10か月 3
あなたのために
窓をあけ
あなたのために
窓をとぢ
みどりの部屋の
卓のへに
青い花を
さしませう。
あなたのために
窓をあけ
あなたのために
窓をとぢ
みどりの窓の
日あたりに
青い小鳥を
かひませう。
あんまりはやく
幸福がきて
あんまりはやく
幸福がゆかぬやうに
私達は
待ちませう。
☆☆☆☆☆☆
4月も末のこと、不二からメールが届いた。
英二のことで連絡がほしいと、携帯電話の番号と、かけてほしい時間帯が書かれていた。
不二は、俺達が付き合っていたことも、別れたことも、英二から聞いて知っているだろう。
一体何の話なのか、良い話でないのだけは疑いなかった。
悪い予感は的中した。
英二は、男と暮らしているという。
青春台の駅前のバーで、バーテンをしている男。
「今のところは、ほんとに友達みたい。でも、相手は英二に気があるよ。」
突然の話に混乱した俺は口をつぐみ、受話器越しに沈黙を返すしかなかった。
「きみ、全然わかってないみたいだけど。あれで、きみのために身を引いたつもりなんだよ。」
「…身を引いたって?」
やっとのことで、声を絞り出した。
「好きな人には、陽のあたるところを歩いてほしいものじゃない?」
俺のために?
陽のあたるところ、だって?
英二がそんなことを考えたりするだろうか。
激しく、一途に、誰より強く、俺を欲してくれていた。
いつもためらわずに、それを口にして、行動にした。
立ち止まり、後ずさることが似合わない彼が。
「あの子の、考えそうなことだろう?やることなすこと、矛盾してる。」
そう言うと、不二はクスクスと笑った。
そうだ。
英二は。
強くて、もろい。
激しくて、やさしい。
たくましくて、はかなげで。
大胆なくせに、怖がりで。
相反する資質をその中に持ち。
危ういバランスの上に立つ。
どちらに転ぶのかは、本人にもわからない。
周りの人間をはらはらさせて、夢中にさせる。
人間は誰しも、そうした矛盾をはらんだ存在だ。
英二ばかりではない。
ただ、彼はその純粋さゆえに、そうした矛盾を取り繕うのが難しいのだ。
草に置いた朝露のように、ころころと。
屈託なく透明な。
稀有な純粋さ。
そして俺は、きっと他のどんな美徳よりも。
彼の純粋さを愛していた。
いや、今だって、愛している。
きっと、誰よりも。
「あの子のそういうところ、きみが、誰より好きだったんだから。ちゃんと最後まで、責任持ってよね。」
「…ペットか何かみたいに、言わないでくれよ。」
苦笑して答えた。
英二に向けられる、彼の柔らかい微笑みを思い出した。
「…だけど、英二はほんとに的外れだよ。」
「世話がやける子だけど、早く迎えに行ってやってよ。おせっかいで、悪いけど。」
「おせっかいなんかじゃないよ。本当に感謝してる。」
「誕生日プレゼントになったかな?」
「…よく覚えてたな、俺の誕生日なんて。」
「何度も、聞かされたからね。」
受話器を置いてからつくづくと考えた。
英二は、本当に的外れだろうか。
そうじゃない。
彼は、感じていたのだ。
俺の弱さを。
俺は、狡くて、臆病で。
英二のことを曖昧なままにしておきたかったのだ。
甘い約束だけ与えて、時間稼ぎをして。
本当は、腹を括れていなかったのだ。
そんな弱い俺だから、彼は去るよりなかったのだ。
彼のように強くなりたいと、釣り合うだけの男になろうと思っていたのに。
弱い俺だけど。
弱い俺だから。
このまま英二を失って、生きていけはしない。
今覚悟を決めなければ、永遠に彼を取り戻せない。
☆☆☆☆☆☆
ゴールデンウイーク最後の日、俺は青春台の駅に降り立った。
連休中の上、改装工事の真っ最中で、駅は混雑の極みだった。
