10か月 1

緑色のカアテンをひきませう

ひとにネストをしられぬやうに。

そつとしづかにやすみませう

かあいゝ小鳥のめさめぬやうに。

あまりよろこびすぎぬやうにしませう。

いたづらな運命にねたまれぬために。



☆☆☆☆☆☆



「大事な話があるから、電話していい?」
英二から短いメールが届いたのは、7月のある日の夜のことだった。

英二は、その年の4月から母校の非常勤講師になり、同時にテニス部のコーチも勤め、かつてないほど多忙な日々を送っていた。
俺の方は相変わらず大学生だったが、一人前に忙しい日々を過ごしていた。
実際、3か月以上会っていなかった。

こういう時期は、普通のカップルなら別れ話が持ち上がるものだ。
だけど、俺達は大丈夫、そう思っていた。
愛し、愛されている自信はあった。
以前浮気された時のような失敗はすまいと、自分の言葉で愛情を伝える努力もしていた。
だけど、それは、あまりに突然だった。


「ちょっと、離れてみない?俺達。」

いつもの、突拍子もない思いつきを提案する時の口調そのままに。
だけど、それは、いわゆる別れ話だった。

「そっちに行く時間、取れなくて、ごめんね。」
「いいよ、そんなの。なんで、突然そんなこと。」
「ちゃんと、話し合うべきなんだろうけど。」
「そうだよ。勝手に決めるなよ。」

「なんか、疲れちゃって。」
「なにに?」
「隠さなきゃ、なんないだろ。」
「それは…。ごめん。でも、あと少しじゃないか。」
「少しかな。まだ2年ちかく、あるじゃない。」


俺は、まだ学生で。
経済的に自立できるまでは、二人の関係を両親に隠しておきたいと思っていた。
何しろ、俺の部屋、つまりは二人の隠れ家の家賃を払ってくれているのは、両親なのだ。
学費や生活費だって、自分のアルバイト代だけでは賄えない。
しかも、英二にはまだ話してなかったが、大学院に進学しようとも思っていた。

今二人のことを両親に告げてしまうのは、賢いやり方ではない。
今はまだ。
今は、二人の将来のために必要な時間。
そう、彼も納得してくれていると思っていた。

ずっと隠し通すつもりじゃない。
世間体は悪いのかもしれないが、倫理的に悪いことをしているつもりもない。
だけど、今はまだ、早過ぎる。


「俺もさ、住宅手当ないし。いつ専任になれるか、わかんないし。」

「タイミングがよければ、続けられたのかな…」

タイミングなんて。
そんな、軽い言葉で。
片付けないでくれ。

だけど、要は俺の都合なのだ。
それを彼に押し付けることはできない、と思った。

「じゃあ。英二は、別れたと思ってもいいよ。俺は、そうは思わないから。」
「どういう意味?」
「だから。卒業したら、迎えにいく。」
「いいけど。でも、待ってられるかわかんないよ?」
「その時は、おまえがフリーになるまで、待つよ。」


別れ話と言うのは、もっと修羅場めいたものだと想像していた。
彼は淡々と語り、俺も冷静に対応した。
だけど、俺の心臓は試合のときのように速く打っていた。

どうして、こうなったのか。
なにか、彼を取り戻すきっかけはないか。
そう思い、行間に耳を澄ましたが、手がかりは掴めなかった。

電話を切って、しばらくの間そのまま椅子に座っていた。
じんわりと、頭の周りを何かで押さえつけられているような圧迫感があった。
思考は、ぼんやりとしてまとまらなかった。
鎮痛剤を飲みベッドに横たわると、すぐに眠りに吸い込まれた。


玄関のチャイムの音に目を覚ました。
枕元の目覚まし時計の針は、昼近い時刻を指していた。
ドアを開けると郵便配達員が立っていて、配達記録の封筒に印を押すよう言われた。
送り主は英二で、封筒の中には鍵と手紙が入っていた。

手紙といっても、飾り気のないレポート用紙が1枚。
そこには、彼の字で十数行の文章が書かれていた。
「大石のせいにして、ごめんなさい。本当は、俺が弱いからです。」
そう書き出された文章は、電話での緊張感のない会話とは一見して異なる趣きだった。

