風速30mの孤独

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自他ともに認める、テニス部随一のロマンチストの俺である。

その俺が。
ファーストキスを。
人生年表における、人生前半のトピックスに掲げたいファーストキスを。
自らの意志とは別に、奪われてしまったのだ。


「お〜いし〜!もっかい・・・」
「わっ、ちょ・・・」

もう一回と言いつつ、英二は三度、四度と俺の頬に「ちゅー」を繰り返す。

「・・・英二、あのね、おうちでも〜、お酒飲むと〜、こうなのかな〜?」
「しらな〜い!おうちの人はお酒飲ませてくれませんから!ぎゃは!」

やっぱり・・・。
英二の家族が堅いというよりは、彼の酒癖を知って、飲酒させていないのだった。


「・・・ねむい」
今度は、急に頭を俺の肩に押し当てて、うなだれるような格好になった。

はあ!?なんなの!?
俺は、泣きたくなった。
相手が英二だと言えば、本来なら文句ないのかもしれないが、今はただの酔っ払いである。

しかし、そこはぐっとこらえて。
酔っ払いが相手だからこそ。

「・・・あのね、英二。・・・いや、いい。おやすみの用意しようか?ね!?」
「やだ〜!まだちゅーするの〜!!」
「うーん。『ちゅー』はね、大事に取っておいた方がいいんじゃないかな?」
「いいの!したいんだもん!大石、あいしてる〜!!」

そう言って、もう数回、ちゅっちゅと頬に「ちゅー」をする。
じっと、俺の唇を見つめたと思うと、自分の唇を近づけようとする。

「ちょっ!ストップ、ストップ〜!」
「なぁんだよ、ケチケチすんなよう!ちゅーさせろぅ!」
「くっ、口はダメ!お願いだから・・・!」

我ながら、男子にはあるまじき発言である。

「なぁんで、口はダメなのさ〜?」
「『ちゅー』は、一番好きな人とするもんだろう?」

英二はやっと体を離したが、次に飛び出した言葉は、全くもって見当はずれの一言だった。

「一番好きな人って、・・・手塚?」
「手塚ぁ!?・・・って、俺の!?そんなわけないだろう!?」
「うっそだぁ。だって、大石、手塚の方がいいんじゃん。俺よりさぁ〜」
「そ、そんなわけあるか!?だいたい、何を根拠に・・・」

と、俺は全国大会比嘉中戦のオーダーの件を思い出した。
英二は、あの件を、腕の怪我が再発した時の俺の対応を言っているのだろうか。

「おーいし!」
英二は再び、腕を俺の首に巻き付け、抱きついてきた。

「手塚なんかと、ちゅーしちゃ、やだ!」

え!?
これは・・・
この反応は・・・
あの、何ですか、いわゆるひとつの「両想い」というやつでしょうか!?


英二は、突然両手を下ろし、俺の腰から脇までさすりあげ、脇の下をくすぐり始めた。

「ぎ、やあ〜!!!」
「やだ、やだ、やだ〜!なんちて。ぎゃは!」
「ちょ!英二、やめて!お願い!・・・あッ!ぎゃは!」
「あは〜。大石も、ぎゃはって言った〜!」

「あ、ちょっと!英二!あぶない・・・」

俺は上体のバランスを崩し、床に敷いてあったキッチンマットごと足を滑らせた。
つい英二の腕につかまってしまったものだから、二人一緒にどすんと大きな音を立てて床に倒れた。

「いてて・・・。英二、大丈夫か?」
「ぎゃははは!!」
「ぎゃははって・・・まったくもう・・・」

肘を台所の床について、半身を起こした。
英二はまだ、床に背中をつけて寝そべっている。

「背中がきもちーよ・・・」
「酔ってるからね。でも、風邪引くぞ。居間へ行こう」

立ち上がりかけた俺の腕を、英二が取った。

「・・・おーいしさ。ホントに、手塚と俺とどっちがイイの?」

ど、どっちがって・・・。
ごくり、と唾を飲み込んで、床に寝転がったままの英二の表情を窺った。
我に返ったようにまじめな顔をして、こちらを見上げている。

こんな質問をするのも、頬が赤みを帯びているのも、したたかに酔っているからだ。
潤んだ瞳は、ただ眠たいから。
半分開いた唇は、喉が渇いているから。

そうやって、自分を落ち着けようとしても。
無防備に体を床に投げ出した英二の表情は、あらがいがたく俺を引きつけた。
居間から漏れてくる光が、英二の表情に陰影を与えていた。
色素の薄い瞳が今は黒々として、強い意志を持ったようにこちらを見据えている。

