ミラクル・タブレット2

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受付の女性は、玄関まで出て来て見送ってくれた。
英二は、一度自転車に乗って帰り道を辿り始めたが、すぐに引き返した。
再び塾の建物まで戻ると、正面脇の植え込みの前に座り込んだ。

背中に背負った小さめのメッセンジャーバッグのひもをたぐりよせる。
バッグの中には、例の薬が一錠、「MT お薬の説明」の用紙、跡部からのバースディカードが入れてあった。

跡部からのバースディカードを開いて眺めた。
「昔に戻る」ということの意味が、英二にはやっとわかりかけていた。

一年後の自分たちの身の上には、いくつかの変化が起きている。
それは当然だろう。
時間は過ぎ去り行くものだ。
止めることなどできやしない。
体は大きくなるし、心だって変わるだろう。
それでも、変わらないものがあると英二は信じていたかった。


三時間近くが経ち、初冬の冷たい空気は英二の体温を奪っていた。
寒さに弱い英二だが、この日は帰ろうとは思わなかった。

ガタガタと机や椅子が動く音と、奇声にも似たような学生の大声が響いた。
午後の授業が終わったらしい。
学生たちは口々に喋りながら、駆け出すように走り出て来る。

大石はなかなか出て来なかった。
先生に質問でもしているのかもしれない。
英二は粘り強く待った。

大石は、一人の少年と話しながら出て来た。
英二の知らないその少年は、落ち着いた、思慮深い雰囲気を持っていた。
大石が遠くへ行ってしまうような気がして、英二は後先考えずに駆け出した。

