風速30mの孤独

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天気予報によれば、台風XX号は9月2日の夜半には関東地方に上陸するということだった。

その日、空は朝から曇っていた。
灰色の雲が、天から垂れるようにして青い空を遮っていた。
雨がいつ降り始めてもおかしくはない、そんな天気だった。

全国大会団体戦で青春学園は優勝をおさめた。
それから半月が経ち、いまだU-17選抜への召集はなく、引退した3年生は気が抜けたような日々を過ごしていた。


休み時間、3年6組の教室である。

「0時に上陸、だってさ・・・」

英二はさっきから、携帯電話の天気予報ばかり見ていた。

「明日は土曜だし、授業に影響なさそうだね」
不二が応じる。
それを聞いて、英二が落胆のため息をつく。

「あーあ、つまんないの」
「英二は、休校になったらなったで、退屈だって言うんだろう?」
「・・・そうかも。あーあ、なんか面白いことにゃいかにゃー・・・」

不二は苦笑するばかりだ。
今の英二にとっては、台風という災害でさえも気晴らしの一つのようだ。

「・・・今晩、不二のうちに泊まりに行ってもいい?」
「・・・えっ?うち!?」

英二としては、家にいたところで台風に興奮して眠れないのだろうし、ならば友人と語り合おうとでも思ったのであろう。
とはいえ、不二と英二との台風に対する温度差には、埋めがたい溝があるのもまた確かだった。

「急じゃだめかにゃ〜」
「うーん・・・母さんに聞いてみようか?」

不二は、携帯電話を鞄から取り出そうと体を屈めた。

「・・・泊まりに行きたい、というならば、お誂え向きの家がある」
「わあ!乾、急に、にゃんだよ〜!」

いつの間にか教室の中に入ってきた乾が、窓際に前後並んだ二人の席の横に立っていた。

「お誂え向きって?」

不二が屈めていた上体を起こし、乾を見上げた。

「その家は、家族が旅行中で不在だ。・・・そう、やりたい放題できる」

乾が不敵な笑みを浮かべ、英二は顔を輝かせる。
一方の不二の心には不安がよぎる。

「誰んち〜!?」
「・・・大石の家」

やっぱり、と不二は思った。

「ええ〜!聞いてないし!」

それはもちろん、こういう輩がいるから秘密にしていたのだろう。
不二とて、友人宅に泊まってのバカ騒ぎが嫌いというわけではない。
それよりも胸騒ぎの原因は、他にあった。

「やった!ねえ、不二、お泊まりしようよ〜」
「お泊まりったって、まず大石に聞かなけりゃ・・・」
「かたいこと言って〜・・・」
「皆で騒ぐって言うなら、僕はパス。台風が去ったら、明け方の公園へ写真を撮りに行きたいんだ」
「奇遇だな。俺もあいにく、ヤボ用で泊まれない」

だったらなんでこの情報をもたらしたのだ、と、不二は乾を睨んだ。
乾は、どこ吹く風の体である。
もう一方の英二はと言えば、どちらの思惑にも気がつかない。

「んじゃ、大石に泊まってもいいか聞いてくる〜!」
英二は、教室を跳び出して行った。

「・・・どういうつもり?」
心配そうに英二を見送り、不二は再び乾の方に向き直った。

「本人の希望だと言ったら?」
「まさか」
「直接頼まれたわけではないが」
「気を回したってわけ?」
「そうとも言う。情報を得たからには、もたらされるべき所にもたらすべきだろう」

乾は、人差し指で眼鏡を押し上げた。
表情は眼鏡に遮られて推し量ることはできないが、飄々とした態度は相変わらずだ。
全く小憎らしい、と、不二は思った。

「そういうの、世間では余計なお世話って言うんだよ」
「あいにく、世間とやらには関心がないのでな」

不二が、我慢がならなかったのは、「余計なお世話」が不二の美学に反していたということもある。
さらに言えば、少々大げさだが、不二は英二の身を案じていた。
無邪気で、無防備、無頓着、ないない尽くしの英二である。
不二からすれば、英二が大石の想いを知るのはまだ早すぎる、と感じていた。

年の割には自制心に富んでいるとはいうものの、大石とてお年頃、である。
一つ屋根の下、二人きりになれば何が起きようと不思議ではない。

乾という男は、世間はおろか、テニスというファクターがなければ基本的には他人にはとんと無関心なはずであった。
それが、どうした風の吹き回しであろうか、ここのところ、隙あればおかしな企みを仕掛けてきていた。
それとも、やはり彼も退屈を持て余し、他人の恋路に首を突っ込んでみた、というわけだろうか。
ふう、と一つため息をつき、不二は乾を残して教室を出た。