英二の湿った手のひらが、俺の腕に体温を伝える。
前髪が、汗で額に貼り付いていた。
そこにくちづければ、塩辛い、汗の味がするだろうか。

風が、窓に木の枝を叩きつけるように吹き付けていた。
その音に負けないくらい、俺の心臓の音が響いているように感じた。


「・・・ふわ〜〜ッ」
英二が大きくあくびを一つした。
「ねむい・・・ここで寝るぅ・・・」

・・・やっぱり、ただの酔っ払いだ。
まじめに取り合っていたら、こちらが馬鹿を見る。

「・・・だめだめ。ここは明け方冷えるからな。せめて居間に行くぞ」
「やだぁ〜!起きられない〜!抱っこして!」
「だ、抱っこぉ!?」

まったく、自分が何キロあると思っているのだ。

「無理だ。引きずるぞ」
俺は立ち上がり、英二の両足首を掴んでぐいと引っ張った。

「ええ〜!?やだよぅ!抱っこじゃなきゃ・・・」
英二はだだっ子のように両足をバタバタさせて、俺の手をふりほどいた。

まったく、何たる酒癖の悪さだ。


「・・・英二には、もう一生、お酒は飲まないでほしいな」

ため息ついでに出た、自分の言葉にどきりとした。
一生、なんて。
これから、中等部を卒業したら、俺たちの道は分かれてしまうというのに。

「大石が『飲むな』って言ったって、飲むもん!」
英二は頬を膨らませ、ぷいと顔を反らせた。

「・・・そうだろうな」

英二のことだから、きっと高等部という新しい環境で、ますます友達も増えるだろう。
そのうち、俺たちは、OB会とか同窓会とかそういう集まりで、年に一度でも顔を合わせればいい方になるのだろう。
そうして、俺はいつか、英二の「古い友人の一人」になるのだろう。
この、やるせなく切ない気分も、時が経つにつれ懐かしい思い出に変わってくれるのだろうか。


「・・・よぉし、抱っこしてやるぞ!」
「マジで?やったぁ!!」
「おとなしくしていてくれよ・・・」

英二の膝の裏に左腕を差し込み、右手で背中を支え、注意深く立ち上がった。
そう、注意深く立ち上がったはずだったのだ。

ちゅ。
と、英二のくちびるが、頬に触れた。

不意打ちの「ちゅー」に、俺の軸足は、キッチンマットごと上滑りし、二人の体は宙に浮いた。




★★★




「おーいし・・・おーいし・・・」

暗い闇の向こうから、俺を呼ぶ声がする。
声は、近づいたり、遠のいたり、俺を捜してさまよっているようだ。

その声のする方には、小さく頼りない光が宙をただよっている。
あるいは、あれは、俺を捜している人の持つ、ランプかライトのたぐいだろうか。

声を上げて、俺はここだと伝えようとした。
だが、唇が思うように動かない。

川の流れる音か、滝が落ちる音か、水の音が聞こえる。
ここは、どこなのか。
このまま誰にも見つけてもらえず、見捨てられたように、俺は死んでしまうのだろうか。
音と、かすかな光しか感じられない、堅く冷たい岩の上で。
寂しく、心細い想いを抱いたままで。


