11月28日
英二は重いまぶたを開き、まばたきを一つした。
高い天井。
自分の部屋ではない、と英二は思った。
いつもは二段ベッドの上に寝ているのだから、天井はもっとずっと近いのだ。
カーテンの隙間から月明りが差し込んでいる。
白いシーツと白い掛け布団。
天井も壁も、ベッドのスチールも白い。
病院の個室のようだ。
横になったまま頭を巡らすと、壁に無機質な掛け時計がかかっていた。
時計の針は一時を指している。
何がどうなって、普段あまり縁のない病院という場所にいるのか。
英二は記憶を辿ろうとした。
「ああ、そうだ…」
大石を突き飛ばして、振り向きざまに勢いよく駆け出した。
すると車のクラクションの音がしたのだ。
白い乗用車が間近に迫っていた。
その瞬間、それまで経験した様々なことがらが頭の中を廻った。
そしてそのまま投げ飛ばされるように宙を舞った。
「俺、死ななかったんだ…」
よかった、と英二は思った。
子供の頃に、人はみないつか死ぬのだと長兄に言われて、おいおいと泣いた記憶が蘇る。
真っ暗な空間に一人ぼっちで投げ出され誰にも振り向いてもらえない、子供の頃に感じた死のイメージ。
それを思い起こし、英二は身震いを一つした。
手の指を動かし、腕をぶらぶらと振ってみた。
体はどこも痛まなかった。
英二はそろりと床に足を下ろし、スリッパを履いて立ちあがった。
と、体が一瞬沈みこみ、気がついた。
この病室には絨毯が敷いてある。
臙脂色のふかふかの絨毯である。
アキレス腱を伸ばし、肩腿ずつお腹につくほどに上げてみたが、やはりどこも痛くない。
体中を確認しても、包帯の一枚も巻かれていないようだった。
「俺って運がいいのかな…」
そう一人つぶやくと、英二はへへへと笑った。
改めて病室の中を見回してみると、応接用のソファが置かれている。
我ながら身分不相応だ、と英二は思った。
個室に入院するような金銭的余裕が、自分の家にあるとも思えない。
病室には洗面所まで備えられていた。
英二はその前へ行き、鏡に自分を映してみた。
すっかりもとどおり、中学三年生の自分の姿に戻っていた。
時計の針が1時を指しているところから見て、薬の効き目は説明書のとおりに24時間で切れたのだ。
ここが病院ということは疑いなさそうだが、部屋の外に出て確かめてみたくなった。
英二はドアノブに手をかけて回した。
かちりと音がして、それ以上は動かない。
鍵がかけられていた。
「どういうこと…?」
振り返り、部屋の中を見回した。
ベッドのまくら元に電話機が置いてある。
電話機の横に置かれた内線番号表に従って、ナースセンターの番号を押した。
「あのっ」
「はい、どうされましたか?」
「ドアが、開かないんです!」
「…伺いますので、そのままお待ちください」
それだけ告げると電話は切れた。
間もなく、ノックとともに部屋の鍵が開けられ、看護士が二人入って来た。
神妙な表情の二人は顔を見合わせ、年かさと思われる片方の看護士が口を開いた。
「菊丸さん、この部屋にはトイレも洗面所も備えてありますので、外出はお控えください。必要なものがあればお持ちします」
「え?」
「早朝に去る所より迎えが来ますので、裏口からお帰りください。ご自宅までお送りするとのことです」
「えと、あの?去る所って?」
「すみませんが、それ以上は…」
ここまで来て、英二はさすがに気がついた。
この事態には、跡部が絡んでいる。
「その、会計は…」
「お支払い済みです」
「…去る所って、ATBファーマですか?」
「…」
二人の看護士は顔を見合わせて押し黙った。
沈黙が何よりの回答であろう。
「わかりました。朝になったら迎えが来るんですね。それまでおとなしくしています」
英二は聞きわけよく引き下がった。
看護士たちが部屋を出ていくと、ソファに腰掛け考え込んだ。
自分が車にはねられ、病院という公的施設に収容されたことが問題なのだろう。
車の持ち主とも、ATBファーマはすでに示談を済ませているかもしれない。
「MT」は、公にできない、平たく言えば現状未認可、あるいは研究段階の薬なのだろう。
そんなことは英二にも薄々わかっていた。
跡部側近の者たちの手回しの良さも、いまさら驚くほどの話でもない。
それより何より、である。
「ああ〜!」
英二は大きな声をあげて頭を抱えた。
「なんで大石にあんなこと言っちゃったんだ!」
大石とずっとテニスができると思っていた、というのは真実だ。
だけど、大石が青学を出ることについて、英二には異論はない。
それなのに、あんな風に子供っぽく、泣き喚いて自分の感情をぶつけたいだけぶつけるなんて。
「…ふう〜」
溜息をつく。
一年前の自分があんなにも、思い込みが強く独りよがりな子供だったとは予想外だった。
今の自分は、大石の新しい旅立ちを応援したいと心から思っているのに。
心も体も一年前に戻る、聞こえはいいようだが、とんでもない結果が待っていた。
「大石、ショック受けちゃったかな〜…」
英二はぼすんと音を立てて、ソファに寝ころんだ。
☆☆☆☆☆
トゥルルルル…
聞き慣れない機械音に眠りを揺さぶられ、英二は飛び起きた。
ベッドのまくら元で電話機が鳴っている。
「…はい」
「おはようございます。お帰りの準備をなさってください。間もなく迎えの車が到着するとのことです」
「は、はい」