英二は、大石の背後から腕をぐいと引いた。
何か言おうにも、喉がつまって何も言えなかった。

振り向いた大石は一瞬ぎょっとしたように目を見開いて、それから言った。

「…英二、どうしたの?」

大石の声は落ち着いていて、大人の声だと思った。
英二は、涙がこみ上げそうになるのをぐっとこらえた。

「後輩?」
思慮深い雰囲気の少年が、やはり落ち着いた声で尋ねた。

「…うん、まあ」
「先行くよ。また明日」
「ああ、ごめんな。また明日」


「…何が、あったの?」
大石は、再び落ち着いた声で英二に語りかけるように尋ねた。

「大石、全然びっくりしないからつまんにゃいよ…」
涙のかわりにふりしぼった一言だった。

「びっくりしたよ。それに、英二、泣いてるし」
「うそ!泣いてにゃいし…」

本当に涙の一滴もこぼしていないのに、と英二は心外に思った。

「これ、飲んだんだ」
英二は、「MT お薬の説明」と書かれた紙を大石に渡した。

大石は薬の能書きをじっくりと読み込むと、小さくため息をついた。

「…うん。そうか」
「ほら!びっくりしにゃい!!」
「…びっくりしすぎて、口も利けないんだよ…」

「…塾、行ってるの?」
「ああ…」
「なんで?」
「…うん。俺、青学を出るよ」

すでに英二にもわかりきった一言を、大石は言葉を飾ることなく答えた。

「…ヤだよ」
英二の瞳から、こらえていた涙がこぼれ落ちた。

「ヤだよ、俺。大石とテニスしたいのに、もっと、もっと!」
「英二…」

「俺は、ずっと、ずっと大石とテニスできるって、思ってたのに…俺は…!」
「ごめんな…ごめん…」

そう考えていたのは自分だけであったという事実に、英二の視界は涙で歪んだ。
鼻水まで溢れだしてきて、英二は子供のように鼻の下を袖で拭った。


「勝手かもしれないけれど、英二にはずっとテニスを続けてほしいんだ」

臆面もなく告げる顔に無性に腹が立ち、英二は大石を両手で突き飛ばした。

「バカ石!!」

大石の体は無抵抗に植え込みの中へ倒れ込んだ。
英二は反対の方向へと振り返り、駆け出した。

英二の右手からブーっとクラクションが鳴らされた。
英二がその方向を見遣ると、白い乗用車がすでに間近に迫っていた。

逃れようもなく、英二の体は宙を舞い、5メートルほど前方に投げ飛ばされた。

通りは突如として騒然となり、大勢の人間が自分をめがけて駆け寄って来るのを英二は感じた。

その中に大石の声があるだろうかと、英二は遠ざかる意識の中で探していた。




☆☆☆☆☆




「英二!」
「英二!!」

英二が瞼を開くと、タマゴのようにつるんとした顔立ちの少年と、おばあさんが見えた。

タマゴの少年がナースコールのボタンを押すと、看護士と医師が一人ずつ現れた。

英二は目の前の人間が増えて行くのをぼんやりと眺めていた。



「一時的なものでしょうが…」
「記憶障害ですって?ドラマじゃあるまいし…」

医師の言葉に、おばあさんは、わっと両手で顔を覆った。

「…一時的って、どのくらいでしょう?」
「それはまちまちです。小一時間ほどで戻る場合もありますし、数年かかる場合も…。なんとも言えません」
「そんな…」

英二は相変わらず焦点の定まらない頭を巡らせていたが、どうやら自分が「英二」で、そして、話題の中心であるということはわかってきた。

「それでも、外傷がなかったのは本当に幸いなことですよ」
「そうですね…」
「脳波等の検査の結果は来週になりますが、明日にでも退院できるでしょう」
「記憶がないのに退院しろとおっしゃるんですか?」
「病院の中にいるより、むしろ外で刺激を受けた方が記憶回復のためにはいいのですよ」

二人のやり取りから、おばあさんが自分の祖母であることは推測できた。
そうすると、自分の隣にいるこの少年は誰だろうかと英二は思った。


おばあさんが会計を済ませている間、二人は待合室の長椅子に並んで腰かけて待った。
英二は思い切って少年に問いかけた。

「あの、あなたは俺の…?」
「…」
「…兄さん?」

少年は口をつぐんで何も答えなかった。
おそらく違ったのだろう。
苦い色を顔に浮かべるから、英二はいたたまれない気分になった。

「えと…すみません…」

膝の上に置いた英二の手の上に、少年の手が重なった。

「ごめん、英二」
「…いえ、その」

謝られると、一層いたたまれない気分は増した。
何しろ、少年の謝罪の理由は、まったく記憶に残っていないのだから。

「…本当に、怪我がなくてよかった…」
「あ、ありがとうございます…」
「英二は、選手として、もっともっと進化するはずなんだから…」
「はあ…」

「俺は、英二に甘えていたのかもしれないな…」
少年は、自嘲気味に口元をゆがめた。

何を言われているのか、英二にはさっぱり見当がつかなかった。
わかるのは、少年の悔恨が深いことくらいのものだった。
ただ、重ねられた手は大きく温かく、心地良いのがとても不思議だった。


