君は、蜜のよう。
甘い声でささやいて、蜜のような時間に俺を導く。
蜜のように、甘い、人…。
□□□□□□□□□□□
正門までのケヤキがびっしり植わった道を、英二と二人、歩いていた時のことだった。
冬が間近に迫ったその日の朝は、空気が浄化されたようにすがすがしく感じた。
頬に触れる風がひんやりとして、気持ちがよかった。
長年、友達として過ごしてきた想い人が、ついに恋人になり、並んで歩く時はまだ、どうしても体がほてってしまうのだった。
「来週、誕生日だな。何か欲しいものとかある?」
「…図書カード。」
「…へっ。」
「うそ。ほんとは、大石のキス。ちょうだい。」
彼は、顔色ひとつ変えずにそう言った。
ああ、瞳が挑戦的だ。
また、翻弄されてしまうのか…。
とはいえ、こんな、マンガのような都合のよい話が実際にあるのか。
「男って、いいだろー?話早くて。女のコじゃ、こーはいかないからな。」
絶句してしまった俺を置き去りに、彼は続けた。
「シチュエーションは大石に任せるよ。不意打ちとかがいーんだけど、荷が重いよね…?」
と、俺の方を見遣った。
悔しいが、その通りかもしれなかった。
それに、何より最近は、一緒にいられる時間を確保するのが至難の技なのだ。
「…うん。」
彼の顔を見返した。
もう、視線は、彼のくちびるへと吸い寄せられ、動こうとしない。
俺の気持ち、見透かされてるんだろうな…。
英二のくちびるは、形が綺麗。
やわらかそうだ。
触ったら、どんなだろうか。
冷たいのか、熱いのか、温かいのか。
これから1週間、そのことで頭がいっぱいになるのは目に見えていた。
「いつでもいーよ。誕生日までに、ちょうだい。」
「…じゃっ、今日の夜。」
「えっ。」
「ダメ?」
「いーけど…。」
沈黙を招いてしまった。
ちょっと、急過ぎただろうか。
先送りにすれば、何も手につかない。
だから、急いだのだけれど。
がっついてるみたいかな。
ま、実際そうなんだから…。
自然にそうなりたくて、なりゆきに任せていたら、季節が一つ通り過ぎようとしていた。
また、英二の方が、先に踏み出してくれたのだ。
なんだか、自分が情けなかった。
「コンテナがあった所、公園になったろ?予備校終わったらそこに来てよ。」
都合のよいことに、俺の方は、自習するため予備校へは行かない日だった。
「…わかったー。」
彼はそう言って、少し俯いた。
「見晴らし公園」、コンテナのあった空き地は、そういう名前の公園になった。
確かに、いい眺めだ。
俺は公園のベンチに座って、思った。
気候はもう、晩秋というより、初冬といった方がぴったりくる。
冬らしい澄んだ空気に、夜景が遠くまで見渡せた。
中等部の頃も、二人並んで眺めた。
夜じゃなかったから、街の姿がよく見えた。
夕焼けの時間帯は、特別きれいだった。
街も、彼も…。
デートにはお誂え向きの場所じゃないか。
そうなのだ。
だから、高等部に上がってからは、来られなかったのだ。
自分の気持ちに気付いてからは。
高等部に上がってから、ダブルスのミーティングは学校でやっていた。
学校でなくても、人の気配がある場所を選んでいた。
何かのきっかけで気持ちが暴走してしまったら…、と心配だったのだ。
でも、もう一度、ここに来られたんだ…。
友情が始まった場所。
それを確かめ合った場所。
もう来られないと思っていた場所…。
高台に吹く風は冷たいだろうと、コートを着込んできたが、俺の頬にはむしろ心地よいくらいだった。
コートのポケットの中で、携帯電話が震えた。
英二からのメールだった。
予備校を出たことを告げた、短いものだった。
いよいよか…。
これから試合に向かう時のような気持ちだった。
自然に任せれば、そんな気持ちにはならなかったんだろうが…。
でも、くれるというのだから、もらっておかない手はないだろう。
…あれ?