謝罪と、感謝。
要約すれば、それだけが書かれた手紙だった。
だが、決して戯れに書かれたものではないということはわかった。

彼は、真剣だ。
これは、現実だ。
迎えに行くなんて言ったけれど、彼にしてみれば寝言みたいなものだ。
いや、むしろ、迷惑この上ないのだ。

彼が俺の両親に対して罪悪感を抱いていることは、以前から感じていた。
俺が見ないふりをしていただけだ。
彼は、もう待てないほど、既に待ったのだ。
待つことにも隠すことにもうんざりするほどの時間を費やしたのだ。
そうして疲れて、いつの間にか俺に倦んでいたのだ。
待っていてくれる可能性なんて、俺が求めてはいけないのだ。

だけど…。
返さないって言ったのに。
絶対返さないって、言ったのに。
あの時あんなに輝いて見えた鍵は、昼の日の下で見れば、ただの鉛色の塊だ。

まぼろしだった。
うたかただった。

求められるままに、心の内をすべてさらけ出して、投げ出した。
だけど、彼は去ったのだ。


涙は出なかった。
ただ、その事実に慄然とした。
彼に直接会いに行くことも、できなかった。
彼を失ったという実感を手にするために出かけていくのは、いやだった。

だけど、あきらめることはできなかった。
待てなかった彼が悪いのではない。
待たせている俺がいけないのだ。
彼を迎えに行ける日まで、ただ日々が経つのを待とうと思った。
それが、無力な俺にできる唯一のことと思えた。

幸いなことに、忙しかった。
その上に、アルバイト、サークル活動、飲み会と予定を滑り込ませ、さらに忙しく振舞うことは、簡単なことだった。

だけど、俺は空虚だった。
心に空洞ができていた。
俺よりほんの少し華奢な、恋人のかたちが、そっくりそのまま抜け落ちたように。

食べたり飲んだり、勉強したり議論したり。
一人前の生活は、できていた。
その実、俺は半死半生だった。

それでも、俺は生きていた。
どうして、生きているのだろうと思った。
人は、どんなに悲しくても、さみしくても、からだは死なないのだ。
心は、死んでいるのに。
もう、とっくに、死んでいるのに。



☆☆☆☆☆☆



水槽をもう一つ増やそうか…。
先月入れたばかりの水槽の中が、どうにも窮屈そうに見えた。
同じ大きさのを買って、引越しさせよう。
一方は水草を森に見立てて、小型のものだけを入れてみよう…。


英二が去った直後、俺は不注意から魚を病気で死なせてしまった。
手を抜いたつもりは、まるでなかったのだ。
命あるものを養っている、そういう自覚は常に持っているつもりだった。
だけど、どう考えても一日が抜け落ちたように記憶がないことが何度かあった。
そういう時に水槽の手入れなどしたはずもなく、おそらくはその積み重ねでもって病気に追いやってしまったのだ。

アクアリウムというものは、少し手を抜いただけで何かしらの影響が出る。
やるからには、完璧な管理者にならねばならない。
たとえ体は小さくても、いくつもの命を預かっているわけだから責任は重大だ。


殺してしまった魚の体。
優雅に泳ぎ回っていた頃のしなやかさが嘘のように硬く。

水槽から取り出したときの感触。
死の匂い。
それが、いつまでも指先と手の平に残っていた。

魚はきっと、俺の代わりに死んだのだ。
だから俺は今でも生きているのだ。
そう思えた。

それとも、俺が殺してしまったのは、英二の心だったのだろうか。



そんなこともあったが、却ってそれをきっかけに、俺はアクアリウムの世界に没頭していった。
無心になれるのが良かったのだろう。
水槽は月に一つの割合で増えていった。

水槽の中に、完結した一つの世界を造り上げる。
この頃の熱中ぶりは、一種の逃避といってもよかったろうか。

俺の居る世界は、ただ一つの、替えの効かないピースを失ったジグソーパズルのように。
永遠に完成することはない。
永遠に満たされることはないのだから。

もちろん、魚たちの屈託ない動作に心が慰められたという理由もあった。
ある者は繊細で、ある者は大胆不適でと、種類によって性質が違うのも面白い。
生き物というものは総じて、自ら育てれば思った以上の愛着と愛情が湧くものだ。

そうしながらも、ふと、英二を思い出すことがあった。

「これは、なんて名前?どんな性格?」
そうやって思い出される、俺に問いかける彼の姿は、出会ったばかりの頃だったり、付き合いはじめの頃だったり。
あるいは、別れる直前の彼だったりした。

