10か月 2
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教員の忘年会というものは、やたらと早く始まるものらしく、8時過ぎにはお開きになってしまった。
俺は、気を遣いまくっていたのもあり、ゆっくり飲み直したいと思った。
「一柳先生、この後、付き合いません?」
「ごめん。今日は、パス。」
「ちぇーっ。最近、付き合い悪いっすよね。」
「うん。だよな。ごめん。」
尊敬する恩師、一柳先生と俺は、今や同僚だ。
とはいえ、俺は新人で、しがない学卒の非常勤講師。
立場は違えど教え子と言うこともあり、一緒に酒を酌み交わす間柄になっていた。
たいてい、俺が一方的に悩みと愚痴とをまくし立てる、それがお決まりだったけれど。
飲み直す店を探していると、以前に後輩の桃城と訪れた店が、全く違う名前に変わっているのに気がついた。
以前もバーだったが、看板に貼られたメニューによれば価格帯は若干高めになっている。
学生は少なそうだと踏んで、地下の階段を降りた。
店の扉からして、佇まいは以前とだいぶ異なっていた。
扉を開くと、明かりを暗くした部屋の中は思いのほかの賑わいだった。
客層は思ったよりも若めで30代位までという感じだったが、学生然とした客はいなかった。
オーク調の板張りの壁の店は、机や椅子も全て同じような趣味で統一されていた。
これなら落ち着いて飲み直せそうだと思い、後ろ手に扉を閉めた。
カウンターに座ることにして、店の一番奥まで歩みを進めた。
年若いバーテンダーが、カウンターに腰掛けた女性客の相手をしていた。
あろうことか、女性客はバーテンダーを口説いていた。
お邪魔だったかと、他の座席を探すため首を巡らせた。
「初めてでいらっしゃいますよね?」
バーテンダーが、すかさず声をかけてきた。
振り返ると、彼は、酒を出す店には不似合いなくらい、柔和な微笑を浮かべていた。
それが、優くんとの出会いだった。
シングルモルトの銘柄を指定して、レモンペリエで割ってもらった。
赤みがかった琥珀色の液体が、淡いばら色に変わる。
氷は入れないでとお願いすると、バーテンダーは気を効かせてシャンパングラスに注いでくれた。
「ドンペリみたい。」
俺が言うと、バーテンダーは微笑んだ。
こうして飲めば、アルコール度数はビールと同程度になる。
まさにシャンパンのような爽快感がたまらない、今の気分にぴったりの飲み方なのだ。
一柳先生の真似をして、俺もウィスキーを嗜むようになった。
だけど、ストレートやロックは、俺にはまだキツすぎて、正直、味もよくわからなかったりする。
初心者向けの銘柄とともに俺に合った飲み方を、先生が教えてくれたのだ。
一口喉を通すと、たちまち華やかな香りがはじけた。
ストレートで香りだけ嗅ぐと、花の蜜のような甘い香りがする銘柄だ。
スモーキィなフレーバーなどは、俺にとってまだまだ遠い道のりなのだ。
「お洒落な飲み方をご存知ですね。」
「上司に教わったんです。俺は、シングルモルト1年生ですから。」
「お仕事帰りですか?サラリーマン…ではなさそうですね…?」
「ええ。…教員です。非常勤講師ですけど。」
気恥ずかしさをもって、回答した。
教員になってはじめて、自分が教員であると告白することの居たたまれなさを知った俺だった。
世間が期待するイメージと自分自身とのギャップが、恥ずかしいのだ。
「先生?すごいですね。」などという浮ついた挨拶を聞くのが嫌だった。
すごくもなんともないことは、自分が一番わかっている。
「あの、非常勤って、なんとかやっていけます?実家じゃなくても。」
「どうでしょう。私は実家なもので。週4以下だと難しいでしょうね。」
「ですよね。予備校とかでは教えていますか?」
「いえ、部活動のコーチをしていますから。一応、指導手当てが出るんです…」
優くんの反応は、普通の人とは少し違うものだった。
すぐに、彼も教員志望なのだとわかった。
体育の先生になりたいそうだが、大学院を休学中ということだった。
「休学って、何かあったんですか?」
「…いろいろ、迷いの多い人生で…。」
そうして、曖昧な微笑を浮かべた。
踏み込み過ぎてしまったか、と思った。
カウンターの女性客は飲み過ぎて潰れてしまった。
彼女を気遣いつつも、バーテンダーは、俺のくだらない話にいちいち興味深げに反応してくれた。
