子猫に触れてみて、その柔らかさに驚いた。
あどけない仕草に、知らず口元がほころび心がほぐれていく。
「やわらかいだろ?」
英二が尋ねて来た。
「うん」
「大石、顔がニヤついてる」
「英二だって」
母猫は、闖入者たちに驚きもせず、横たわったままで子猫たちを眺めていた。
「ずいぶん堂々としてるんですね」
鷹揚とした母猫の態度に、俺はその家のおばさんに声をかけていた。
「2回目だからね。でもこれで終わり。この子は半野良だし、あんまり子供産むと寿命が縮まっちゃうからね」
「終わりって?」
「避妊手術よ」
「ああ、なるほど…」
英二はおばさんと世間話を始めた。
「うちの息子、適齢期なのに全然そんな気配なくって。もうね、おばさん、孫の顔見るのだけが楽しみなのに」
おばさんは若く見えたがどうやら60歳前後のようで、やり玉にあがっている息子さんは30代半ばとのことだった。
英二はさすがおばあちゃん子だけあり、話の合いの手も上手で、おばさんは舌が回って仕方ないという感じだった。
「そうだ、僕たち、ジュース飲む?」
おばさんはおもむろに立ち上がり、英二はまた満面の笑みで、はいいただきますと答えた。
俺は何も言えず、ただ英二の愛想のよさにあっけにとられた。
「猫がかわいいのなんて、一瞬なんだぜ」
英二は子猫の腹をやさしく撫でていた。
「すぐに大人になっちゃってさ、ふてぶてしいの。まあ、それがいいって人もいるんだけど」
マニアだよなあ、と言いながら、子猫を抱き上げると鼻にキスをした。
「なあ、大石は子供とか欲しくないの?」
俺はまだ15なわけで、そんなこと、考えたことは一度もなかった。
そういうわけで、沈黙を返した。
「俺は、子供産めないんだぜ。わかってる?」
そういう話だったか。
「わかってるよ。子供なんか要らないよ」
改めて考えてみても、それはまるでリアリティのない話だった。
第一、俺たちだってまだ、子供みたいなものなのだ。
この先、結婚するような年になっても、二人一緒にいられるならば、これほど幸せなことはない。
もちろん、具体的にどんな未来なのかは、まったく想像がつかなかったが。
英二さえ手に入れば、俺はそれでいいのだから。
「…よく考えもしないで」
英二の一言は図星を突いていた。
英二の指は猫の腹を撫で続けている。
小猫は恍惚の表情で、小さな体を投げ出していた。
薄い毛の下には、桃色の腹が透けて見えて、それがゆっくりと上下している。
英二は子猫の首から顎の下を撫で上げた。
猫はいっそう気持よさそうに、顎をぐいと持ち上げる。
もっと撫でてくれと言わんばかりだ。
英二の指先は子猫の桃色の口元をなぞった。
噛まれたらどうするんだと思ったが、そんな心配をよそに、子猫はうっとりと英二の愛撫に身を任せていた。
「ほんと、大石はなにもわかってないよ…」
「じゃあ、英二はどうなんだよ」
「俺は、高校卒業したら、すぐ結婚すんの」
「…馬鹿じゃないのか!?どうやって生活してくつもりだよ。第一、大学行かないつもりか!?」
「奥さんと俺んちに住むの。大学も行くよ。うちの親の真似っこだけど」
英二の両親は学生結婚で、そのころから今までずっと実家住まいだ。
「共働きしてお金貯めて、マンション買うんだ。子供はそれから。でも、それまでに出来ちゃったら、父ちゃんたちみたいにずっとうちに住むことになるかもね」
子供っぽいとばかり思っていた英二が、実現可能な将来を夢に描いていた。
そのことに、俺は少なからずショックを受けた。
「大石は、将来の計画とかある人だと思ってたけど。なんか、らしくないよね」
将来の計画ならある。
医者になりたかったけど、理数系の科目は苦手で、理系に進めば苦労するのは目に見えている。
だけど、サラリーマンよりは、自営業の方が自分の性格には合っているだろう。
たぶん、俺は父親と同じ職業につく。
試験に合格するまでは父の事務所で働かせてもらって、合格したら、都内の大きい事務所に就職して経験を積んで。
そのうち、自分の事務所を構えたい。
そういう計画ならあるんだけれど。
今目の前にいる英二が好きで、ただ抱きしめて、キスしたい。
それだけじゃ、いけないんだろうか。
思わず、右手を伸ばして英二の腕を掴んで引き寄せた。
バランスを失った上半身は、俺の胸に倒れ込んだ。
英二は何か言いかけて口を開いた。
何か言われたら反論しようと思ったが、途端に頭が真っ白になってしまい口をつぐんだ。
英二は言いかけた言葉を飲み込んで、よろけた体勢を立て直そうともがいた。
俺は、その腕を自分の腕の中に巻き込んで、両方の手首を束ねるようにして掴み、それを阻む。
英二は口元をぐっと引き結んで、こちらを振り仰ぎ俺を睨みつけた。
瞳には、問いただすような強い光があったが、俺はそれには動じない素振りを見せた。
心臓がばくんばくんと音を立てて血液を送り出していく。
気が遠くなりそうだったが、目を逸らしたら負けだと思ってそのまま睨み合った。
「オレンジジュースでいいかしら?冷えてないのなら、他の味もあるんだけど…」
おばさんが足元に子猫を絡ませながら、部屋に入ってきた。
俺は、束ねていた手首を離し、英二の体は自由を取り戻した。
それからは、何事もなかったかのように、ジュースをごちそうになり、またひとしきり世間話をした。
英二は、おばさんの話に相槌を打ちながら、少し乱れた髪の毛を気にするようにときどき触った。
俺はそれを見て、なんとも言えない悲しい気持ちになった。
好きな子には、どんな時も優しく紳士的でありたいと思っていたのに、と。
理想と現実とは、かくも大きな隔たりがあるものか。
30分ほどそういう時間を過ごしてから、俺たちは子猫の家をあとにした。
「さっきは、ごめん」
先手必勝とばかりに口火を切ったが、相手から返ってきたのは沈黙だった。
いたたまれずにうつむくと、道端のギンモクセイが目に飛び込んできた。
さっきまでの浮かれた気分を思い起こして、なんだかもう泣き出したい衝動に駆られた。
つい、と英二の腕が伸びて来て、指を俺の指にからめた。
驚いて英二の方を見たが、なんでもない顔をしてこちらを一瞥もしない。
さっきまで子猫を気持ちよくさせていた英二の指が、俺の指や手の平に触れては離れる。
その感触は、手をつなぐよりむしろくすぐったくて甘い気分を誘った。
力任せに握った手首は痛まないだろうかと、自分の野蛮な行為にまたしても後悔が襲う。
指は、離れそうで離れず、触れそうで触れない。
離れようとした指をこちらから握り返したが、今度は振り払われなかった。
握った指に、思わず力がこもる。
暖かいもので全身が満たされ、体温が少し上がったような心地がした。
「大石、顔、またニヤけてるぜ」
「…当たり前だろ」
英二といれば、変わり映えのしないこの道も、たちまち新鮮な驚きと輝きに満ちていく。
俺は、ギンモクセイという花の名前を知ったのも初めてなら、子猫の家の人のいいおばさんと話をしたのも初めてだった。
明日、二人で歩く道は、いったいどんな道だろう。
気付けばすっかり夕暮れで、地面に落ちたギンモクセイが長い影を伸ばしていた。
end
最後まで読んでくださりありがとうございました! 