駅前も大変な人出だったが、足早に喧騒を逃れ、住宅街の細い道を選んで歩いた。
テニス部の練習は、連休中も休みなく行われる代わりに最終日だけは午前中で終了する。
それは俺の現役の頃からずっと変わらない。
英二が男のうちに直接行くか家に立ち寄るかわからないが、とりあえず家の前で待ち伏せてみることにした。
あてが外れたら、不二が教えてくれた例の男の店へ行こうと決めていた。
英二の家へと歩みを速めながら、以前と変わらない家並みに、自然、記憶がよみがえった。
高等部最後の年、夏休み後半に、1日と開けず英二の家へ通った。
夏休みの宿題を手伝うという大義名分を借り、その実、ただ彼と少しでも長く一緒にいたいだけだった。
部活を引退したら、ダブルスペアという特別な関係ではなくなってしまう。
そのまま、普通の友達同士になってしまうのが怖かった。
今日こそは告白するのだと、毎日決意も新たにこの道をたどった。
だけど、俺はだらしなくて、英二に促されてやっと自分の気持ちを伝えたのだ。
何があっても、何をおいても、手放してはならないものがある。
それがなくては、人生自体の意味がなくなるもの。
一生のうちに一つか二つの、人生を左右するもの。
それを手にできるか、できないか。
それほどの、岐路に立っている。
そのことが、あの頃はまだ、わかっていなかった。
だけど、今はちがう。
今追い掛けなければ、だめだ。
今つかまえなければ、だめだ。
もう、ためらっている時間はない。
英二の家の前まで来てから、離れの裏口に回って、彼のおばあさんに声をかけようかと迷った。
きっと、うちに上げて待たせてくれるだろう。
だけど、彼を怒らせてしまうだろう。
そう思いながら、門扉の前の階段に腰掛けた。
しばらくすると、目の前の道にすずめが一羽、二羽と集まってきて遊び始めた。
かばんの中に食べかけの菓子パンが入っているのを思い出して、取り出した。
そして、それをちぎっては投げてやった。
英二は、人を待つ時によくこうして時間を潰したものだった。
いつしか俺も、食べ残した物をかばんや衣服のポケットにしのばせる習慣がついた。
ぼんやりと思い出を辿っていると、自転車のブレーキ音とともにすずめが飛び立った。
顔を上げると、そこに英二が立っていた。
驚いたのだろう、瞳を見開いて、まばたきもせずにこちらを見つめていた。
俺も、パンをちぎる手を止めて彼を見返した。
その瞬間は、とても長い時間のように感じられた。
彼はトレーニングウェアのままで、練習後そのまま自転車を走らせ帰ってきたようだった。
ずいぶんと痩せた面差しに、甘いものがこみ上げた。
どうしてこんなにも長いこと会わずにいられたのだろう。
何があろうと今日この場で彼を取り戻すのだと思った。
「…なに、してんの?」
「英二を、迎えに来たんだよ。」
「まだ、卒業してないじゃん。」
「俺が卒業しようと、おまえがフリーだろうと、よりを戻すつもりなんてないんだろう?」
「…それがわかってるなら、なんで来たんだよ?」
「承知できないからさ。」
返事は返って来なかった。
英二は自転車を担ぎ上げた。
俺が立ち上がって横によけると、英二は門扉に手をかけた。
勝ち気な瞳をまつげに隠して、俯いた横顔。
俺の視線は自然、まつげに引き寄せられた。
その下に、そのまつげの下に。
瞳がある。
強い光を宿した瞳が。
何度も何度も俺を射落とした瞳が。
「不二から聞いた。身を引くなんて、おまえらしくない。」
本当は、きっと、これほどおまえらしいことはないのだけれど。
玄関の横に自転車を置くと、彼はこちらに背を向けたまま答えた。
「…不二は、おせっかいだな。」