そうして、勘定を済ませて店を出る頃には、俺は彼についてある程度の知識を得ていた。
俺の話の合い間合い間に、実家のことから学校のことから、彼は開けっ広げと言っていいくらいに自分のことも語ってくれたのだった。
彼は、少なくとも、話し相手になれるという意味で優秀なバーテンダーだとわかった。
それ以来、俺は彼のいる店の常連客の一人となった。
☆☆☆
「ここ、31日まで?」
「ええ。年始は4日からの営業です。」
「そーなんだ。つまんないな。」
「すみません。」
優くんはにっこりと笑った。
営業スマイルであっても、魅力的な微笑みだ。
「優くんは、実家に帰るの?」
「実家、ですか。帰りにくくて…」
微笑みはたちまちに、曖昧のベールで包まれた。
優くんの実家は、青春台から電車に乗ってひたすら東へ東へ行った、東京のはずれにある。
電車で1時間足らずの場所に、居たくもなければ帰りたくもない、そういう心境になることもあるだろう。
「じゃあ、彼女と年越し?」
「いま情緒不安定で。別れたいって言われちゃいました。僕は納得してないんですけど…」
それに、1日の朝まで営業いたしますから大晦日の夜もお越しくださいね、と微笑って付け加えた。
どこのカップルもいろいろあるのだ。
思わず、突っ込んで聞いてみたくなった。
「情緒不安定って?」
「手術をひかえていて。」
「大変だ。」
「ええ。手術自体も不安なところに、僕が反対しちゃったものだから。」
「反対?手術に?」
すこしの逡巡ののちに、優くんは教えてくれた。
「性転換手術、なんです。」
絶句して、グラスを手元に引き寄せた。
口まで運ぼうと思ったが、うまく出来ない気がしてやめた。
「必要ないって反対したんです。姿かたちなんて、僕にとっては重要じゃないから。だけど、あの子にとっては、女の子になるってことが、何より重要なことなんですよね。」
「…価値観の齟齬ってことか。姿かたちが重要じゃないなら、女の子になったっていいんじゃないの。」
「そうなんですけどね…。体が変わると心も変わってしまうんじゃないかとか思ってしまって。」
優くんは、苦笑した。
他人が思うほど、単純な話ではないのだろう。
いくら姿かたちが関係ないといっても、優くんが好きになった「彼女」は、男の体をしていたのだ。
そうして、その体の中におさまった心は、女の子のそれで。
この優しげな人はきっと、そういう危うい存在の「彼女」を放っておけなかったのだろう。
「…すみません。お客さまにこんな話…。びっくりされたでしょう…?」
「そんなことないよ。俺もさ、男と付き合ってたから。」
優くんは、カウンターを拭いていた手を止めて、俺の目を見た。
鳩が豆鉄砲喰らった、というのはこういう表情か、と思った。
「はは。カミングアウトしちゃった…。」
優くんは、やわらかく笑うと言った。
「…話、聞かせてください。」
優くんは、本当に優れた聞き手だった。
俺は、大石との出会いから別れまで、洗いざらい話してしまった。
「いまどき、ありえないです。身を引くなんて。」
…まったく、その通りだ。
「僕だったら、絶対、手放さない。思い合っているのに手放すなんて、馬鹿だ。」
…俺だって、そう思っていたのだ。
「そんな風に、想われてみたいな。」
そう言った笑顔は、なんだか淋しそうだった。
彼もまた、諦め切れない人がいるのだから。
そうして話をしてしまうと、なんだかやけにすっきりとした気分になった。
長いこと隠し通して来たせいもあったのだろう。
別れを決心するまでの気持ちを語りながら、俺は妙な爽快感を感じていた。
それから、話を聞いてくれた感謝から、彼に対してこれまで以上の親しみを持ちはじめていた。
☆☆☆
年が明けてすぐに、青学テニス部恒例の「打ち初め」があった。
要は新年会なのだが、卒業生と現役の部員との交流の場でもある。
これが「打ち初め」で「打ち終わり」になってしまう忙しいOBも多く、彼らは正月休み中のこの行事を楽しみにしている。
そのため、寒い中でも毎年賑わいをみせる。
「まだ、より戻してなかったんだね。」
不二が近づいて来て、俺の耳元でささやいた。
大石は、卒業以来初めての、「打ち初め」欠席だった。
無言で不二の顔を見返した。
よりが戻って当然というような口ぶりに、抗議の気持ちを込めたつもりで。
だけど、うまくいかなかった。
この親友には弱音を吐いてしまいそうだと思って、視線を外した。
「英二、大丈夫?ずいぶん痩せたみたい。」