「俺が英二の何かはわからないけれど…」
少年は、重ねた手にわずかに力を込めた。

「…英二は、俺の一番大切な人だ」
きっぱりと言い切って、英二の瞳を見つめた。

英二はどぎまぎとし、視線から逃れるように目を伏せた。

「じゃ、じゃあ、あなたは俺の一番大切な人、ってことですか?」
瞼をぎゅっと閉じたままで、英二は尋ねてみた。

「そうならばいいと願っているけれど…」

英二がおそるおそる瞼を上げると、少年は夢見るような表情で遠くを見遣っていた。




☆☆☆☆☆




病院の消灯時間は早かったが、英二は吸い込まれるように眠りについた。
そして、夢を見た。


英二は、あの少年とともに、大きな吹き抜けのある古い洋館にいた。

さまざまな美術品が展示されていた。

少年は、自分を「英二」と呼んだ。
英二も、少年の名前を呼びたかったが、思い出せなかった。

美術品の中で印象的だったのは、何と言っても数々の美しい絵画だった。

洋館を出ると、少年は尋ねてきた。
「どれが一番よかった?」

「ええと、あの絵!」
英二は画家の名前を告げようと思ったのだが、全く思いだせなかった。
知らないわけではなく、よく聞く有名な名前である。

「ええと、ええとね…」
喉元まで出かかっているのに、全く口からは出て来ない。
英二は、歯がゆくもどかしい気分にさいなまれた。

「どんな絵だった?」
「チューしそうなやつ!男の人が宙に浮いていて…」

「ああ、シャガールか」
「あっ、それ、それ!うわ、なんかスッキリした…」
「はは。俺もあの絵が一番好きだなあ…」

そこで、英二は夢から醒めた。

英二が語った少しの手掛かりで、少年はどの絵かを了解し、画家の名前を言い当てた。
それによって、奇妙な爽快感が残った夢だった。


あの少年が夢に出て来たと思うと、英二は先ほどのようにどきまぎとした。
少年の名は、祖母とのやりとりの中で「おおいし君」であることがわかっていた。

「おおいし君」は、自分に言ったのだ。
一番大切な人、と。
なんの躊躇もなく。

「一番大切な人」
英二は、その言葉を幾度も反芻した。
そのたびごとに、胸の奥がじんわりと温かくなるようだった。


英二はふと思いつき、ベッドから抜け出て、スリッパに足を突っ込んだ。
スリッパの中はひんやりと冷えていて、背中にゾクゾクと寒気が走った。
相部屋を仕切るカーテンを、音を立てないように気をつけながらずらして様子を窺う。
時計が、11時30分を指している。

英二は、月明りを頼りに、自分の荷物を漁り始めた。
メッセンジャーバッグの中、パンツや上着のポケットの中…
「おおいし君」の手掛かりを探したかったのだ。

一番確認したかった携帯電話は、どこを探してもなかった。
その代わり、透明なプラスチックケースに入った薬が一錠と、その能書き。
そして、ひと目で上質な紙でできているとわかるバースディカードが出てきた。

カードには、「パートナーと昔に戻りやがれ」と書いてあった。
英二は、体が熱くなるのを感じた。
パートナーとは、おそらく「おおいし君」のことだろう。
きっと自分は「おおいし君」と何かあって仲違いしたのだ。
そして、このカードを書いた人物は自分たちが仲直りをすることを望んでいるのだ。

「なんだ…」
英二は、つぶやいて頬を染めた。
たぶん、彼は、俺の「一番大切な人」なのだ。

大きくて温かい手。
心まで包み込まれるように安心できた。

きっぱりと言い切った時の、涼やかな目元。
遠くを望んでいる時の、夢見るような眼差し。

ちょっと見たことがない髪型だったけれど、それがなんだろう。
彼は男で、俺も男だけれど、それがなんだというのだ。
「一番大切な人」という言葉と、安堵とをくれる、それ以上のものが必要だろうか。
ほんの少ししか知らないはずの「おおいし君」のことを思うだけで、英二の胸はどきどきと高鳴るのだった。


「あれ…?」
手の指の先がピリピリと痺れ出して、英二は指先を見詰めた。

痺れは、足の指の先にも起こったかと思うとすぐに、ずきんと衝撃に似た痛みへと変化した。
英二は足の先をかばうように、思わず冷たい床へ座り込んだ。
口も舌も動かすことはできず、代わりに吐く息がはあはあと荒くなっていく。
床にへたり込み、すがるものを探して、相部屋を仕切るカーテンの先を握った。
パンと大きな音を立ててカーテンがレールから外れ、だらしなく垂れさがる。

「…おい!大丈夫か?」
「誰か、ナースコール!」
相部屋の入院患者たちが騒ぐ声が、遠くに聞こえる。

英二は、上半身を床に打ち付けて転がり、もがくのをやめた。
絶え間ない痛みから逃れるように、英二は失神していた。





つづく

トンデモ展開陳謝…
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