10か月 2
1
たゞお友達になつてあそびませうね
お友達の垣根を越えないやうに
さうでないと
別れる時が辛いから。
☆☆☆☆☆☆
夏の朝は、早い。
5時前に起きだしたとしても、すでに日の出の時刻は過ぎ、空は明るい。
夜明けとともに活動を始める鳥たちのように、最近の俺も朝が早かった。
といっても、たいして眠れぬままに朝を迎えているのだ。
雨でなければ、庭先に腰掛けて朝食をとる。
すずめがおこぼれに期待して、集まってくる。
無邪気な仕草を眺めながらならば、パンと牛乳だけの質素な食事もなかなかのごちそうになる。
食事というのは、内容よりも、誰と一緒に食べるかということの方が重要だ。
これは、成長過程のテニス部員たちには言わない、俺の本音だ。
俺は最近、食事に関心がなくなった。
それは、恋人と別れた、先月以来の変化だった。
☆☆☆
下の姉と久しぶりに言葉を交わしたのは、しとしと雨が二日続いて、梅雨入り宣言が出た日の朝のことだった。
明け方、出勤の準備をしていると、階下で物音がした。
1階へと下りてみると、姉が居間のソファに座って窓の外を眺めていた。
「…いつ来たの?」
「…びっくりした。30分位前かな。」
「ずいぶん早いね。」
「会社から来たの。今日は休みもらった。」
姉は大学卒業後、父のコネで新聞社傘下の出版社に就職した。
勤めてからはまさに昼夜を問わず働いた。
彼女がキャリア志向だったとは、それまで家族の誰もが思っていなかった。
幼い頃は、意志の強い長姉の陰に隠れて、自己主張をしない女の子だった。
長じてからは、おとなしくて言いなりになりそうなところが良かったのか、兄弟の中では一番もてた。
そういうわけで、姉はすぐに結婚して家庭を持つタイプだと、みんな思い込んでいた。
一緒に暮らしていたって、その人の本質というものは意外にわからないものだ。
「うち、出ることにしたから。」
姉は、また窓の外を眺めた。
なにをいまさら、と思った。
正月だって、言い訳程度に帰って来て昏々と眠り続けただけだった。
普段は、勤務先に程近い、不倫相手のマンションに寝泊まりしているのだ。
その不倫相手というのは、彼女が在籍する編集部の編集長だ。
まだ離婚は成立していない、つまり、不倫相手は家族を養いながら自分用のマンションを都心に借りている。
編集長というものは、どうやら大変に儲かる職業らしかった。
「どういう意味?」
「部屋を借りるの、私が。」
別れたの、と聞くと愉快そうに笑った。
二人が係わる雑誌の廃刊が決まったのだという。
それがどうしてそんなに可笑しいのだろう、と思った。
「彼ったら、急に弱気になっちゃって。部屋代もしばらく払えないかもしれないし、うちに戻るから別れようなんて言うのよ。」
また、笑った。
徹夜明けで、神経が高ぶっているのだろうか。
「この人って、こんなに弱かったんだって、びっくりしちゃった。私だって働いてるんだから、頼ってくれてもいいのに。」
別れないんだ。
姉の図太さにぞっとした。
女って、そういうものなんだろうか。
不倫なのだ。
相手には、息子と娘が一人ずついるのだそうだ。
まだ高校生と大学生だという。
それを聞いて、うちの母は泣いて姉を叱り付けたのだ。
そもそも、誰一人として歓迎していない関係なのに。
今回みたいな障害が生じれば、運命からも祝福されていないのだとか、そういう心持ちにならないものだろうか。
「それを報告にきたってわけ。」
「わざわざ、ご苦労様。」
「なんか、とげがあるわね。」
「そう?じゃ、俺、行くから。」
「早いのね。」
「雨だからね。」
いってらっしゃいと背後で声がしたが、返事はしなかった。
黴臭い部屋から早く出たかった。