「…大丈夫。環境にまだ慣れないだけ。仕事も光が見えてきたし。」
不二は、ため息を一つついただけで、それ以上何も言わなかった。
程なくして、俺は毎晩のように優くんのいる店で飲み、週末はそのまま彼のうちへ行って二人で飲み直すようになった。
そのうち、週末以外も、職場に少しだけ近いというのを言い訳に泊まるようになった。
別に、恋愛関係というわけじゃない。
むしろ、それがないからこそ落ち着けるのだ。
たびたび同じベッドの上で眠ったが、なにも起きるはずがなかった。
冬の夜、人の温もりはとても心地良くて、眠りに落ちるのも早かった。
俺は、夏以来、久しぶりに深く眠った。
傷があるもの同士、慰めあっているだけなのだろう。
人は、人の温もりなしに生きていくことはできないのだ。
優くんは文句も言わず、俺の仕事の愚痴や悩みを聞いてくれた。
温めたブランデーを舐めながら、時には一つふとんの中で、俺は語り、彼は耳を傾けた。
人の話を聞くのが好きなんだ、仕事にしようと思ってるくらい、と彼は微笑った。
優くんには、大石の話もした。
よく透る、澄んだ声が好きだった。
大石は、優しいし人当たりも良いけれど、自分の意志は頑固に曲げない人だった。
それが一番良いという結論に至るまで、既に考え抜いていたからだろうか。
だから、彼の声は、時に凛々しく毅然としていたのかもしれない。
自分にはない彼の美徳が、初めは疎ましく、そのうち好ましく。
時々、やっぱりどうにも疎ましく。
きちんと整えられたものは、乱してやりたくなるのが人情というものだ。
そうやって、彼が案外とあっさり乱れることを知り、その乱れ方も思った以上に激しいことを知り。
耳元で睦言を囁く、甘やかな声を知り。
呻くように俺の名前を呟く、獣めいた熱さを知り。
だけど、情事を終えて日常に戻ると、彼の声は相変わらず凛と澄んで響くのだった。
初めて大石と肌を合わせた時、違和感のなさは不思議なくらいだった。
わずかに汗ばんだ肌と肌は、しっとりと吸いつきあって、一つに溶け合う予感に胸高鳴らせた。
二人の汗と体液が混じり合った匂いも、ごく自然に受け入れられた。
正反対の二人だと、長年言われてきたのに。
まるで母の胎内から一緒にいた双子の兄弟のように、二人が抱き合うのは当たり前のことだと思えた。
だけど、よくよく思い返せば、それは予想できたことだった。
電車やバスの中でも、練習や試合の最中でも、触れ合った肌の心地よさには気がついていた。
彼の汗の匂いはよく知っていたけれど、嫌だと思ったことは一度もなかった。
それは、彼を好きなのだと気が付く、ずっと前からのことだ。
彼の心とか精神とか、いろんな美徳をあげることはできても。
すなわちそれが彼を好きだということに繋がるかというと、よくわからない。
触覚とか、嗅覚とか、聴覚とか、もっと原始的な感覚でもって、彼を欲していたのは確かだけれど。
そして、その感覚を通して、俺は彼の心をも嗅ぎ取っていた。
俺の細胞は大石の気持ちを知っていた。
お互いに好きだと告げるずっと以前から、もしかしたら、俺が彼を好きだと気付く以前から。
そうして、応えようとした。
彼の温もりがくれる心地よさは、もう手にすることはできないけれど。
☆☆☆☆☆☆
4月の頭、俺は久しぶりに実家に戻った。
自宅のパソコンのを開くと、プロバイダアドレスに不二からのメールが届いていた。
日付は2週間前のものだった。
教員になってからはノートパソコンを使うことが多くなり、そのアドレスも不二は知っているはずだった。
メールの内容は、俺の春休みの間に一度会おうというものだった。
不二はいくつかの日付をあげて、俺の都合の良い日を連絡するよう書いていた。
だけど、指定された日付はどれも過ぎてしまっていた。
結局、不二とはゴールデンウイークの直前に会うことになった。
待ち合わせ場所は、地元の駅前だった。
駅は、改装工事の真っ最中で、待ち合わせた出口は塞がれていた。
携帯電話で連絡を取ると、不二は俺を見つけて手を振った。
そして、近付くなり、また痩せたねと心配そうに言った。
「美味しい店に行くから、今日はお腹いっぱい食べるんだよ。」
そう言って、俺の先に立って歩き出した。
駅から南へ下り、公園を通り抜けた先に、その店はあった。
白木の外観が明るい印象の店は、まだ夜というには早い時間にも関わらず、既に賑わいを見せていた。