「話し合おう。もっと早く、そうしなければいけなかった。俺が臆病だったから…。」
「帰ってよ。」
「英二、おまえ、勝手すぎるぞ。」
「俺、勝手だもん。俺がそうしたいんだから、そうするの。」
「いい加減にしろよ。」
「帰ってってば。」
腕を掴んだら、振り払われた。
俺はむきになって、抱き寄せようとした。
「やめてよ。」
はっとして、我にかえった。
なんて悲しそうな目をしているのか。
こんな顔、初めて見た。
こんな顔、させたくなかったのに。
小鳥や猫の仕草を眺めて、かわいいね、って言い合った。
その時の、笑った顔。
初めて入った喫茶店のコーヒーが美味しかったり。
パスタの茹で加減が完璧だったり。
それから、ダブルスのコンビネーションが成功した時。
そういう時の英二の笑顔が、俺は大好きで。
そういう顔だけをさせたかったのに。
「ごめん…。」
「なんで、大石が謝るの…?」
無言で見つめ合った。
玄関のドアの向こうでは、英二の家の犬が甲高い声で吠え立てていた。
「いたっ…。」
勢いよくドアが開いて、彼の背中に当たった。
「あら、英二。泥棒かと思ったじゃない。玄関先でどうしたの?」
彼のおばあさんがドアの隙間から顔を出した。
「まあ、大石くん。久しぶりね。」
「…ごぶさたしてます。」
「どうぞ、遠慮なくお入りください。」
そう言って、にっこりと笑った。
おばあさんの背後では、英二の一大事と言わんばかりに、犬が吠え続けていた。
英二はやむなく俺を家に上げてくれた。
居間に通されて、ソファに二人で向かい合って座った。
おばあさんは、台所でお茶とお菓子の用意をしていた。
家に入れてもらえ感謝するよりないのだが、この場は早く二人きりにしてもらいたいのが本音だった。
犬は吠えるのをやめて、英二と俺の間を行ったり来たりしていた。
そのうち、英二を見上げて、鼻にかかったような声で鳴き出した。
心配で仕方ないのだという様子が微笑ましく、犬とは賢いものだと感心した。
俺達が本気で争っているわけではないとわかったのだ。
「英二、大石くんを困らせちゃ、だめよ。」
おばあさんはそう言いながら、菓子盆に山盛りのお菓子とお茶の茶碗を二つ、テーブルに置いた。
「大石くん、ゆっくりしていってね。」
今度は俺に笑いかけると、犬を抱き上げて居間を後にした。
英二の隣に腰掛け直したが、俯いたままでこちらを見てはくれなかった。
「男と暮らしてるんだって?」
つい、いきなり核心に触れてしまった。
まずかったかと思ったが、英二は下を向いたままで口を開いた。
「…友達だよ。それに、もう、家に戻ったから。」
「向こうが、本気になったからじゃないの?人の気持ちを弄ぶのは、やめろよ。」
「そんなつもり、ない。」
「俺だって、そんなつもりはなかったけど、ある人を傷付けてしまった。人は、一人で生きていけるほど、強くない。誰かを巻き込んで傷付けるのは、もう、やめにしよう。」
「いいんだ。」
「何が?」
「俺はいいんだ、誰が傷付いたって。大石が傷付かなければそれでいい。」
いつも、そうなのだ。
無遠慮に押し入っては、人の心を掠って行ってしまう。
だけど、英二。
ちがう。
おまえは、間違っているよ。
「英二。おまえが傷付けていいのは、俺だけだ。おまえにだったら、どんなに傷付けられたっていい。おまえのためだったら、どんな目に遭ったって我慢できる。だって、俺は、英二のものだろう?」
「…バカじゃない…?」
やっと、こちらを見てくれた。
「…もう、いい。傷付けたくない。大石を傷付けるの、もういやなんだ。」
おまえが俺に傷を付けたと言うのなら、そうなのだろう。
だけど、俺は、望んで傷付いたのだ。
いや、むしろ、傷を付けて欲しかったのだ。