「うわあぁん!!おーいしが、死んじゃった!!」

俺は、その声に、はっと正気を取り戻した。
呼んでいたのは、英二だったのか。
そして、ここは闇に包まれた滝壺でも川のほとりでもない、ただの夜更けの台所だ。

「・・・死んでないよ」
「おーいし!!」

頭の後ろの方が、じんじんと痛んでいる。
床に、したたかに打ちつけてしまったのだ。

英二は、酔いのせいで動転し、本当に俺が死んだと思って、しゃくりあげていた。
子供のようなベソかき顔で、頬の涙を手で拭っている。


居間から、つけっぱなしのテレビの音が聞こえて来る。

「台風XX号は時速60キロで移動中です。XX市では、瞬間最大風速30メートルを記録しました・・・」

風速30メートルだって。
ここは、こんなに静かで穏やかなのに。
けれども、心は寂しく沈んでいる。
嵐が吹きすさんでも凪いでも、滝壺でも台所でも、孤独であることに変わりはないのだ。

冷たい床に無様に転がって、心も体も冷えていく。
心細くて、寒くて。
泣き出してしまいそうだ。

「寒い・・・このまま死んじゃうのかな・・・」
「いやだ!おーいし、死なないでよ・・・」
「英二にお願いがあるんだ・・・」

ある所まで来ると、人は途端に図々しくなるものだ。
開き直るというのはこういう心境か、と俺は思った。

だけど、寂しいのは嫌だ、心細いのも御免だ。
ずっと、片想いでいいと思っていた。
英二が幸せなら、自分の気持ちはどうでもいいと思っていた。
一人でも、俺は平気だって、思っていた。


「寂しくないように、ぎゅっとして。それから、『ちゅー』して。そしたら、元気になるかもしれないから・・・」

これを、俺のファーストキスにしよう。
そして、青春の墓標とするのだ。
酔いからさめて、英二が忘れていようと覚えていようと、構いはしない。
嫌われるかもしれないし、避けられるかもしれないけれど、それが俺の気持ちなのだから、仕方ない。

俺の心臓の音は、先ほどとは違って、安らかに打っていた。

今はただ、ひとときでも君の温もりを感じたい。
優しい君はきっと、俺が縋ることを許してくれるだろう。
俺の寂しさも空しさも拭い去ってくれる、唯一の人。
君が嵐の晩に与えてくれた慰めを糧に、残りの人生を俺は一人で生きていくのだ。

風が雨を叩きつける音は、ますます激しくなっていた。
居間から、つけっぱなしのテレビの音が聞こえて来る。
深夜のお笑い番組か何かだろうか、脳天気な声が何かを叫んでいた。

「いいよ、大石が元気になるなら、ぎゅってしてあげるよ。それから、『ちゅー』だって、何回でもしてあげる」

英二は、俺の隣に横たわり、頭を両腕の中に収めた。
頭と背中とを、ぽんぽんと叩かれて、子供の頃に戻ったような気分になった。

「大石・・・」

英二のまつげが静かに伏せていくのを、俺はうっとりと見届けた。
それから、俺もまぶたを閉じた。




☆☆☆☆☆




「おおぉ・・・!」

乾が感嘆の声をあげた。

向かい合って座っていた大石は、乾のその声で我に返り、途端に顔を真っ赤にした。

夕陽が差し込む、放課後の理科室である。

「それで・・・」
乾は息を止めて、話の先を待つ。

「それで、って。それで終わりさ」
「終わりってことはないだろう。その先が肝心だ」
「その先って、何もないぞ。・・・なんだ、その疑いのまなざしは!?俺は嘘なんてついてない!」

大石が取り乱して立ち上がると、背もたれのない小さな椅子はあっけなくひっくり返った。

「・・・まあ、落ち着け」
乾は大石を促して再び座らせる。

「仮に、『ちゅー』の先はなかったとして、だ・・・」
乾は、ずり落ちてもいない眼鏡の位置を直す。
「・・・どうやって現在の状況、つまり、つきあうことになったのか。・・・教えてくれはしないか」