事前に予約してあったようで、奥まった静かな席に通された。
カジュアルな雰囲気のトラットリアだったが、メニューを見ると京野菜がメインのサラダがあったりして、興味をそそられた。
「野菜は全部無農薬なんだよ。だからトラットリアの割にお高いけれど。安心して。今日は僕がごちそうするから。」
「学生のくせに、なに言ってんの。」
不二は美大の大学院生で、当分独り立ちできそうもない、自分でもそう言っていたのだ。
「実は、スポンサーがいてね。英二が痩せたって、タカさんがずっと心配してたから…。」
その言葉に、不意に涙が込み上げたからうつむいた。
反則だ、と思ったけれど言えなかった。
「お魚も、すごく新鮮なんだ。アンティパストは、カルパッチョでいいかな。」
俺は、無言で頷いた。
カルパッチョの皿が運ばれてきた。
赤身魚と白身魚が載った皿は、なんだか妙にめでたい色合いだった。
今の気分に見事に相反するようで、可笑しかった。
「さあ、食べよう。これ、すごく美味しいよ。」
さわやかな酸味が、食欲を刺激する。
赤身魚と白身魚は、それぞれ鮪と鯛だった。
とろけるような舌ざわりと、こりこりと歯ざわりも新鮮な、対照的な食感。
付け合わせのクレソンの苦みもまた、久しぶりに感じた味覚だった。
この店の料理は、まだアンティパストの段階で、さまざまな味覚の存在を思い出させてくれた。
俺はここ数ヵ月、朝はパンと牛乳、昼はカップラーメン、そして夜はアルコールと少量のつまみしか口にしていなかった。
そうやって、来る日も来る日も、同じものばかり繰り返し食べていたのだ。
食欲を刺激する香りとともに、ペンネ・アラビアータが運ばれてきた。
一口食べて思わず言った。
「…辛い。」
「そりゃそうさ。アラビアータだもの。」
不二は愉快そうに笑った。
俺もつられて笑った。
辛いという味覚もまた、今の俺には新鮮だった。
「…お米、食べたい。」
そう俺が呟くと、不二は顔を輝かせてウェイターを呼んだ。
そして、さんざん悩んだあげく、リゾットを2種類注文した。
「そんなに、入んないよ…。」
「いいの、いいの。」
不二はニコニコと微笑んで、肉料理は何にしようと、メニューをめくった。
運ばれてきたのは、ゴルゴンゾーラチーズのリゾットと、イカスミのリゾットだった。
俺がチーズのリゾットをスプーンですくって口に運ぶのを、不二はうれしそうに眺めていた。
「…美味しい。すごく。」
「だろう?」
不二は満足気に微笑んだ。
その笑顔は、ある記憶を呼び起こした。
まだ、中等部の1年生の頃、テニス部員数人でプラネタリウムへ出かけた。
タカさんと乾が着くまで、大石と二人でフルーツパーラーへ入って待った。
俺は、大石のおごりでフルーツパフェを食べて、有り得ないほどの美味しさに興奮した。
大石はそんな俺を見て、うれしそうに微笑った。
思い出のプラネタリウムは閉館してしまったけれど、再オープンが決まったのだ。
もう、完成したのだろうか。
また行こうねって言ったのに、約束を果たせなかった。
プラネタリウムができたら、もう一度行こうって約束して。
それから。
大石はいつになく真剣な顔になって。
英二が俺の初恋だって、言ったんだ。
俺は、びっくりして。
何も言えなかった。
俺もそうだよ、ってたった一言を、返してあげられなかった。
心の内をすべてさらけ出させて。
全部見せるように強いながら。
そうしておいて、結局彼を裏切った。
ひどいことをした。
最後に、言ってあげればよかった。
俺もそうだったんだよって。
初恋だったんだよって。
彼は、いつか他の誰かと行くのだろうか。
もしかしたら、子供を連れて。
彼のお父さんがしたように。
もし、また地元に帰ってきたら、どこかで会うこともあるかもしれない。
彼はきっと、優しくて思いやりのある素敵な父親になっているだろう。
ばったり会ったら、俺は声をかけるだろう。
子供たちと奥さんに、明るく挨拶するだろう。
彼は最初はちょっと戸惑って、でも、うれしそうに家族を紹介してくれるだろう。
俺は、彼の笑顔を見て、幸せそうな家族を見て、すごくうれしく思うだろう。
その時きっと、俺はまだ一人で。
たぶん、ずっと、一人で。
ずっと一人でいるよ。
ずっと、忘れない。
おまえだけを想い続けるよ。
おまえを裏切った罰ってわけじゃない。
俺がそうしたいからするだけだ。
俺が忘れてしまったら、二人の愛は存在しなかったことになるだろう?