★★★




放課後、帰宅途中のスーパーマーケットである。

「ほら、楽しそうじゃないか」
「・・・そりゃあそうだけれど」
「善を施した後というのは、気分がいいものだな」

不二が見上げると、乾は満足げにうなずいている。


乾が指す前方には、夕飯の買い物をしつつ、若干はしゃぎ気味の大石と英二がいる。

「オクラを!?カレーに入れるのか?」
「だから〜。夏野菜のカレーだって言ってるっしょ〜」


不二は乾とともに、二人の買い物につきあわされるはめになった。
というよりは、不二は心配のために、乾は純粋な興味という不純な動機によりついてきたというのが正しい。

大石と英二は、今度はきゃっきゃとはしゃぎながらパプリカを物色している。
パプリカがオレンジだろうと黄色だろうと、大した違いなどないではないか。
二人を見ているうちに、不二は自分の心配こそが「余計なお世話」であり、楽しそうな買い物に「つきあわされた」という気分になってきたのだから、不思議である。

「僕、帰ろうかな・・・」

「ああ。そろそろ買い物を切り上げた方がいいだろう」
乾が、レジの向こうの大きくはない窓の方を見遣って言った。

強まってきた風にスーパーマーケットののぼりがバタバタとはためいている。
風は、そのまま地面からのぼりを引っこ抜き、さらっていきそうな勢いだ。
狭い窓からは空の色までは窺えないが、明らかに外は暗くなっている。

買い物客の動きが、にわかに慌ただしくなった。

「雨が降ってきたらしい、急ぐぞ」

乾の呼びかけに、大石と英二が振り向いた。







☆☆☆☆☆







雨混じりの風が、頬に吹き付ける。
雨戸の一つがなかなか閉まってくれない。
この家も既に築10年を超えて、そろそろ建て付けが悪い所が出てきた。

「うっわ〜、空、真っ暗だよ!」

見上げると、2階のベランダの手すりから英二が身を乗り出して空を仰いでいる。

「英二!2階の雨戸、閉めてくれるか。建て付けが悪くなっているのがあるから、気を付けて」
「おっけ〜!」

英二はますますの上機嫌だ。
台風が近づくのと正比例して、英二のテンションも上がっている。

気持ちがわからないではなかった。
全国大会が幕を閉じて半月余り、刺激と言うものに欠けた生活だったのだろう。
俺にしたって、刺激と言えば、模試の結果が思った以上に悪かった、ということぐらいのものだ。



「じゃじゃ〜ん」

まだ折り皺がついた新品のエプロンをつけて、英二がくるくると回る。

「いいっしょ、コレ。駅ビルのバーゲンで買ったんだ〜」
「うん、すごく似合うぞ!」

黒い帆布の生地に、白い猫の足跡が点々とプリントされているシンプルなエプロンを、英二は嬉しそうに眺めている。

俺は顔がにやけるのを止めることができない。
英二は、ふだん派手な色を好んで着ることが多い。
でも、黒のような色も、逆に英二の愛らしさを引き立てて、すごく似合う。

「へへへ。俺、暇だから料理がんばろうと思って買ってあったんだ」

英二はスーパーの袋から、先ほど二人で見繕った夏野菜を取り出す。
鼻歌を歌いながら、オクラ、赤いパプリカ、黄色いパプリカ、ズッキーニ、と取り出していく。

俺はそれを眺めて、早くも夢心地になった。
最近は、受験勉強で気持ちまで殺伐としていたものだから、なおさらだ。
英二が手料理を作ってくれるなんて、夢のようだ。
といっても、自分もサラダ担当ではあるのだが。




★★★




「いいなぁ〜!コールドストーン!」

英二は、お玉で鍋の中のカレーをゆっくりかき回しながら、ため息をついた。

「・・・ゴールドコーストね」

俺は、苦笑しつつ返す。
そう言えば、これは、この夏英二がよく言っていた台詞だった。
都心にしかないアイスクリーム店など、部活で忙しい中学生はなかなか行けないのである。
しかし、すでに4回目の言い間違いであった。

「にゃは。また間違えちゃった・・・」
こちらも苦笑いの英二。

喧嘩をしていると、こういう大雑把なところがやけにカチンとくることもあるのだが、通常は好ましく感じられていた。
英二といると気持ちが安まるというのは、この無頓着さにあるのかもしれない。
つられるように、細かいことは気にしなくてもいいという気分になってくるのだ。


俺の両親と妹は、親類の結婚式に参列するためにオーストラリアのゴールドコーストへと出発した。
それが月曜日のことだ。
金曜日の今日、家族は帰国の予定だったが、あいにくの台風接近で成田便は運航ストップとなってしまった。

母と妹の笑い声、話し声がない家は静かで、俺は一人の時間を満喫できたけれども、それが数日続けばやはり寂しくなってくる。
折しも、カレンダーが秋へと変わり、夜になると虫の声が響くようになった。
それもまた、人恋しさを加速させるものだった。
だから、英二が泊まりに来たがっていると乾に聞いた時は、なぜだかほっとした気持ちがしたのだ。


