擦り傷
追えば逃げる。
逃げれば追う。
それが恋の極意だと、どこかで聞いたことがあるけれど。
そのことが真実と、身をもって知ってしまった。
大石が青学を去ると決めなければ、一生気が付かないで済んだかもしれなかったのに。
放課後は、渡り廊下の端っこで。
窓の桟に肘をついて、急ぎ足の大石を眺める。
急ぎ足の理由は、次のバスになんとしても乗りたいからだ。
夏が終わると、大石は、都心にある予備校へ通い始めた。
「帰宅部みたい」
誰が聞いているわけでもないのに一人つぶやく。
「おまえはまだ、テニス部だろう?」
そんなに急いでどこへ行くのさ。
俺をこんなところに置き去りにして。
どこへだって行ってしまえばいい。
そんなこと、面と向かって言えやしないけれど。
内部進学者の選考が終わるまでは、3年生は部活動に参加できない。
まだ夏服の、半袖から伸びた自分の腕を撫でた。
テニスをしていた時は擦り傷だらけだった手脚も、いつの間にかすっかり滑らかになってしまった。
鳥がばさばさと翼を羽ばたかせて、連れだって去っていく。
口々に、なにかを話し合いながら。
見上げると、西の空が真っ暗だ。
もうすぐ、雨が降る。
俺は駆け出して、廊下のロッカーへと急いだ。
折りたたみの傘を掴んで、階段を駆け降りる。
もう姿は見えないけれど、校門まで走ればぎりぎり間に合うはず。
息を切らして、全速力で。
「おおいし!」
振り返った大石は、驚いた顔で。
「あめ!ふるよ。もうすぐ」
俺は、手の中の傘を押しつけるように差し出した。
大石は傘を受け取って、それから、微笑った。
俺は満足して、すぐに踵を返して走り出した。
「英二」
呼ばれて振り返ると、バスが道の角を曲がって来るのが見えた。
「大石、バス!」
「うん」
「乗れなくなっちゃう」
「いいんだ」
なんで、いいのさ。
尋ねようと思ったけれど、声が出なかった。
大石の顔が、あんまり悲しそうだったから。
恋は、夢中で追っているときが華で。
追いついてみれば、それは華やかなきらめきなど持っていやしない。
それはまるで、擦りむいた肘がいつまでもひりひりと痛むように。
痛みを感じなくなるのは、この恋が終わったときだろうか。
「擦り傷」end
