夢の中へ
とおくで汽笛の音がする。
柿はやわらかく熟して、ナイフを入れるそばから、オレンジ色の汁を滴らせた。
黒いラブラドール犬がテーブルに手を置いて、つぶらな瞳を一心に、俺の手元に向けていた。
「待て!待てだよ!」
俺は、四分の一を口の中に入れた。
甘い、甘いしずくがのどを潤す。
ナイフを置いて、残りの四分の三を右手に持ち直した。
「待て!」
よだれがぽとりと落ちて、リノリウム張りの床を濡らした。
目の前の瞳は、せつなくも一途。
俺の顔と、柿との間を行ったり来たり。
柿を床に置くと、瞳は顔ごと、下を向いた。
「よし!」
おおげさな音をたてて、犬は柿にむしゃぶりついた。
ほんの数秒で消えてしまったその存在を惜しむように、口の周りと床を、熱心に舐めている。
古いダイニングテーブルには、椅子が2つ。
机の片方の側は使われていないらしく、雑誌や本が積まれている。
テーブルの上には、マグカップが一つ。
飲みかけの黒い液体に口をつけると、苦くて、甘かった。
コーヒーだった。
また、汽笛が鳴った。
犬は部屋の隅に移動した。
彼専用のクッションの上に横たわる。
クッションには、名前が刺繍されているようだが、ここからはっきりとは見えない。
その場所をめがけるように、天窓から光が落ちている。
陽の光は、犬を包むとまたたくまに眠りへと落としてしまった。
うつくしい黒い毛皮が、かがやいている。
盛り上がった筋肉が、寝息とともに上下する。
しずかな午後だ、と思った。
また、コーヒーを一口飲んだ。
かたん。
なんの音だろう。
この部屋の中に、音の原因はなさそうだ。
かたん。
また…。
隣の部屋だろうか。
見に行きたい、と思ったが、行けなかった。いつのまにか、膝の上で子猫が2匹、眠っていたのだ。
おそらくは生まれたばかりであろう、ちいさなちいさな茶トラの子。
犬も、子猫たちも、耳をほんの少し動かしただけで、まぶたを開くことなく眠り続け
た。
しずかに、深く深く。
まあ、いいか…。
俺は、また、コーヒーを一口飲んだ。
☆☆☆☆☆☆
まぶたを開くと、目の前には、恋人の背中があった。
俺とおそろいのパジャマ。
ひとつのベッド。
頭を巡らして、周りを見渡した。
まだ薄暗い部屋。
見慣れた、壁と家具。
ここは、俺のうち。
じゃあ、あそこは?
あそこも、俺のうち…。
でも、大石、いなかった…。
背中向けて、寝てやがる。
コノヤロウ、と思って、後ろから抱きしめた。
「…んっ?…どした?」
大石は、こうされるのが好きじゃない。
自分でするのは、好きなくせに。
こちらに体を向け直して、抱き返してきた。
「ゆめ…。」
「…みたの?」
「そう。」
「こわい、夢?」
「ううん。うちにさ、犬がいたよ。黒ラブ。」
「…へえ。」
まどろみの中にいて、それでも返事をしてくれる、律義な恋人。
「あ。うち、ここじゃ、なかったけど…。子猫もいたんだ。」
「…海の近く、だろ?」
「…たぶん。」
「子猫は、茶トラだ。」
「…なんで、知ってんの?」
「…知ってるさ、俺の夢だもん。」
大石の、ゆめ…?
俺、大石の夢に入っちゃったの…?
「…じゃ、なんで、大石、いなかったの?」
「…さあ。診療中だったのかな…?」
こともなげに言うと、俺の髪に鼻を突っ込んだまま、寝息を立て始めた。
あれは、俺のうち。
だけど、大石の夢の中。
俺が、大石の夢に入ったのか、それとも、大石の夢が俺の中に入ってきたのか…。
なにがなんだか、わからなくなった。
長いこと一緒にいると、夢までも共有できるようになるんだろうか。
そんなの、聞いたこと、ないけど…。
まあ、いいか…。
大石の夢の中に、俺が飼いたがってる犬がいた。
俺の居場所が、ちゃんとあるってことだろ。
夢の中でも、ふたりで暮らしているのかな。
なら、それで、いいじゃないか。
夢の中の俺も、満たされていたんだから。
俺は、また、まぶたを閉じた。
また、沈もう、夢の中へ。
無意識の底ヘ。
ふかく、ふかく。
おまえがいる、静かな場所へ。
end