「国際結婚ってどんな感じだろう〜」

英二は夢見るような表情で宙を仰ぐ。
この無邪気さも、英二のいいところだ。

「オーストラリアにおける離婚率は50%を超えるそうだ」
昨日乾に告げられた話を思い出す。
確かに、結婚というものは大変なのかもしれないけれど。
結婚にも恋にも、まだまだ夢を持っていたかった。


「ルー、溶けたみたい?」
「うん、弱火であと少し煮込んで、完成。そっちは?」
「こっちもあと、ツナをのせたら終わり」

サラダ担当と言えば聞こえはいいが、指示された野菜をちぎって皿にのせただけである。
それでも、二人で台所に並んで喋りながら料理を作るというのは、何とも言えずいいものだった。
あるはずのない未来を、俺に妄想させるには十分なものだった。

台所の曇りガラスの向こうで、植え込みの木の枝が上下に大きく揺れていた。
いくらかの雨が窓に吹き付けているようだが、料理をしているとその音にかき消され、台風が近づいているということも忘れてしまう。
家中の雨戸を閉めて回ったものだから、外が見える窓というのは、台所の他はトイレと浴室の小窓くらいのものだった。

「台風、どこまで来たんだろ。テレビつけてみようか」

英二がエプロンで手を拭き吹き、居間へと入っていった。




★★★




「XX市XX港よりお伝えしています・・・」

テレビの中のアナウンサーは、雨の埠頭で風に吹き飛ばされそうになりながら、大声を張り上げている。


「うっわ、すっげ〜」

そう言いながら、英二が居間に入ってきた。
風呂上がりの英二は、頭からタオルを被っている。

「夜中の間に去ってくれるといいな」
「晴れたら、不二も撮影に行けるしね」
「撮影か。台風が去った後というのも趣きがあるかもしれないな」

「さってと。そろそろ、第2部、行きますか!」
「第2部?」」
「いいもの冷やしてあるんだ〜」

うきうきした足取りで台所へと消え、再び現れた英二の両手には、缶チューハイが握られていた。

「おい!英二・・・!」
「いいじゃ〜ん!たまには。大石さえ黙っててくれればわからないんだから」
英二は唇の前に指を一本立てて、ウィンクする。

着替えを取りに家へ寄った時に、持ち出したのだろうか。
それにしても、こんなことでは英二のご両親に申し訳が立たないではないか。

こちらの心配をよそに、英二はあくまで楽しそうだ。
プシュッと音を立てて、プルタブを開けてしまった。
舐めるようにほんの一口を飲んで、息をつく。

英二の話では、自宅では親兄弟によってアルコールが入った飲み物は禁止されているという。
全くもって健全な家庭である。
よって、英二はそれほどアルコールには慣れていないだろう。

俺の方はといえば、自宅で父にビールを注いでもらうことがしばしばあった。
自営業でさばけたところがある父なので、実のところビール程度であれば青学に入学した頃から飲みつけていた。

「はー。よく冷えてる。大石も飲もうよ〜」
「まったく・・・仕方ないな。少しだけだぞ」

苦笑を浮かべると、英二は顔を輝かせて、俺の分の缶チューハイのプルタブを引き開けた。




★★★




「英二、眠いのか」
「うう〜ん、眠くないよぅ」

英二は目をこすりつつ立ち上がり、台所へ消えた。
足取りがふらふらしている。
3本目を取ってこようと言うのだろう、まったく飲み過ぎだ。

俺は英二の跡を追う。
英二が冷蔵庫の扉を閉めたところで、後ろから近づき、3本目の缶チューハイを取り上げた。

「あっ!なんだよ〜かえせ!」
「酔っ払いの菊丸英二君、大人しくしてくださ〜い!」
「むう〜!大石のケチ!」
「ケチで結構。家で何かあったら俺の責任になるんだからな」
「ちぇ〜!」

取り上げた缶チューハイを、冷蔵庫の中に戻す。
扉を閉めて、振り向きかけたその時。

英二の腕が俺の首に回され、顔が近づき、やわらかいものが唇に触れて、そして離れた。

「隙アリ!なんちて〜!!」

いま、なにが!?
絶句する俺の首に、英二はまだ両手を巻き付けてもたれている。

「え、英二、今、何、し・・・?」
「何って?『ちゅー』したんだよぉ!ぎゃは!」
「ぎゃは!ってね、あの・・・」

自分で何をしたのかわかっているのだろうか、いやわかってなどいるはずがない。

ファーストキスを覚悟なしに奪われ、俺は言葉も紡げず立ち尽くすしかなかった。


「XX半島に上陸した台風XX号は時速60キロで移動中です。県、XX県は暴風域に入りました。大雨洪水警報、注意報が出ている地方は以下の通りです・・・」

つけっぱなしのテレビから、台風情報が流れていた。





つづきます☆
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