さらに数日後、12月中旬
「・・・大変興味深い現象です」
「予知夢じゃねえの?」
「・・・それは、極めて非科学的ですね」
ドイツ時間、午後11時。
跡部景吾は、天鵞絨色のガウンを着崩してくつろいだ様子である。
インターネット電話のこちら側は日本。
徹夜明けの白衣の男が跡部の電話の相手であり、ATBファーマの研究員である。
ATBファーマの歴史は、江戸後期の蘭学私塾と付属機関の薬処の開設まで遡る。
現在は跡部家私有の製薬会社であり、株式上場はせず、従業員の外部登用も一切していない。
社員はすべて、先祖代々跡部家に仕えてきた者たちである。
かつて小石川にあった薬処は、いまや最新の研究施設を擁して富士の裾野に居を移している。
跡部はソファに腰を下ろし長い脚を組んで、A4サイズの紙を数枚手にしている。
「・・・非科学的?言わせてもらうが、俺様の見る夢は全部予知夢だぜ」
「・・・それはともかく。大奥様の場合と酷似していることにご注目を・・・」
「記憶障害か・・・」
例の薬は、跡部の曾祖母の記憶障害克服のために開発された。
服用中は一年若返り、記憶障害にかかる以前の正常な状態へと戻ったが、問題は見る夢であった。
一年若返った彼女が知るはずのない事実、例えば庭に新しく植えた新種のバラの名前、採用したばかりのメイドの身の上話などが、しばしば夢の中に現れた。
英二の場合も、記憶障害、見るはずのない夢、というキーワードは共通している。
中学二年生の英二が知るはずがない、中学三年生の夏休みの記憶。
その断片が、夢を通して現れ出た。
「脳の一部は記憶をとどめたままである、つまり、若返っていないということでしょうか・・・」
「この原理が明らかになれば、肉体も現在の状態を保つことが可能になるということか…」
同じようなやりとりが、跡部の曾祖母の時にも繰り返された。
夢のメカニズムと脳との関係は、現代の科学をもってしても詳らかではない。
それが明らかにされない限りは、堂々巡りの問いであるのも事実だ。
「・・・脳自身が、補完能力を持っている、あるいは過度の適応能力を発揮しているとは言えないでしょうか」
「そら見ろ。つまりはそれが予知夢だぜ」
「いえ、そうとは。ただ、私の見解は、肉体を保持したままでの効果は望めないのではということです」
「・・・まあな。ただ、『望めない』では予算は出ないぜ」
「承知しております」
曾祖母の事例からこの薬に新たな可能性が期待され、図らずも菊丸英二の事例から、より一層の期待が高まった。
新たな可能性とは、現在の肉体を保持したままで、脳の一部だけを操作し記憶を過去へと遡らせること。
肉体の若返りを伴わない、記憶だけの若返りである。
むろん、物理的に不可能というのは誰もが承知の上である。
しかし、物理的に不可能ではという研究をするのがATBファーマの役割である。
そして時に瓢箪から駒としかいいようのない、研究者自身も思いも寄らない成果が上がることもある。
「天才の閃き」、それを形にするのが、ATBファーマの社員が代々受け継いでいる使命なのである。
「悪いようにはしない。俺はおまえを買っている」
跡部はつぶやいて、書類の上の、ある文字を指でなぞった。
「ありがとうございます・・・」
白衣の研究員は、主人に気取られないよう、密かに切ないため息を漏らす。
研究の成果だけが、自らが示せる忠誠であり愛であると彼は自覚している。
一回り以上も年下の少年に、もう何年も心を奪われ、尽くせるだけを尽くしてきた。
その彼にとって、今回の使命拝領は身を切られるほど辛いものとなった。
"Mission for Tezuka Kunimitsu"
これが、彼が拝受したプロジェクト名である。
そして、言うまでもないが、例の錠剤の表面に刻まれた「MT」という文字はプロジェクトの頭文字である。
「それにしても・・・」
電話を切った跡部は、美しいカットグラスにこっくりと深い紅色の液体を注いだ。
自家農園で栽培、製造しているオーガニックのぶどうジュースである。
跡部は、再度、研究所からの報告書に目を通す。
菊丸英二は、しくじったはずだった。
相棒に薬を飲ませそびれたはずだった。
あの電話をしたのが、日本時間で11月28日6時、菊丸の誕生日当日の早朝であった。
ところが、それから一週間である。
ファクシミリで送付された報告書の中に、菊丸が書いた「MT 服用後のご感想」があった。
「満足度」の欄には、「非常に満足している」に花丸がつけてあり、さらに頬に絆創膏を貼った猫の絵、菊なのか薔薇なのかとにかく得体のしれない花の絵、ハートマークと、とりどりに描かれている。
「・・・やっぱりアホじゃねえか。それもすこぶるアホだ」
跡部は、フッと笑いを漏らした。
あれから一週間、神か天使の悪戯か、何かの具合で菊丸の元に幸運が舞い降りたらしい。
その概要は、調査員の報告からもわかっている。
そして、思いを巡らせる。
同じ国の空の下、同じく高みを目指しているはずの男へと。
「別に、どうこうしたいっていうんじゃねえ・・・」
報告書の「Tezuka Kunimitsu」の文字を再び指でなぞる。
跡部は、MTを手塚に服用させようというつもりはなかった。
むしろ、自ら服用しようと考えていた。
夏の日の死闘からである。
梁から飛び出た古釘のように、どうしようもなく気にかかる存在になった。
欲求に素直に従い、彼を追い駆けてここまで来た。
しかし一方では、メンタル面で支障にならないかという懸念もあった。
あの夏の日よりも記憶を前に戻してみれば、何か変わるだろうか。
しかし、それがきっかけで逆に何かを知ってしまいそうな気もして恐ろしい。
今回のプロジェクトが成功し、肉体の変化を伴わない記憶の若返りが実現したならば。
その時こそ、薬を服用してみようか。
跡部は、実現しそうにない可能性に賭けていた。
報告書を机の抽斗にしまい、鍵をかけた。
カーテンの隙間から窓の外を覗く。
先ほど降り出した雪が、地面を白く塗り潰していた。
音という音が雪に吸い込まれ、街中が静まり返っている。
眠れない夜になりそうだ。
跡部は戸棚の扉を開けて、カフェインレスのコーヒー粉を取り出した。
「ミラクル・タブレット」
やっとendです