猫型インフル
大石編
この1世紀で医学は日進月歩の進歩を遂げたが、人類は今もなお新しい病いと戦っている。
西暦200X年、新型インフルエンザの猛威とワクチンとのいたちごっこの攻防戦は現在進行中だ。
青春学園テニス部の朝はおおむね早い。
おおむね、というのは朝練遅刻常習者もいるからだ。
その中で最も朝が早いであろう男、大石秀一郎の姿が週明け月曜日の朝に見えなかった。
幾人かの部員たち、主に下級生が部室の前に佇む中、次期部長候補の海堂薫が現れた。
いつもは早いこの男がまだ登校していなかったのも、良く考えれば不思議な話だった。
手には部室の鍵が携えられている。
下級生たちの顔に疑問符が浮かぶ。
「あれ?大石先輩は?」
「先輩はインフルだそうだ」
「えーーっ」
「昨日の夜半にメールが来て、今鍵を取りに行ってきたところだ」
「まさか、新型ですか?」
「…だそうだ」
「てことは…」
「…ああ。猫型だ」
そう、今年流行のインフルエンザは、猫型。
発症すれば、たちどころに発熱、頭痛、関節痛を覚え、その後、猫耳、尾が生える。
約1週間は猫のような行動が見られ、食べ物にも注意を払わなければならない。
たとえば、葱科の植物や、チョコレートなどの食べ物は中毒を引き起こす恐れがあるので厳禁だ。
また、高所に登ったり飛び降りようとする者もいるので、家族の誰かが監視することが望ましい。
ワクチンを打てば、基礎疾患のない者なら過剰な心配はいらないが、免疫力が低下している場合は注意が必要だ。
☆☆☆☆
放課後。
大石の新型インフルエンザ発症に伴い、青春学園では部活動が全面禁止となり、全校生徒は6時限目終了後直ちに帰宅となった。
テニス部員については、大石と日曜日まで接触があったということから、病院で簡易検査を受けるようにと指示があった。
3年6組の教室では、英二が帰り支度をしていた。
不二は、いつになく緩慢な動作の英二を見守るように、隣に佇んでいる。
「英二、お見舞い行くんでしょ?」
「行かないよ。どうせ行っても追い返されるよ」
「そう。きっと喜ぶと思うけど」
「そうかな。『なんで来たんだ伝染るじゃないか』って怒るにきまってる」
「まあ、口ではそう言うだろうけど」
不二は意味ありげに微笑んでいた。
英二は関心なさげにかばんの中身を整理していたが、その実、大石のことが心配でならなかった。
二人で連れだって訪れた病院では、テニス部の面々のほとんどと鉢合わせした。
聞いた話では、知っている限り誰もが陰性とのことで、ほっと胸をなでおろし帰路についた。
不二と別れてから、英二の歩みはどうにも進まなかった。
背中の方向には大石の家がある。
たぶん本人が顔を見せることはないだろうし、おばさんに様子を聞いてから帰るくらいなら問題ないだろうと、踵を返して小走りに駆け出した。
大石宅の玄関のベルを押し、しばらく待ったが反応はない。
大石一人が寝ていて、おばさんは出かけているのだろうか。
そう思い、ドアの取っ手を回すと鍵がかかっておらず、手ごたえなく開いた。
なんて不用心な。
しかも、おばさんがいないのも問題だ。
もしも2階の窓から大石が飛び降りちゃったら、どうするんだ!