気がつくと、どう説明してやるかを考えていることがあった。
説明を求める彼はもういないというのに。



☆☆☆



季節はいつの間にか歩みを速めて、英二との別れからは半年が経っていた。
俺は、同じ学類の女の子と特別親しくなっていた。

彼女と親しくなったのは、テニスサークルの忘年会がきっかけだった。
二人で幹事をつとめることになり、その2次会で初めて深い話をした。

6年近い恋愛が終わった、そんな重い話を彼女は受け止めてくれた。
彼女も遠距離恋愛中なので、気持ちはわかると言ってくれた。
他人に失恋の話をしたのは、初めてだった。
話をしたことで、いくらか気分が晴れた心地がした。

年末年始は、ほんの数日実家に帰っただけだった。
青学テニス部の新年会、「打ちはじめ」にも行かなかった。
英二と会いたくなかったし、青学の知人と顔を合わせるのもなぜだか気が重かった。
そうなると、育った街まで何となく疎ましくなり、地元をうろつくこともしなかった。
そうして、松の内が明ける頃には、アパートに戻って後期試験の準備を始めた。


冬休みもあと数日という日に、彼女から突然電話がきて予定を聞かれた。
なぜ彼氏がいるのに俺を誘うのかと面喰らって、思った通りに尋ねてみた。

「大石くんは、リハビリデート。私は、さみしいから?」
そう、笑い飛ばされた。

「別に、付き合うわけじゃないんだし。固く考えないでよ。」
あっけらかんと言われると、なんだか自分の方がおかしなことにこだわっているように思えた。

「じゃあ、行こうか。って、どこへ行くの?」
「…海とか?」
「ベタだなあ。」
二人して笑って、案を出し合った。


結局、初めてのリハビリデートは、本当に、冬の海へとドライブすることになった。

長い髪を潮風になびかせて、彼女ははしゃいでいた。
笑顔を見ると気持ちが和んだ。

白い海鳥の群れが、波打ち際で戯れていた。
それを見て、英二を思い出した。
彼を連れて一度でも、海へ来ればよかったと思った。

どうしてそうしなかったのだろう。
狭い部屋に閉じ込めて。
確かにあの部屋での思い出は、幸せなものしかないけれど。
英二がいれば幸せだと思っていたけれど。
彼は、どこか変わったところへ出掛けたいと思わなかったろうか。
思えば、彼はいつの頃からか、自分の欲求というものを口にしなくなっていたのではなかったか。

冬の海の香りは冷たく塩辛く、鼻腔にしみるほどだった。


その海辺のホテルで、彼女を抱いた。
どうしてそうなったのかわからない。
潮の香りから逃げたかったのか。
海鳥の鳴き声から逃げたかったのか。

女性を抱いたのは、――英二以外の人間を抱いたのは――初めてのことだった。
まろやかな乳房、やわらかい器官、肌の滑りも香りも声も、なにもかもが英二とは違った。
それは、予想していたことだった。
驚いたのは、なにもかもが違うと同時に、なにもかもが同じだということだった。

骨組みの中には、臓器とそれらを繋ぐ血管と神経と。
筋肉と脂肪と。
表面を皮膚で覆って。
土から生まれ、土へと還ってゆくもの。
そしてそのからだがくれる温もりも。
なにもかもが同じ…。

なにもかもが同じならば、俺はどうして英二を飽くことなく求めたか。

皮膚を突き破り、肉を掻き分け骨をくぐった奥の奥。
からだの最奥にある精神の、そこから立ち上る、言うなれば、心の香りというような。
その香りを嗅ぐためではなかったか。

行為の後、彼女は安らかな寝息を立てて眠っていた。
俺は彼女をベッドに残し、夜の海をひたすら見つめていた。
寄せては返す波のように、繰り返し繰り返し、思考は同じ道筋を辿った。
彼女の香りも煙草の煙も、潮の香りを消せなかった。
海鳥の声が耳に纏わり付いて離れなかった。

夜の海はどこまでも暗く、煙草は苦かった。


彼女は、温かく穏やかな人だった。
容姿も魅力的だった。
話題が豊富で飽きさせない知性も備えていた。

だけど、彼女と会っていない時に、彼女のことを想うことはなかった。
俺は相変わらず、一人の時間を英二について考えることに費やしていた。
その想いはむしろ、失恋直後よりも甘美だった。

