じゆうにへんかん20題
5 でんき
ちょうど日付が変わった頃、机の上の携帯電話が唸りだした。
晩夏の蝉のように這い回るそれを慌てて捕まえると、画面には「英二」の二文字が浮かんでいた。
「…もしもし」
「窓、開けて!」
窓を開けると、真下に英二がいて、手を振っていた。
ベンチコートを着込んで、マフラーをぐるぐる巻きにしている。
足元には、彼のうちの犬がちんまりと座っていた。
「勉強してるの?」
「そうだけど…英二は何してるの?」
「お月見!」
思わず空に目をやると、見事な満月が掛かっていた。
「こんな夜中に出歩いちゃ危ないよ」
「だって暇なんだもん。大石の部屋、電気点いてたからラッキーと思って」
「ちょっと待ってて」
携帯電話を切って、壁に掛かったハンガーからコートを外して着込んだ。
この辺りだって最近は物騒だっていうのに…。
そんな説教を垂れたって、どうせ右から左なのだ。
お月見とやらに付き合うふりで、家まで送り届けよう。
なるほど、今夜は確かに十五夜だろう。
廊下は青白い光に満ちていて、電気を点けずとも歩くことができた。
月の満ち欠けなど、最近では気に留めたこともなかったのだ。
家族を起こさないように、階段を静かに下りた。
玄関の鍵を開ける時に、わずかに静電気が走りひやりとした。
それと同時に外側からドアが引き開けられて、英二と犬の顔が覗いた。
犬は英二の腕に抱かれて、飼い主と同じ瞳で俺を見上げた。
「門に鍵掛かってなかったぞ。無用心だな。」
…気をつけないといけないのは、我が家の方だったか。
そう思いながら、ドアの取っ手に左手の指で触れようとした。
その瞬間、バチバチという音とともに鋭い痛みが走った。
取っ手と指との間には、青い閃光が瞬いた。
「…すっげー…」
「いたた…」
「いーもん見た」
俺がコートを着たことに気が付くと、英二はうれしそうに微笑った。
「お月見、行く?」
満月の夜はほの明るく、散歩には最適のように思われた。
もちろん、寒くなければの話ではある。
「ほんとに真ん丸だな」
「雲がなくて、いいお月見日和だよ」
俺と英二の間を歩いていた犬が、二人を交互に見上げた。
楽しげな表情だった。
尻尾をちぎれそうなほど振っていた。
さすがに星はちらほらとしか見えないが、それに目をつぶればなかなか風情ある夜空だ。
こういう時は言葉は要らない、そう思ったが、つい話題を探して口にしていた。
「明日からか…」
「うん。だからかな。遠足前日の小学生みたい…」
先週、内部進学の合否がわかり、明日から正式に高等部の練習に参加できるのだ。
週に何時間までとか、朝練は不可とかいろいろ制約はあるのだが、ともかくうれしいのは確かだった。
真夏の熱の残り火は、今も体の中で燻り続け、出口を探して暴れ出す寸前だ。
自動販売機の明かりを目掛けて、英二と犬が駆け出した。
英二は財布を取り出して、何飲む、と言いながら振り返った。
「要らないよ」
そう答えると、英二は迷わずホットミルクティーのボタンを押した。
そして、プルトップを引き開けるとこちらへ差し出した。
「はい。ひとくちどーぞ」
「ありがとう」
受け取って一口飲んだ。
甘くあたたかい液体が食道を通過して胃へと下りていった。
英二が俺の手の中の缶に手を伸ばそうとしたから、思わず言った。
「気をつけて」
「なに?」
「静電気」
「ああ…」
英二は慎重な動作で缶を受け取った。
小作りの鼻が寒さで少し赤くなっていた。
俺の視線は、ある一点に注がれた。
英二のくちびるがゆっくりとそこに触れた。
瞬間、体の中をちりりと電気が走り抜けた。
…気をつけないといけないのは、俺の方だった。
英二は喉をわずかにのけ反らせ、ミルクティーを一口飲んで微笑った。
恋の効用の一つは、自分自身も知らない一面を発見できるということだろう。
俺は、自分で思っていたよりも、ずっとずっと純情だった…。
ため息を一つつきながら空を仰ぐと、白々とした月と目が合った。
まるで込み上げた笑いを噛み殺したような表情だった。
[でんき−電気(静電気)]
end