棘(とげ)
初恋はいつかと問われれば、幼稚園の時、先生に、と答えることにしていた。
本当のことを言えば、それはちょっと異常なほど遅い時期だった。
そういうわけだから、その娘とは結局どうなったのという話になるのは明白で、それを説明するのは面倒だった。
その春は、高校生の仲間入りをし、中等部と同じ敷地ながら門も校舎も変わった。
そうなると、何とはなしにうきうきとした気分になる。
単にクラスの顔ぶれが変わるだけだというのに。
買ったばかりの新しい服に袖を通すような気分でいたが、ただひとつ残念なのはその制服で、中高6年間変わらないのである。
制服も新しいのに変わればいいのにと言ったら、これ以上出費の心配をさせないでと、母に怒られた。
とはいえそれは男子だけで、女子は新しい制服に変わるのだ。
俺は、そのことを楽しみにしていた。
高等部に行ったら彼女を作る、絶対作る。
中等部の終わり頃から心に誓っていた。
高等部の制服が似合う可愛い彼女と制服デートする、それが俺の夢だった。
それができて初めて、ばら色の高校時代が始まるのだ、と思い込んでいた。
そのチャンスは、思ったよりもずっと早く、向こうから転がって来た。
高等部に上がって2週間が経った頃、隣の席の女の子に呼び出されたのだ。
入学式の日に消しゴムを貸してくれた優しい娘で、それ以来何となくいい雰囲気かも、と思っていた。
部活の始まる前にちょっとだけ、時間あるかな?
そう言った彼女の顔がすでに耳までほんのり赤かった。
ばら色の頬を見て、なぜだか俺までつられて赤くなった。
放課後の屋上で。
実は私の友達がー、なんてマンガみたいな展開はなく、ちゃんと告白された。
☆☆☆☆
「告白、されたんだって?」
そのことは、翌日の放課後には早くも、大石の知るところとなっていた。
「…どしたの?情報通…」
「…乾がね」
なんつーおせっかい。
乾に知られるのは覚悟していたが、わざわざ大石に知らせる必要があるだろうか。
長く深い付き合いのテニス部員はすでに半ば親戚みたいなものではあるが、それにしたってわずらわしい。
付き合う前からこれでは、付き合いはじめたらどうなるのだ。
そう思って少し憂鬱になりながら、部室のロッカーを閉めた。
「断った?」
「…はっ?」
思ってもみない言葉に、何も返せず、ぽかんとして大石の顔を見返した。
「だって、英二、俺が告白された時言ったろ。『なんで俺がいるのにあんな娘と付き合うんだ』って」
「言った…かな」
「だから、俺だって言う資格あるんだよ。…俺がいるんだから彼女なんかいらないだろって」
…冗談。
のつもりなんだろうけど。
笑えない。
普段、冗談言わない奴が、言うもんじゃない。
いつにない、やけにすかした表情も、嫌味な口調もカンに触った。
中等部1年の3学期に、大石は同じクラスの娘に告白された。
付き合うの?と尋ねたら、そうしようかな、と答えたから。
だから、言ってやったんだ。
「なんで俺がいるのにあんな娘と付き合うんだ」って。
冗談半分。
残りの半分は、いち早く大人になろうとする友人へのやっかみだったろう。
そしたら、大石はほんとに断ってしまった。
だから、ちょっとびっくりした。
だけど、あの頃、俺達は二人ともばかみたいにテニスに夢中だったわけで。
部活だって休み自体がなかったし、付き合ったって結局は向こうに愛想尽かされるのが関の山だったろう。
だから、断って、正解だったのだ。
大石だって、そう思っている。
と、俺は思っていたんだけど…。
どうして今更こんなこと言い出して、俺をからかったりするのだろう。
「…まあ、よく考えて返事するんだぞ」
それだけ言い置き、部室のドアを後ろ手に閉めて行ってしまった。
☆☆☆☆
渦巻く不満を不二にまくし立てたが、思いの外、反応は鈍かった。
「へえー、大石がねえ…」
「…なあ。大石、何か変じゃない?」
「変?どういうところが?」
「んー。なんとなく…」
どーゆーところって。
俺にも、よくわからないのだ。
あんなこと、言うような奴じゃないし。
あんな、しれっとした顔、今まで見たことなかったし。
「…大石らしくないなあ、って」
「ふうん。大石にだって、君の知らない面があるってことなんじゃないの?」
不二は、なんだかちょっと愉快そうな微笑みを浮かべていた。
「…ムカつく」
俺だけが、驚いて。
驚かされて。
振り回されるのは、嫌いなのに。
だけど、不二の言葉は、たぶん真実で。
だからこそ、いばらのとげのように、ずくりと胸を刺したのだ。
大石のこと、全部わかったようなつもりでも。
俺は、本当にはわかっていない。
さっきだって、不二は全然驚いていなかった。
俺はこんなに驚いているのに。
俺の知らない大石って。
どんなだろう。
そもそも、大石秀一郎ってどんな人間なのか。
考えたことなんて、なかったのだ。
いつも隣に居て、二人で同じところを目指していたから。
隣に居るその人について、考える必要、なかったから。
その晩はずっと、大石のことを考えた。
気が付くと空が明るくなっていたから、そのまま制服に着替えてうちを出た。
朝の街は、花の香りがした。
花の香りは、人の気分を浮き立たせる。
どこのうちの花壇の花かと見回しながら歩いたけれど、わからなかった。
一睡もしていなかったけれど、不思議と眠気は起こらない。
春というのは、いい季節だと思った。
告白の返事の期限は、今日の放課後に迫っていた。
俺は、あの娘と付き合うかどうか考えなかったけれど、ひとつわかったことがある。
あの娘について一晩中でも考えることなんて、たぶんできないってことだ。
開いているかと心配した部室には、すでに大石その人が一番乗りしていた。
「おはよう、英二。早いな」
「…おはよー」
大石は、いつも通り朝一番から圧倒的に爽やかな笑顔だった。
だけど、今日は俺だって、おまえに負けないくらい爽やかな気分なんだから。
「あのさ。あれ、やっぱり断るよ」
「…よく考えたのか?」
自分でああ言ったくせに、大石はびっくりしたような顔をして振り返った。
「よく考えたよ。一晩中考えたもん」
「そうか。…先行ってるぞ」
そう言ってこちらを振り返った大石は、微笑っていた。
ドアが閉まると同時に、俺は頭をロッカーにもたれさせた。
ため息がひとつ、口をついて出る。
頬をロッカーにあてると、ひんやりとして気持ちが良かった。
急に上がった体の熱を、俺は持て余していた。
俺が知らない大石は、あとまだどれだけ居るのだろう。
もっと知りたい。
もっともっと。
昨日刺さったいばらのとげが、生きてるみたいに蠢いた。
そこがしくしくと疼き始めて。
鼻先を花の香りが掠めて行く。
そうして、生まれて初めての想いを、俺は胸にしまった。
誰にも知られないように。
胸のいちばん奥の、深い深いところに。
「棘」end
最後までお読みいただきありがとうございました。
ここで終わりかい!という話ですみません…