昨夜から部屋の中に干してある洗濯物のせいなのか、それとも姉が連れて来たものなのか。
とにかく、返事はせずに部屋を出た。
しゃがんでスニーカーの紐を結ぶ時、ふいに子供の頃の記憶がよみがえった。
教会のバザーで売るために、鳩のかたちのクッキーをたくさん焼いた。
それをひとつひとつ袋詰めして、赤いリボンを口に結んだ。
「英二、ここをこうして。こっちに入れて、ひっぱってごらん。そうそう。できたね。上手よ。もう、一人で出来るわね。」
姉が教えてくれたのだ。
蝶々結びを。
優しい声で。
出来たら、優しくほめてくれた。
だけど、優しかった姉はもういない。
恋が変えてしまったのだ。
あるいは、恋への執着が。
どんな人間も、恋によっていくらでも醜くなれるのだ。
俺だって、姉のことを裁ける立場ではない。
いまや恋人と同じくらいに大好きな、彼の家族を欺いているのだ。
俺達のことを知ったら、彼らは驚き悲しむだろう。
傷付くだろう。
恋人は、彼らを傷付けたことに、傷付くだろう。
玄関の扉を開けた。
雨は昨日と同様に、しとしと降っていた。
空は暗くて、朝はきっとこのまま来ないのだ、と思った。
黴臭さは体に纏わりついたようで、いつまでも消えなかった。
そうして、初めて気がついた。
黴臭かったのは、俺自身だったのだと。
☆☆☆☆☆☆
どうして、大石を汚してしまったのだろう。
初めは、ただ必死だったのだ。
彼を振り向かせ、繋ぎ止めるのに。
俺のささいな一言に、彼は一喜一憂した。
それがうれしくて、もっとはまれ、と思った。
二人でもって周りを欺く関係は、刺激的だった。
緊張とスリルに酔った。
覚えたてのセックスに夢中になった。
屈辱的な体位も罪悪感も、それすら快感を煽った。
そういう刺激に慣れた頃には、今度は俺の方が恋人の温もりにはまっていた。
彼といると、やわらかい毛布に包まれているみたいだった。
俺は、冬の朝の子供のように、そこから出るのを拒んできたけど。
いつのまにか毛布の間に入り込んだ砂粒が、ざらざら、ざらざら、皮膚をこすって擦り傷がついていた。
出会ったころの大石は、嘘がつけない少年だった。
そういう不器用さが気に食わず、だけど放っておけなかった。
そのうち、彼は彼なりの、自分の意志を通す術を持っているのだということを知ったけれど。
それでも彼のそういう馬鹿正直さは、特異な美徳としてあった。
だけど、いつの間にか俺達は嘘を覚えて操るようになっていた。
自分の欲望のために。
彼がわざわざ、自宅から通学圏外の大学を選んだのは何故なのか。
一年生の当初こそ動揺したが、俺もさすがに気がついた。
彼は、俺とセックスできる場所が欲しかったのだ。
もちろん、それだけではないはずだが、それが大きな動機だったのは確かだろう。
俺だって、同じ気持ちだったから。
彼と、安心していちゃつける場所が手に入ったのは本当にうれしかった。
将来の――不確かなものだけれども――約束も、彼はくれた。
だけど、彼の両親を騙し続けるのは、心苦しかった。
理想的で模範的な家族についた、一点の染み。
それが俺なのだ。
俺達のことを彼の家族に知られてしまった、そういう夢を何度も見た。
失望し、悲しむ両親、言葉を失う年頃の妹…
俺は取り返しのつかないことをした。
だけど、今ならば、まだ…
そう考え始めたのはいつからだったろうか。
俺が先に手を伸ばしたのだから、幕は俺が引こう。
彼の部屋の鍵を、キーホルダーから外した。
封筒の外から中身がわからないように、一回り小さな封筒の中に鍵を入れた。
それを、昨夜一晩かけて書いた手紙と一緒に封筒に入れて、のりでしっかり封をした。
授業の空き時間に、郵便局に持って行く。