英二は電話を切ると、帰り支度に取り掛かった。
荷物は、小さなメッセンジャーバッグと紙袋に入った着替えだけである。
英二はパジャマを脱ぎながら、気がついた。
真新しいパジャマは、病院のものではないようだ。
家族の誰かが、このパジャマを買って、持ってきてくれたのだろう。
そういうマメなことをするのは、家族の中では祖母だろう、と英二は思った。
事故に遭ったのが前日の昼過ぎ、そして気がついたのが午前一時過ぎ。
約12時間が経過している。
その間に、おそらく事故の時にそばにいた大石が付き添って英二は病院に運び込まれたのだ。
そして、自宅に連絡が入り、祖母がかけつけた。
ここまでは推測であり、英二には全く記憶がなかった。
「大石、心配してるだろうなあ…」
一言、大丈夫だからとメールしたかったが、携帯電話は兄に没収されてしまい、手元にない。
それに、何より早く謝りたかった。
あれは、今の俺が言ったんではない、と言い訳したかった。
病院の通用口から外へ出ると、英二は何かから解放されたような気分で空を見上げた。
明け方の薄墨の空に、紫色の雲がかかって美しい。
寒がりの英二にも、この朝の冷たい空気は清々しく感じられた。
つ…、と車が静かに歩道に寄せられた。
「!」
英二は言葉を失った。
迎えの車とは、濃紺の巨大なリムジンであった。
運転手がドアを開け、車を降りた。
「菊丸様ですね?」
「は、はい…」
運転手は、後ろのドアを開けた。
「どうぞ」
呆然と立ちすくむ英二を、運転手は車に乗り込むよう促した。
中を覗き込むと、広い車内に、電車のボックス席のように、座席が向かい合っている。
年配の男性が、進行方向に背中を向けて座っていた。
英二は、男性の向かい側の席に幾分緊張しながら腰を下ろした。
「初めまして、こんにちは、菊丸さん」
「は、初めまして。あの…?」
「跡部の家の者です。この度は、景吾様があなた様にたいそうなご迷惑をおかけしてしまい…」
「あの!」
「はい?」
「跡部は、…跡部クンは悪くないです!俺がアホだっただけで…イヤ、俺がっつーか昔の俺がアホだったんです!!」
「景吾様を庇ってくださるのはありがたいのですが…」
年配の男性はうっすらと涙を浮かべて、英二に語りかけた。
「景吾様は、人の上に立つことが定められた方でございます。今回のような軽率な行動、年相応だとおっしゃる向きもございましょう。されど、跡部の家に生まれたからには慎まなければなりません」
「はあぁ…」
「人を率いる立場の者が、人命を軽んずるなど言語道断です!」
ポケットから白いハンカチを取りだすと、年配の男性は涙を拭った。
「…失礼。そうそう、景吾様よりお電話です」
「え?あ、どうも」
英二は渡された受話器を手に取った。
携帯電話ではなく、車内備え付けの電話のようである。
「…ったく、じいの奴。よお、えらく待たせるもんだなぁ」
「あ、あとべ〜!」
「…菊丸、おまえ、しくじったらしいな?」
「…!」
しくじった、と言われて、英二は二の句が継げなかった。
「…俺もアホだったけど、あの薬もダメだよ!心も元に戻っちゃったら意味ないじゃん!」
「前からアホだと思ってたが、ホントにアホだな。心っていうのはどこにあると思ってる?」
…跡部の曾祖母は、最晩年、記憶障害を患ったと言う。
家族の誰彼の区別がつかなくなり、曾祖父、祖父、父、そして跡部景吾と、跡部家4代の男たちを混同するようになった。
曾祖母は、ある時は跡部家の厳格な女主人、ある時は初々しい花嫁、そしてまたある時は聡明な女学生として振る舞った。
半世紀以上の時の中を、彼女は自由に行き来したのだ。
そうして、やがて最愛の夫である曾祖父を認識できなくなった。
曽祖父は、曾祖母の記憶を取り戻したいと願った。
記憶の中の自分を、記憶の中の二人の思い出を…
「…あの薬はな、そういう状況の中で生まれたんだ」
「そうだったんだぁ」
「だから、むしろ昔に戻ればいいのは心だけなんだ。しかし、心はどこにある?」
「…どこにあるの?」
「脳だ!つまり、体も昔に戻らなければ、心だって戻れないというわけさ」
「なるほど〜…」
「どうだ?俺様の説明はわかりやすいだろうが?あん?」
気がつくと、車は静かに走り出していた。
モーター音が聞こえず、揺れが全くない。
高級車とはこういうものかと英二は感心した。
「…それにしてもよぉ。大石に薬を飲ませなかったのは失敗だったな」
「だって…」
「あの薬は、大切な人と失われた大切な時を分かち合うために作られたんだ。片方の人間が飲んだって意味ねえよ」
「でも、大切な人に、あんな訳のわかんない薬、飲ませられないって!」
「…おまえ、爽やかに失礼だな」
「…え、失礼だった?ゴメンね」
電話を切って窓の外を見遣れば、見知った風景が流れていく。
車は英二の自宅の近くまで走って来ていたのだ。
しかし、明け方の風景はどこかよそよそしく、知らない街のようにも見えた。
「たいせつなひと…か」
英二は小さな声でつぶやいてみた。
何気なく使ったこの言葉に、奇妙なひっかかりを覚える。
「たいせつなひと」
もう一度つぶやくと、冷たい指先に血が通い、朝寒の体があたためられるように感じた。
3-2へ続きます♪
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