天才と呼ばれる人物とは、得てして理解の範疇を超えているものである。
手塚国光という男に関しても、それは例外ではない。
「時に、大石」
「なんだい、改まって」
「菊丸とつきあっていないというのは本当か」
「…!!」
大石は取り乱した様子で周囲を見回した。
放課後の印刷室である。
誰が聞いていようと不思議ではない。
印刷機の立てる音に紛れてとはいえ、手塚の声も練習時さながらに張っている。
渡独の準備で忙しい現生徒会長の手塚を見かねて、大石は連日生徒会室に出入りしていた。
生徒会長というのは、威張り腐って命令を下しているわけではない。
(某H学園についてはわからないが)
手塚が印刷機の紙詰まりを手際良く取り除く姿は、業者さながら華麗の一言であった。
生徒会役員らとともに、やんやの拍手喝采を送った大石だったが。
「心配するな。皆、すでに生徒会室に戻っている」
「…いや。なんていうか、おかしな質問だな」
大石の声は少々裏返った。
平静を装いたいのはやまやまだが、動揺は隠せない。
手塚は、二人が「つきあっていない」ということに「疑問」を抱いたということになる。
手塚とは親友である大石としても、手塚の発想は理解しがたいものがある。
そして、なによりも、この男が他人の色恋に興味を持ったということが信じられない大石であった。
「…おかしな、とは?」
「…まあいいよ。で、それはどこかからの情報ということかい?」
手塚という男は誰より純粋な男である。
それだけに、手塚が何か奇矯なことを言い出す時というのは、大抵誰かしらの入れ知恵のようなものがあってのことである。
「不二に聞いた」
やはりと大石は腑に落ちた。
「つきあっていないよ」
「本当だったのか」
グシャという音の後に、印刷機がストップした。
「また紙詰まりか」
「やはり、業者を呼ぶほかないようだ。大石、今日はこれで終わりにしよう」
「あ、ああ」
何事もなかったかのようなポーカーフェイスで、手塚は刷り終わった印刷物を整理し始める。
大石もつられてそれに従った。
「…好き合った者同士ならば、と思ったのだ」
「え?」
「発想が短絡的すぎると、よく不二に言われる」
それもそうだが、発言も飛躍しすぎじゃないかと思う大石であった。
☆☆☆☆
「…って、ことがあったんだ」
英二は、口にしかけたコーラを噴き出した。
「…手塚が色気づいた!」
「本当、驚いたよ」
「赤飯炊かないと〜!?」
英二は、いつまでもケラケラと笑っている。
とはいえ、学校からの帰り道、公道を歩きながらである。
すれ違う人々が奇妙な顔をしてこちらを振り返る。
「好き合った者同士」という物議を醸しかねない発言については、英二に告げなかった。
しかし、大石はこの発言のせいで一晩眠れなかったのだ。
「手塚から見たら、そう見えるってことなのか!?」と、問い正したかったものの、結局できなかったというわけだ。
コンビニエンスストアで英二が泣き出した日から1週間が経過した。
その日、大石は英二を家まで送って行った。
結局、何が涙の原因だったのかは、教えてもらえなかった。
英二が話したがらない以上はしかたがない。
DVDの録画も、ぱったりと頼まれなくなった。
大石は、急に頼られなくなったようで物足りない気分だった。
英二は半ば嫌がらせでやっていたのであるが、大石にはその嫌がらせも全く通じていなかったということだ。
今日はというと、大石は英二の家に呼ばれていた。
といっても、英二の祖母からの招待である。
英二が大石宅で夕飯をいただいたのに、いただきっぱなしでは申し訳ない、ということであった。
「…その。不二に相談したりしてるのか…?」
「え?」
「だから、あのこととか…」
「…何も言ってないよ。だから、不二も『つきあってない』って手塚に答えたんじゃないのー?」
「…ああ、そうか」
沈黙を招いてしまった。
言われてみればその通りである。
「ちゅーされたとか、言えるわけないじゃん」
英二は声を潜めた。
頬がほの紅く染まる。
それを見て、大石の頬も紅潮していく。
