだれかかるように自分の体重を預けてきた。
英二はそれを受け止めながら、女の子だったら倒れちゃうよ、と内心苦笑した。

「玄関先だよ…」

英二はとがめたものの、その声は子猫をあやすように甘かった。
大石の声が伝染っちゃった、と英二は思った。
それから、やっぱりケーキは要らないや、と思った。




まだ続きます♪よろしければご報告お願いします^^




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