永遠の愛って、あると思う?
俺は、あるわけないって思ってた。
だけど、今は、それがあるって証明してみたいんだ。
チーズのリゾットは、濃厚で滋味に溢れていた。
一方、イカスミのリゾットは、濃縮された旨味が胃にやさしく染み渡るようだった。
気がつくと、俺はイカスミのリゾットをあらかた平らげていた。
こんなにたくさん食べたのは、本当に久しぶりだった。
「もう、お腹いっぱい。」
「ええ!炭水化物と脂質ばっかりじゃない。たん白質もとらなくちゃ。僕がタカさんに怒られちゃうよ…」
不二が抗議めいた声をあげた。
タカさんが怒る、それも、栄養のバランスが悪いと…。
まさか、彼は不二をそうやって、時々叱りつけているのだろうか。
不二が制作中は大学に泊まり込んで、ろくなものを食べていないというのは聞き知っていた。
タカさんが不二を叱るところを想像したら無性に可笑しくなってきて、俺は吹き出した。
それから、声を立ててひとしきり笑った。
「…じゃ、セコンドピアットはパスで、サラダだけもらおう。温野菜のがいいね。生ハムのせてもらえないかリクエストしてみよう。」
不二はウェイターを呼びとめた。
その横顔には、やわらかい微笑みが浮かんでいた。
☆☆☆
エスプレッソにスプーン山盛り一杯の砂糖を入れた。
深みのある味わい、心地よいのど越し。
コーヒーは仕事の合間に飲んでいたはずだけれど、きちんと淹れたものを食後に味わうとこんなに美味しいのだと驚いた。
残念に思いつつ飲みほしたが、心地よい香りの余韻はいつまでも口の中に残った。
「…英二、顔色良くなったみたい。」
「…俺、顔色悪かった?」
「うん。紙みたいな色だった。」
「そう…。」
「ご飯、食べなきゃだめだよ。ちゃんとバランスよく。」
不二は、品のよい仕草で、なみなみとカプチーノがそそがれたカップを口元へ運んだ。
一口飲んで、また口を開いた。
「…うち、戻ったら?」
不二は、やっぱり気がついていた。
「なんか、めんどくさくて…。」
「なにが?」
「いろいろ…。」
「誰のところにいるの?」
優くんの話をすると、不二は会わせろとしつこく言った。
結局、彼の働くバーへ寄って帰ることになった。
夜の公園を通過して、再び混雑する駅前へと戻った。
ガードをくぐり駅の北口に出て、入り組んだ路地を歩いた。
地下への階段を下りて扉を開くと、彼の定位置、一番奥のカウンターの中にいつもの微笑みが見えた。
その瞬間、彼のやわらかな微笑みがほんの一瞬かたくなった。
優くんの視線が、俺の後から入ってきた不二を捉らえた瞬間に。
そうなんだ。
そうだったんだ。
ほんとうは、きっと、とっくに知っていた。
ああ、俺は。
彼を都合よく頼りにしていた。
気持ちもないのに期待させていた。
彼の心の奥底を覗き見るまで、気付かないふりしていた。
彼のくれる温もりだけを求めていた。
温もりとは、贅沢品なのだと、俺は知った。
愛されていなければ、それは、手に入らないものだったのだ…。
10か月2 了