「そ、それは、だめだ」
大石は、乾から目を逸らし、うつむいた。

「なぜだ!!??」
今度は乾の方が、感情を乱して椅子から立ち上がった。
再び、小さな椅子が音を立てて床に転がった。

「英二が、秘密にしてって言うから・・・」
はにかみつつ、大石が答える。

「・・・な!?何たる、うらやましい・・・。しかし、大石、おまえだって。・・・どうだ?誰かに聞いてもらいたいんじゃないのか?」
「・・・それは。そうだな・・・」

乾は転がった椅子を立たせて、再び腰掛ける。
前のめりになって、大石に顔を近づけた。

「口外しないと、堅く誓おう。俺にだけ、打ち明けてみないか・・・」

稀に見る熱心さで、乾が大石を口説く。
乾は、暇に任せたのといよいよ色気付いたのとで、目下、韓流ドラマチェックと恋バナ収集に凝っていた。





☆☆☆☆☆




同じ時刻、自習室。

まばらになった学生の中に、手塚と不二がいる。
それぞれ、少し離れた席に座っている。

不二が立ち上がり、手塚に近づいた。

「僕、そろそろ帰るけど」
「もうそんな時間か。俺も帰るとしよう」

手塚は、腕時計の時刻を確認しながら、答えた。

手塚の開いていた本を、不二は見遣りすぐに目をそらした。
ドイツ語のテキストであった。

自習室の引き戸を閉めて廊下に出ると、手塚が口を開いた。

「そんなにさびしそうな顔をするな」
「え?」
「菊丸がいないと、さびしそうだ」
「そんなことないよ」

なんたる、鈍い男だ。
と、不二は思った。
自分が「寂しさ」の原因だとは露ほども思っていないようなのだ。

「僕は、ああなってくれてうれしいもの」
「それはそうだろうが」

確かに、まったく寂しくないと言えば嘘になるのかもしれないが、夏休み明けから卒業に向けてこうした事態は特に珍しいことでもない。
これから秋の文化祭を経て、卒業学年のカップルはますます増えていくことだろう。
大体が高等部へ持ち上がりの青学中等部でさえ、「卒業」という言葉はある種特別の響きを備えていた。

「きみは・・・」

手塚は、青学で文化祭の秋を迎えるだろうか。
不二はその一言を口に出せず、飲み込んだ。

「・・・?」

自分に欠けているのは、素直さだ。
と、不二は思う。
寂しいとか、行かないでほしいとか、せめて文化祭はここで過ごそうよとか、どうやったって口になんてできない。

きっと、英二であれば、たやすく自分の気持ちを告げてしまえるのだろう。
あるいは台風の晩を過ごすとか、でもって家族がオーストラリアへ旅行中とか、願ってもない展開がない限り、自分に奇跡は降ってこないだろう・・・

「・・・きみの家族はオーストラリアとか、行かないの?」

不二の口を突いて出た言葉は、突拍子もないものだった。

「・・・発想の飛躍、だな。すまんが着いていくのは容易ではない。・・・ええと。不二は、オーストラリアに行きたいのか?」

手塚は、絶句しつつも、大人の対応である。
こういうところ、意外と優しいんだよな、と不二は思う。

「ああ、もちろん行きたいよ」
「そうか。俺もだ。オーストラリアは自然遺産が豊富だからな。機会があれば、最高峰のコジオスコ山にチャレンジしたいものだ」
「へえ・・・」

なんだかおかしな方向に話が向いてきたぞと、不二は苦笑しつつ続けた。

「・・・山もいいけど、僕はあそこに行ってみたいな。ほら、グレート・・・何だっけ?珊瑚礁の・・・」
「ああ、バリアフリー?」

「・・・ぶっ。あはははは!バ、バリアフリーって!」
「うむ?バリアフリーではなかったか?」
「あはははは!」

正解は、もちろんグレート・バリア・リーフである。
ちなみに手塚家では、先週家族会議を経て、自宅のバリアフリー化が決議されたところである。

「・・・むう。そうか。バリアフリーは住宅で、珊瑚礁はグレート・バリア・リーフ・・・」

手塚は、二度と同じ間違いをせぬよう復唱中である。
その生真面目な姿を見て、また笑いがこみ上げてくる不二だった。


「・・・それならば、いつか二人で行こう。そのグレート・バリア・リーフに」

えっ。
と思うと、声の主はすたすたと先を歩いていってしまう。
不二は、泡食ってそれを追った。
不二の顔には、微笑みが浮かんでいた。




end

最後まで読んでくださりありがとうございました!
御礼SSはR18です、お気をつけてお進みください。


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