おまえのものだと、印を刻んで欲しかったのだ。
そして、今だって、そう望んでいる。
刻まれたはずの印は、消えかけている。
さあ、再び。
俺の心を暴いてくれ。
そして、おまえの名前を刻み付けてくれ。
何度でも。
何度でも。
「いいんだ。傷付けていいんだ。俺の傷は、おまえにしか癒せないんだから。」
…おまえの愛でしか、俺の汚れは浄められないんだから…。
英二の瞳が揺らめいた。
「俺は、英二を傷付けたいよ。汚したいよ。おまえは言ってくれたじゃないか。俺のだから何したっていいって。」
泣き出しそうなその顔だって、たまらなく好きだ。
だけど、ずっとそんな顔、させはしない。
「傷付けるだけじゃないから。おまえの傷は、俺がちゃんと癒すから。だから、俺をもっと傷付けろ。」
「俺、いやだ。もう、おばさんたちに嘘つくの、いやなんだ。」
「母さんは、とっくに知ってたよ。」
「…話したの?」
「うん。いい機会だと思って。」
「…なんで。おじさん…、おばさんもかわいそうだ。かわいそうだよ。」
ちがう、かわいそうなのは、おまえの方だ。
俺が弱いから、おまえは傷付いたままで。
「嘘つくの、辛かったろ。今まで、ほんとにごめん。」
母がすでに承知していたのには驚いたが、今まで俺の周りには女性の影が一切なかったのだから当然と言えば当然だ。
父の方は、若いころの気の迷いみたいなものでいつかまともになるのだと信じているようだった。
そう思いたいなら思わせておこう、むしろ好都合だと俺は開き直っていた。
考えてみれば、男と交際しているくらいで、学費や仕送りが途絶えるなんてことはあるわけない。
両親と気まずくなるのが嫌だから、理由をつけて逃げていただけだ。
俺は幼くて、浅はかで、そして、狡かった。
同じ狡さであれば、もう少し図々しく、賢く立ち回ろう、そんな覚悟もやっと出来たのだ。
「…渋谷のプラネタリウム、完成したんだって。一緒に行こう。約束したろ?」
英二の瞳いっぱいに、みるみる涙がたまった。
「…あの頃に、戻れたらいい。なんにも知らなかったときに、戻れたら…。」
「あの時、俺はもう、恋していたよ。」
瞳いっぱいの涙は、ついに決壊して流れ落ちた。
「…俺も、初恋だよ。大石が、初めて好きになった人だよ。」
その言葉に弾かれるように、勢いよく抱き寄せた。
薄いからだはしなって、腕の中にすっぽりとおさまった。
顔にかかった柔らかな髪を掻き上げると、まつげについた涙の滴が光っていた。
赤く染まったまぶたの縁にくちづけた。
「言いそびれてて…ごめん。」
「…ほら。戻ることなんてできやしない。いいかげん、観念しろよ。」
まぶたを開くと、瞳には強い光。
「…大石、俺を傷付けて。俺は、やっぱり大石のだから。」
傷つける、きっと何度でも。
だけど、癒してやるから。
だから、また、俺が好きな笑った顔を見せてくれ。
埋めてほしい、心に開いた風穴を。
癒してほしい、傷口を。
おまえの温もりでもって。
優しく撫でて。
くちづけて。
そして、どうか、浄めてくれ。
おまえの愛でもって。
俺の汚れを。
どうか、どうか。
10か月。
そんなにも長い間。
おまえをこの腕に抱けなかった。
人の子が母の胎内に宿り、この世に生まれ出でるほどの時間を経て。
俺達は、たった今生まれ落ちた思いを胸に抱こう。
互い以外に、互いを満たす存在は無いのだと。
そしてまた、互いを苛んでよいのも互いだけなのだと。
互いに傷つけ合い、互いに癒し合い、互いだけを慰めとし生きていくのだと。
そして、この思いを育てよう。
我が子を育むように。
慈しみ、愛おしみ。
この愛を、守り抜こう。
10か月 了
注:本文中の詩はすべて竹久夢二の作品を引用しました。