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「英二!」
大石秀一郎が3年6組の教室の出入り口に立って、菊丸英二を呼んでいる。
この光景、ここ二週間のうちに何回見たろうかと、不二周助は思う。
と同時に、後輩じゃあるまいしどうして大石は教室に入って来ないのだろうかと訝しく思うのだった。
大石はケースに入ったDVDを差し出し、英二はそれを受け取った。
二言三言のやりとりののちに、英二は戻って来て、再び不二の隣に座った。
「またDVD録ってもらったのかい?今度はなに?」
「えーっと、なんだっけ」
英二は言いながら、DVDの表面にマジックで書かれた大石の筆跡を確認し、不二にもそれを見せた。
70年代に放映された有名なアニメーションのタイトルが書かれていた。
「兄ちゃんが見たいって言うから」
前回は、祖母が見たいと言った昭和の名作ホームドラマ。
前々回は、母が見たいと言った話題の韓流ドラマ。
その前はなんだったか、不二はもう覚えていない。
大石の家はCSが入るからと、これまでもたびたび英二が大石に録画を頼んでいたのは知っていた。
しかし、ここ最近の頻度については大石に同情するしかない。
「大石だって暇じゃないんだから…」
頼むにしても少し図々しすぎやしないかと、不二は言いかけた。
言いかけたその言葉を、英二がさえぎる。
「いいんだよ。これくらいしないと割に合わないんだから」
英二はムッとした表情になって黙り込んだ。
「割に合わない」とは一体なんのことだろうと不二は思ったが、それ以上口をはさむのを止した。
数日前にも尋ねたが、何も教えてもらえなかったのだった。
どうしたら「割に合う」ことになるのかは、英二にもわからなかった。
半月ほど前のこと、英二は大石と「ちゅー」をした。
正確に言えば、1回は「した」のだが、そのあと16回は「された」のである。
された直後は、驚きの方が大きかった。
嫌悪感を感じるということもなかった。
だけど、後になってよくよく考えてみると、癪に障って仕方なかった。
自分はばかで、だまされた。
大石があんなに口が上手いとは思わなかった。
それに、どんなに抵抗しても大石の体を引きはがすことはできなくて、されるままだった。
大石にDVDを何枚も録画させて、そしてそれらを英二自身は一切見ない。
少なくとも、16回は許されると英二は思う。
これを何回繰り返せば「割に合う」のかわからない。
気が済むまで繰り返すとしか言いようがない。
自分の気が済むまで大石が我慢できればの話だが、と英二は思った。
放課後である。
部活がないと、中学生の放課後というのはいかにも長い。
学生ならば勉強しろというのは大人の言い分である。
すでに6時間も教室に座っていたのにいまさら何をするのだろうと、英二は思うのだった。
「もう部室には行っちゃいけないんだけど…」
行っても、先輩らしいことは何一つ言わない上、後輩のやる気をそぐだけなのだ。
そんなことは大石に言われなくても、英二自身わかっていた。
「でも、俺、テニス以外なんもないんだもんなあ…」
そうつぶやくと、くるりと踵を返し、部室へと向かった。
英二はテニスコートを迂回して部室にたどり着いた。
テニスコートの前を堂々と通っては、計画が台無しなのである。
ポーンポーンとボールの跳ねる音がこだましていて、聞いているだけで体がうずうずするようだ。
練習が始まっているので部室には誰も残っていないだろうと思いつつ、用心深くドアを開ける。
案の定、誰もいない。
英二はカバンをベンチの上にどさりと置き、部室の中を見回した。
「あー。やっぱ、落ち着くなあ」
英二は、ためらいなく桃城のロッカーを開けた。
漫画の一冊や二冊は出てくるだろうと、ごそごそとロッカーの中をあさる。
予想通り、漫画雑誌が二冊出てきた。
これを読んで時間を潰そう。
そうして、後輩たちが帰って来る前に退散すればいい。
この計画に、英二はなんとなく胸がすく思いがした。
後輩たちや大石の裏をかくというわけだ。
なにかいたずらをしかけよう。
たとえば、桃城と海堂の革靴を入れ替えておくとか。
いやいや、荒井も入れて、3人のを入れ替えた方が面白い。
考え始めるとだんだん愉快になってきて、漫画を読むどころではない。
「ニシシ…」
英二がほくそ笑んだその時。
がちゃりとドアが開いて、桃城武が入って来た。
「あれ?英二先輩?何してんすか?」
「えっ。桃~!?なんで来るんだよ~!?」
「はあ?それはこっちの台詞っすよ…。ホント暇なんすね…」
「なんかムカつく!でもそれ、事実…」
英二の素直な物言いに、桃城は、ははっと笑いを漏らした。
「いーけど、邪魔しないでくださいよ」
笑いながら、桃城はパイプ椅子に腰かけて、A5版のノートを開いた。
すぐに真顔になって、ノートになにやら書きこんでいく。
と思うと、突然顔を上げたり、周囲を見回したりして、またノートに書き込む。
真剣な横顔を眺めながら、桃城も成長しているのだと英二は実感した。
「ねえ、なにしてんの?」
「…ああ。これ、備品のチェックっすよ」
そう言いながら、桃城は立ち上がり、ロッカー上の段ボール箱を下ろして中を確認し始める。
あったはずの備品がいつの間にか姿を消すということは、学校においてそれほど珍しいことではない。
各部では定期的に備品の有無を確認して顧問に報告し、顧問が学校に報告することになっている。
そのことは、英二も知っていた。
桃城は、段ボール箱から備品を取り出し、ノートを確認してはその箇所にチェックをつけていた。
さして難しい仕事ではなさそうだ。
下級生にやらせればいいのに、と英二は思った。
「…これ、昔は2年生がやっていたそうです」
桃城がおもむろに口を開いた。
一方、仕事の手は休めない。
「え?ああ、備品のチェックを?」
英二は一瞬何のことを言われたかわからずに戸惑った。
「引き継ぎの時も、2年にやらせるように言われたんすけど…」
桃城の文は「誰に」言われたかが省略されていたが、それが誰であるかは明白だった。
「大石先輩が自分でやってたの、俺知ってたんすよ。2年の時偶然見たことあって」
英二は、備品チェックというこの地味な仕事をどういう経緯で知ったかを思い出した。
そうだ、大石がしていたんじゃないか。
あの時も、俺は同じことを思ったんだ。
だから、大石に言ったのだ。
そんなのは2年にやらせればいいだろうって。
そうしたら、大石はなんて答えたのだっけ。
英二は記憶をたどろうとしたが、思い出せなった。
「だからってわけじゃないけど。誰でもできる仕事は俺がしようと思って」
桃城の横顔は穏やかだった。
やるべきことをやっている人間の顔は、静かな自信に満ちている。
「後輩たちには覚えてほしいことが、他にたくさんありますからね」
ああ、そうだ。
大石も同じこと言ってた。
その時の大石の表情も、今の桃城のように穏やかだったっけ。
なんだよ。
桃城なんてちょっと前まで自分と大差なかったのに、急に物分かりよくなっちゃって。
英二は、自分だけが取り残されたような心細い気分になった。