「…ったくさあ。手塚の奴、なんだってそんな風に思ったんだろ…」
「う、うん…」
「好き合った者同士」、という言葉が手塚の声でもって大石の脳裏に何度もこだまする。
こんな風に気まずくなるなら、この話題は胸に収めておいた方がよかったろうかと、大石は少々後悔した。
「…でもさ、手塚がそういう話するとはな〜」
英二の表情は、あっという間にさっきまでの愉快そうな様子を取り戻していた。
「テニス馬鹿っつーか、テニスロボじゃん」
「ロボはひどいな…。まあ確かに、その手の話は全くしたことがないよ」
「マジで!?そこまで行くとちょっと引くな…」
「それだけ、頭の中がテニス一色だったっていうことだろ?」
だからこそ、目標を達成した今、手塚が人並みにそうしたことに興味を持つのもいいではないかと大石は思った。
「もっと早くにそうなってたらさあ、性格丸くなってたかもしれないよね」
「そうかもしれないけど、そうしたら、青学全国制覇はなかったかもしれないぞ」
おそらくは、大石自身の中学三年間もいたって平凡なものになっていたのは確かだろう。
当時若干一年生であった手塚の、全国制覇という野望、それがぶち上げられることがなければ。
「手塚がいなかったら、俺は全国制覇なんて考えもしなかったよ」
一年生当初から、手塚が中学最強のテニスプレイヤーと成り得ることは、誰の目にも明らかだった。
ただ、彼が自身の技術を磨くことにのみ専心するタイプのプレイヤーではなかったことは、その外見の印象からすると甚だ意外であった。
手塚は、チーム自体の向上を掲げ、それに邁進し、また、後輩にその志を繋げた。
ポーカーフェイスの裏側には、熱すぎるほどの情熱と気迫があったのだ。
「…俺は、『何バカなこと言ってるんだ』って思ってた」
「ああ…」
英二だけでなく、当初多くの一年生の反応がそうであったことを大石は思い出した。
手塚に最初に同調したのは、大石であった。
その後、不二に乾と、支持者をいつの間にか増やしていったのだ。
「俺はさあ、どっちかっていうと、大石に賭けたんだよね」
「俺に賭けた?」
「大石が信じてるから、俺も信じてみようと思ったんだ」
大石は、思わず英二の横顔に目をやった。
さっきまでとはうって変わって、真剣な表情であった。
まったく、英二ときたら表情がころころと変わるのである。
そのどれもが生き生きとしていて、大石はつい見入ってしまう。
「周りの誰も信じてなかったら、言い出した誰かさんだってただのイカレタ奴で終わるんだよ」
「…」
「だからさ、大石がいなかったら、青学は全国制覇どころじゃなかったと思うよ」
「まさか…」
「そうだよっ!もっと自信持てっつーか、誇りにしろ副部長!」
英二は平手で、大石の背中を叩いた。
「…あ、元副部長か」
英二は朗らかに笑う。
「なあ。桃がさ、あれ、自分でやってたよ、備品チェック。大石先輩見習って『誰でもできることは俺がする』んだってよ〜!」
「桃が?」
後輩の成長を聞かされて、同時に遠まわしに自分を褒められたようで、大石はなんともむずがゆい気分になった。
「ん?英二、もしかして、また部室へ行ったのか?」
「…あ。ヤベー…」
英二は、笑いながら駆け出した。
「こら、待て!」
大石もつられて笑いながら、それを追いかけた。
何度も言うようだが、公道である。
決して砂浜などではない。
キャハハと楽しげな声を上げて英二が駆けて行く。
それを追う大石の顔は完全に緩みきっている。
「つかまえた〜!」
大石の右手が、英二の左手を捕らえた。
「…あ」
か細い声を上げ、英二が左手を引こうとした。
大石は思わず、右手を引っ込めた。
「ごめん…」
「…」
英二の頬が紅く染まる。
それを見て、すでに赤かった大石の頬も、さらに紅潮していく。
「好き合った者同士」、という言葉が、またまた手塚の声でもって大石の脳裏に何度もこだました。
「……ごちそう、なんだろうな?」
「たぶん、すき焼き。ばあちゃんのごちそうっていつもそれだから……」
残りの道のり、二人は言葉少なに歩いた。