時間の経過によって美化されて、初恋はアルバムを飾るのだ。
昔、父が言っていた言葉だ。
その時俺はまだ子供で、父の言葉はまったくピンとこなかった。
だけど、今ならわかる、わかりすぎるくらいに。

英二についての記憶は、このままアルバムを飾ることになるのだろうか。
美しく、甘い、それだけの、初恋の記憶として。



☆☆☆☆☆☆



東京から数日遅れて、俺の住む街でも桜が満開となった。
それを眺めながら、彼女をうちまで送って行った。
その別れ際に、尋ねられた。

「ゴールデンウィーク、どうする?」
「旅行とか、行かないの?彼氏と。」
「向こうがこっちに来るけど。でもずっとはいられないの。」
「ふーん。前半?後半?」
「前半。どこか行かない?大石くん、誕生日でしょ。」

彼女は知っていたのか、俺の誕生日を。
なにかのときに話したろうか。

「プラネタリウム、行ってみない?」

その単語に、一瞬、思考が停止した。

「渋谷にできたの。興味ない?」

工期が延長されていたようだが、やっと、完成したのか。
思い出のプラネタリウムは閉館したけれど、再オープンしたらまた行こうと、約束したのだ。


閉館直前に、テニス部の仲間と連れだって訪れた。
英二とふたりだけで電車に乗って、行列に並んで整理券をもらい、フルーツパーラーでパフェをおごった。
俺は、初めて英二とふたりきりで出掛けたのがうれしくて、舞い上がっていた。
英二は、あれが初めてのプラネタリウムで、何を見ても珍しくて。
大きな瞳をきらきらさせて、たくさんの質問をよこした。

「昔もさ、渋谷にあったんだよ。閉館の時、テニス部の仲間と見に行って…。」
「大石くん…?」

彼女が困惑した表情を浮かべて、目を見開いた。
自分の頬に手をやると、涙が伝って流れ落ちていた。
次から次へと。
とめどなく溢れ出していた。

それと同時に、まるで昨日のことのようにその日の記憶がよみがえった。


俺の名前を呼んだ、声変わり前の英二の高い声。

電車の中で俺の方へからだを傾けた、その重み。

ダウンジャケットを脱いだ時に鼻をかすめた、甘い匂い。

パフェを一口食べて、美味しいと潤ませた瞳。

今でも、覚えている。

こんなにも鮮明に。


「また、行こうね。」、そう言ったのだ。

あの頃の、少年の面影を、少し残して。
俺だけに見せる、甘えた表情で。

ふとした時に見せる、意外なほど静かな横顔も。

子供っぽいことを言ってふざけた時の、笑顔も。

なにもかも、どんな表情も、愛しくて、愛しくて。

悲しくて、苦しくて。

思い出なんかじゃない、今の思いだ。

思い出になんて、できるはずが、ない。

「ごめん…。そこは、行けないんだ。また行こうって約束したから。ごめん…。」


まるでもらい泣きのように、今度は彼女がうつむいて泣き出した。

「…私も、ごめんなさい。大石くんのこと、1年のときから、ずっと好きだった。」

知ってた。

「彼氏がいるってのも、うそなの。」

それも、気がついて、いた。


「近くにいれば、いつか、振り向いてくれるんじゃないかって、思って…。」

「謝らないで。俺の方こそ、ごめん。…ありがとう。今まで、ありがとう。」

彼女は、はっとした様子で顔を上げた。


彼女の本当の気持ちを知りながら、気付かないふりをした。
ひとりで待つのは淋しいからと、ただ隣にいてくれる人を、温もりだけを都合よく求めた。

もう、恋人ごっこは、おしまいだ。
俺と会う度に、彼女は傷付いていたはずだ。
俺は、彼女を傷付けるだけで、癒すことはできないのだから。
愛することはできないのだから。


だけど、俺は果たして、待つことができるだろうか。
たったひとりで。

自分という人間がこんなにも弱い存在だと、この歳になるまでわからなかった。
人はひとりでは生きていけないという使い古された言葉の真実を、俺はこの時初めて知ったのだった。



愛は、淋しすぎる。
終わりがあるものが、何であれ皆、淋しすぎるように。

だけど、温もりだけを求めることなど、できないのだ。
温もりとは、愛から出たものなのだから。



10か月1 了