罪の奴隷と仔犬の一夜

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私は、高く聖なるところに住み、
うち砕かれへりくだる者とともに住み、
へりくだる者の霊を生かし、
うち砕かれた者の心を生かす。(Isaiah#57)


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口の中に指を突っ込んでも、もう吐けるものは何もなかった。

胃液が口の中を灼いた。

だけど、吐き気は止まらなくて、トイレの便器を抱いて泣いた。

わんわん大声を出して泣けたらすっきりするだろうに、と思った。

できるだけ、声を殺そうとしたけれど、鳴咽は低く漏れてしまった。

涙は無尽蔵のようで、いくらでも出た。



家族が寝静まった夜中には、自分はひとりぼっちだと思い知らされる。

普段なら、離れで祖母とともに寝ている飼い犬が、俺の孤独を嗅ぎ付けて、トイレの扉を引っ掻いていた。

立ち上がり、トイレの水を流して、扉を開いた。
俺の顔色を窺うように見上げる眼差しに、笑みがこぼれて。
自分がまだ笑えるのだと、驚いた。

洗面所で顔と手を洗って、タオルで拭いた。
鏡の中の俺は、醜かった。

犬を抱き上げると、彼は俺の頬を一心に舐めた。
大丈夫、そばにいるからと、俺の心に語りかけてくれた。


自室に戻るのはやめて、食卓の椅子に腰掛けて、犬を膝に乗せた。

こんなに醜い俺で、俺のままで、愛してくれるのは、犬だけだ。
夜中の発想ならではのネガティブさだ、と自覚しながらも、そう考えることをやめられなかった。
そう思い込んで泣いていたかった。

泣くことをやめたら、自分の気持ちを認めてしまうことになる気がして。
それは、してはいけないと思って。
いつまでも、泣いていたかったけれど。

だけど。
もう、いいかげん。
正視しないと、真実を。
受け入れないと、現実を。
俺の心には、すごく醜い場所がある。
その在りかを、俺はもう、知ってしまった。


俺は、相棒に、大石に惚れちまってる。

俺はただ、大石とテニスできればそれでいい。
ほかのことは何もいらない。

でも、大石はそうじゃなかった。


俺たち、お互い、わかったつもりでいただけで、本当は何もわかってなんかいなかった。

大石は、俺に何も言わないで、全部自分で決めてしまった。

一緒に歩いていたつもりだったけど、そう思ってたのは俺だけだった。


当然かな。
俺なんか、頼りにならないし。



俺は、ティッシュで鼻をかんで、ため息を一つついた。
膝に乗っていた犬が、すかさず俺のくちびるを舐めた。
いつもはやめさせるけど、今日はされるがままだ。
放っておいたら、デイープキスを奪われた。


自分で言うのも変だけど、もうちょっと、上等な人間だと思ってたんだ。
でも、俺って人間のほとんどは、嫉妬と独占欲と自分本位で出来ていた。


人を好きになるって、もっと、楽しいことと思ってた…。
そんなわけないか…。
俺は、兄姉の恋愛遍歴を回想した。

失恋して大号泣なんてまだかわいい方で。
電話での大喧嘩を何度まの当たりにしただろうか。
携帯電話を折られたとか、川に投げられたとか。
ストーカー化した元カレ、元カノもいた。
警察沙汰も一度あった…。

あれを見ていて、なんで恋愛に夢見てたんだろ…。

でも、やっぱり、元には戻れない。
何も知らないで、自分の醜さも知らないでいた、しあわせな自分には。

だって、大石を好きでいたい。

贅沢は言わない。
また、二人でテニスできれば、それでいい。
再びチャンスがあることを、信じよう。


俺が、お前に見せてやるから。
まだ見たことない世界を。
それは、俺にしかできないって、信じてるんだ。
おめでたいかな、俺…。



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犬が、膝の上で丸くなった。
眠そうだ。
俺も眠かった。

涙がやっと止まった。


少し眠ろうと、床に寝転がった。

硬い床が肩甲骨に当たり、仰向けでは痛みがあった。
俯せに近いかたちになると、楽だった。


俺は、地にはいつくばる汚い蟲のようだ。


犬が、近づいてきて、俺のくちびるを一舐めした。
すぐそばにある温もりを手放すことはできなくて、抱き寄せた。

そばにいるだけで、やさしさが心に注ぎ込まれて、慰められた。

こんな夜は、ぬいぐるみでは、温もりが足りない。



犬のように忠実であれば。

あなたの足元にはいつくばって赦しを請えば。

神様、あなたは、俺を憐れんでくださるだろうか?



眠りについたら、きっとすぐに朝が来る。
それでいい。
すぐに、朝が来ればいい。
夜は、一人では辛すぎるから。

あぁ、そうか。
だから、恋人たちは、夜を二人で過ごすんだ…。
そうなんだ、きっと…。


end

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