俺があげるのか。
英二の誕生日プレゼントなのだ。
俺がもらって、どうする。
そんな馬鹿なことを考えながら、公園の入り口の方をぼんやりと眺めていた。
英二がやって来た。
制服の、詰め襟の周りにぐるぐると、チェックのマフラーを巻き付けている。
それでも、寒がりな彼のことだから、我慢できないんじゃないか。
そう思って、この場所を指定したことを、少し後悔した。
「おーいし…。」
俺の名を呼んだ彼の瞳は、すでに甘い甘い色をたたえていた。
彼の手を引っ張って、ベンチに座らせた。
その手は冷たかった。
顔を両手で挟んで、引き寄せた。
我ながら、ぎこちない動作だった。
頬も、冷たい。
くちびるも、冷たいのかな。
彼がまぶたを閉じた。
「ちょーだい…。」
目の前のくちびるが形を成して、音を紡ぎ出した。
その音は、愛の歌のように甘かった。
くちびるに触れた。
温かい。
想像と違い、体温の違いは感じなかった。
たぶん、俺自身の体温と近すぎるのだ。
だけど、やわらかい。
きっと、俺のくちびるより、ずっと、やわらかい。
そのやわらかさを感じたくて、自分のくちびるではさむようにした。
何度か角度を変えて、それを繰り返した。
夢中だった。
少しくちびるが離れた時に、彼が俺の胸に手を突いた。
「腫れちゃうよ…。」
甘い瞳はそのまま、抗議の色を添えて、俺をたしなめた。
「…ごめん。」
やり方が違うんだろう。
でもわからないんだ。
「ちから抜いて。少し口あいて…。」
「…うん…」
彼も口を少し開いて、お互いのくちびるを重ね合った。
何度か角度を変えてそうした後、彼の舌が、口の中に入ってきた。
俺の舌をかすめた後、口のなかをくまなくなぞった。
…こうするのか。
ざわざわとした触感は、欲情を煽り立てるのに十分だった。
覚えたての方法で、今度は俺が、彼の口のなかに入り込んだ。
やわらかい…。
驚いた。
くちびるのやわらかさとは、全然違う。
細胞膜がなくなって、中身がさらけ出されたかのようだ。
医学部志望にもかかわらず、非科学的な形容をしたくなるような、そんな、初めての触感だった。
これが、からだのなか…。
彼の、からだのなか…。
そのまま溶けだして、俺の舌に絡み付きそうだ、今にも…。
それくらい、やわらかなのだ。
要は、粘膜なのだ。
だけど、だけど…。
その感触はあまりに甘美で。
甘い。
蜜のように。
したたる蜜で口のなかはあふれている。
そこに触れる者は恋人だけなのだ。
親兄弟だって、知らない。
そのことが、俺を恍惚とさせた。
彼が舌を絡めてきた。
縋り付くように、絡め合い、吸い上げ合った。
思わず、力が入り、お互いにからだをくっつけ合った。
くちびるを離した。
慣れないことに止めていた息を一気に吐き出して、初冬の空気を吸い込んだ。
体温が、何度上がっただろう。
彼の頬が紅潮していた。
彼の体温も、上がったのかな。
ぐるぐる巻きのマフラーを、ゆるめてやった。
もっと…。
かすかな、かすかな音を紡いで、彼のくちびるがうごいた。
俺の首の周りに、腕をからめて、つづきをねだった。
もう一度、もう一度、とくちづけを繰り返した。
だんだんと、息をすることを覚えた。
泳ぎを覚えるみたいなもんだな、頭の一部の冷静な箇所で、そう思った。
彼の携帯電話が着信を知らせた。
流行りの恋の歌を長いこと奏でていたが、二人とも、お構いなしでくちびるを重ね、舌を吸い合った。
くちびるの感触が痺れをともなって来た頃、お互いに離れた。
「びりびりする…。」
彼は、そう言って、自分のくちびるに指で触れた。
俺は思わず、指を彼のくちびるの上に置いて、そっと撫でた。
「英二、電話…。」
「あ…。」
彼はかばんから携帯電話を取り出して、開いた。
「かあちゃんだ。」
「…帰ろうか。」
「ん…。」
携帯電話をかばんにしまって、彼は高台の下に広がる眺望に目をとめた。
「俺、夜来たの、初めて。」
「結構遠くまで見えるよな。」
「大石、ありがと。」
「ん?」
「プレゼント。」
そうだった。
誕生日プレゼントだったのだ。
忘れていた。
でも、やっぱり、あげたというより、もらった気分だった。
「来週だけど、18歳、おめでとう、だな。」
俺がそう言うと、彼は頬にキスをくれて、もう一度、ありがとうとささやいた。
□□□□□□□□□□□
長い坂を下りる帰り道、手を繋いで歩いた。
彼の手は、もう冷たくなかった。
「寒くて、もう来られないかな…。」
彼が残念そうに言った。
「夜はね。夜景、きれいだったな。」
「うん。…また一緒に来られると思わなかった。」
…思わず、口をつぐんだ。
彼も、俺と同じことを考えていたのか。
うれしかった。
「また、いつでも来られるよ。これからは。」
彼は、返事のかわりに、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
それから、一度手を離して、指を絡めて手を繋ぎなおした。
甘い、甘い、蜜のような時をくれる人…。
愛の歌のような声でささやく人。
蜜のように、甘い、人。
この人を、手放さないためには、どうしたらいいのか。
この後、長く悩まされ続けるそのことを、俺はこの時考え始めていた。
end