それから、夜になってから電話をすれば、完了だ。
6年も付き合ったのだ。
出会ってからは、10年以上が経った。
すんなり終わらせることは、難しいだろう。
だけど、会わないでいることなら、できるかもしれない。
彼が、俺に会いに来られないように仕向ければいい。
1年か、2年でいい。
それだけ離れていれば、誰かいい人が出来るだろう。
そうして、俺のことなんて忘れて、生きていけばいい。
傷付いたとしても、時間と新しい恋人が傷を癒してくれる。
人目を避けた愛には、潮時というものがあるはずだ。
俺が働き始めて会う時間が取れなくなった今が、最適な引き際だろうと俺は感じていた。
☆☆☆
その夜、大石に電話をして、別れを告げた。
その電話を切って、落ち着かない気持ちのまま、気がつくと今度は不二へと電話をかけていた。
「不二、あのさ。…いま、大石に電話して、別れたとこ。」
「…英二が、振ったの?」
「そう。」
「…驚いた。でも、きみらしいといえば、らしいか。」
「…なにが?」
「きみが仕掛けておいて、先に手を引いたんだってこと。ひどいよね。」
「ひどいかな…。でも、失恋の傷なんて、いつか必ず癒えるだろ?」
失恋の傷なんかより、取り返しのつかない傷。
その傷が、彼の肌を汚すのを見たくない。
その痛みに、彼が苦しむ姿を見たくない。
だけど、俺が手を引いて、導いたのだ。
これは、エゴだろうか。
本当は、自分の罪と向き合うのが苦しいだけなのだろうか。
彼の痛みを、彼の汚れを、新しい恋人の愛が癒し浄めてくれますように。
…本当に、そう思っているだろうか。
彼の胸に刻み付けた傷跡が、永遠に癒えなければいいと、願っていないだろうか。
俺は、相反する想いに引き裂かれていた。
「…それで、ほんとにいいの?」
「一番いいと思ったから、そうしたんだ。」
「…そう。自分のことっていうのは、なかなか見えないものだからね。本当の幸せになかなか気付かないのと同じように。」
不二の言葉に、俺は口をつぐむしかなく、沈黙を返した。
本当の幸せがなんなのか、俺にはわからない。
だけど彼には幸せになってほしい。
心穏やかに暮らしてほしい。
彼の育ったうちのような、温かい家庭を持って。
それを想像することはこんなにもたやすいのに。
俺が彼にそれをあげることは、どうやってもできないのだ。
「僕の時間、返してほしいな。」
「…え?」
「君の惚気を聞かされた時間。総計、何時間になるだろうね。」
「 …ごめん。」
「僕、嫌いじゃなかったんだ。きみが大石の話をするのを聞くのがさ。すごく、楽しそうだったから。」
「…不二。」
ここに、この場に、不二がいてくれればいいのに、と思った。
そうしたら、彼の細い体に縋って泣けたかもしれなかった。
後から考えてみれば、俺はこの時早くも、人肌の温もりが恋しくなっていたのだ。
☆☆☆☆☆☆
『忘年会のお知らせ』
そう書かれたプリントを眺めた。
いったい、そんなに忘れたいことなどあるものだろうか。
子供の頃も、家族に同じ質問をしたことがあった。
大人になると、いろいろあるのよ。
そう、版で押したような答えが返ってきたものだ。
だけど、仕事にしろ恋愛にしろ、意にそまないことがあったにしても、忘れたいなんて俺は思わない。
すべてが積み重ねであって、明日へと続いていくものだと思うのだ。
そんな風に思うのは、俺がまだ人生の辛酸というものを舐めたことがないからだろうか。
それに、忘れたくなくても、忘れてしまうのが人間というものではないか。
大石との別れから、半年が過ぎようとしていた。
時間の経過をこれほどまでに速く感じたことは、これまでなかった。
部活の指導と、授業、それから、授業準備。
この授業準備というのが曲者で、授業の倍の時間は優にかかってしまう。
実験の時はまだいいが、いわゆる座学の時、これが問題だった。
もちろん、自分の好きなことなのだから、授業準備自体は嫌いではない。
だけど、それを生徒に向けていかにアウトプットしていくか、そのことに七転八倒していた。
専任教諭になれたとしても、担任業務などこなせるだろうかと先の心配までしてしまうほどだ。
こうして、時間の経過に俺は擦り切れて。
俺の記憶も擦り切れて。
大石のことは、いつでも想っていた。
なにしろ、彼と過ごした校舎に居るわけだから。
そこかしこに、思い出は残っている。
毎日の部活の指導で、テニスコートに立てば。
あの頃の情熱も衝動も、何もかもが記憶の中に甦り、体温が上がる。
だけど、恋人の面影も、優しい声も、いつか輪郭はぼやけてしまう。
忘れてしまったら、俺には何も残らないのに。
☆☆☆
一学期、二学期と、俺はいわゆる理想と現実のギャップに苦しんでいた。
理想の授業というものは、どこにあるのか。
青い鳥を探すようなことを、漠然と考えていたのだ。
指導要領から離れたことが、やりたいわけじゃない。
むしろ、そこに書いてあることは全てやりたい。
それでもまだ、やりたいこと、伝えたいことが山のようにあるのだ。
だけど、理科の時間というものは、そうたくさんは与えられていない。
時間は限られている。
生徒は、ありがたいことに7割はやる気がある。
残りの3割は、昔の俺のように授業の終わりの鐘が鳴るのを待つだけの生徒だ。
俺の伝えたいことは、言葉は、からからと空回りして、むなしい響きを立てていた。
漠然と思っていることを、具体的な言葉にして相手に正確に伝えることのなんと難しいことか。
かつての俺のような生徒をして理科の教員になろうと思わしめた、一柳先生の授業がいかに優れたものであったか。
俺は、いまさらながらそれを知ったのだった。
二学期の成績をつけ始めようという頃、一柳先生はぽつりと言ったのだ。
「授業というのは、生徒ありきだよ。」
この生徒には、これを伝えたい。
あの生徒には、あの知識が必要だ。
そうやって、生徒の顔を思い出しながら、授業を組み立ててごらん。
その話を聞いて、俺は目の前の霧が、晴れていく心地がした。
青い鳥は、目の前にいる生徒たちだった。
彼らが、もっと美しく鳴くためには、一体何が必要か。
おいしい水か、栄養のある餌か。
あるいは、美しい音楽か、十分な日光か。
心を砕いて考える。
一柳先生は、あの頃、きっと俺に向けて語ったのだ。
だから、俺に、届いたのだ。
単純なこと、一番大切なこと、そういうものを見つけるのに、人は長い時間を費やす。
中には一生のほとんどを、それに使ってしまう人もいるだろう。
それを、愚かだと、笑い飛ばしていいものだろうか。
おそらくは、探し続けること、飽くなき探究を続けること、これが人が一生において、なすべきことではないか。
俺は、一番大切な人を手放してしまった。
それが唯一の正しい道だと信じて。
一番大切な人を探すという、なすべきことを放棄して生きていくのだ。
俺の目の前に横たわる人生は、むなしいものになるのだろうか。
いとしいいとしい青い鳥
青い鳥は逃げてしまった
俺が望んで逃がしたのだ
自由にしてあげたくて
祈っているよ
もう二度と、戻ってくることのないように
美しい声で鳴いて、優しい人を見つけるように
幸せに暮らすように
大丈夫、二人のことは、俺が忘れない
だから、早く俺のことは忘れて、自由になって
ほんとうは、籠に閉じ込めたくなんて、なかったんだ
ただ、あんまり綺麗だったから
そばに置いてみたかったんだ