心配になり、そのままドアを押し開き、中へと入った。
「あ」
パジャマ姿の大石が、廊下に立ち尽くしていた。
大石は目を見開いて固まっている。
やわらかいクリーム色の、ふさふさと豊かな尾がぴんと立っていた。
同じ色の耳を、こちらもぴんと立てて、緊張したように様子をうかがっている風だ。
「もう、耳生えたんだね。しっぽも…」
例の髪型に猫耳なんて…と考えていたが、実際に見てみればなんのなんの、かわいらしいことこの上ない、と英二は思った。
大石は恥ずかしそうに尾を垂れて、両脚の後ろにしまった。
「なんで来たんだ。伝染ったらどうするんだ」
「だって、おばさんが出てくると思ったから。ちょっと様子だけ聞いて帰るつもりだったんだもん」
「来てくれたのはありがたいけど、本当に困るから。とりあえず帰って」
大石は、確かに、困ったという表情を浮かべていた。
だが、そうしながら、英二へと近づいて来て、自分の体を擦り寄せた。
言葉とは裏腹な行動に、英二はおおいに戸惑った。
それをよそに、大石は、自分の顔を英二の顔に近づけていく。
二人の顔と顔は、もうあと一ミリで触れるという近さになった。
「…おおいし、なにしてんの?」
「あ?え!?俺、なにしてるんだろう」
大石は顔を真っ赤にして、体を英二から離した。
「…大石は今、心が猫ちゃんなんだねえ」
英二はそう言うと、大石のあごの下をすいと撫で上げた。
「あおん…」
思わず口をついて出た声に、大石は更に慌てふためいて両手で口を塞ぐ。
「おおいし、かわいい!」
英二ははしゃいで、大石の額を撫でる。
例の前髪の下を、眉間から上へと何度も撫で上げると、大石はまぶたを閉じてうっとりとした。
「きもちいい?」
「…にゃっ」
大石は、「まさか」と答えたつもりだったが、おのれの声帯すらも今ではままならない。
それどころか、全身に力が入らず、自分の体でないようだった。
英二がぐいぐいと体を押し付けてくるのに、抵抗もできない。
ふにゃふにゃと廊下に崩れ落ちるように横座りになると、英二は添い寝するように横たわった。
そうして、喉元をさすり上げ続ける。
「おおいし、ちょーかわいー、めっちゃかわいー。いいこちゃん、いいこちゃん…」
耳元でささやき続ける英二の声はいつもよりもずっと高い声で、これが猫撫で声というやつかと、大石は頭の冷静な部分で考えた。
しかし、クリーム色の猫耳は、英二の声に反応し、ひくひくとかわいらしく動く。
「うー。かわいい、お耳。撫でても平気?おこらないでね…」
英二は、両手で大石の顔を外側から挟むようにして、両方の親指でそっと両耳を愛撫した。
大石のままならない声帯は、またしても低い声で喉を鳴らし、英二の愛撫に満足していることを告げる。
「きもちいい?」
英二はなんどもこの問いを繰り返し、その度に答えまいと思うものの、つい、
「にゃっ」
と、声を発してしまう大石だった。
すると英二は満足そうに、また、大石の体のあちこちを撫で上げ続ける。
あまりの気持ちよさにまぶたが下りて来て、眠りに引き込まれそうになる。
こんなことではいけないと欲求に逆らってまぶたを上げようとするものだから、心ならずも白目をむいている。
するとその表情を見て英二が
「にゃは」
と、愉快そうに笑った。
大石にとっては、堪えがたき屈辱であった。
仮にも、と言っても誰も知らないことだが、好きな相手にこんな風にいいようにされて。
本当は気持ちいいわけなんて、ないではないか。
どちらかといえば、こちらのほうが、あちらをいいようにしたいと願っているというのに…。
大石が憤りと心地よさに引き裂かれそうになっていた、その時。
ガチャリ、とドアが開いた。
「やだ。こんなところで、あんたたち何してるの?」
大石の母が顔を覗かせた。
「あ、おばさん。こんにちは」
英二が慌てて立ちあがって一礼した。
「大石があんまり可愛くってつい…」
英二が頭をかいて答えると、大石の母はにっこりと微笑んだ。
「そうでしょう?おばさんもね、ずっとこのままでいてほしいくらい」
「…それは困るんです。猫は選手登録できないので」
「…そうよね。それは困るわよね。それより英二くん、伝染っちゃわないかしら?」
大石の母は、某高級スーパーのエコバッグからアルコール消毒液を取り出した。
それを英二の手にシュッシュと吹きかけると、英二を促して両手を擦り合わさせ、消毒液を乾燥させた。
それが済むと、英二はなんだかすっきりしたような表情になって、廊下に体を投げ出したままの大石に一瞥をくれた。
「じゃあな、相棒!おだいじに!」
「英二くん、おうちへ着いたらちゃんとうがいもしてね」
「はい!」
英二は元気よく返事をすると、名残惜しいという様子など一切見せずに大石宅を後にした。
「秀ちゃん、いつまでそうしてるつもり?早くお布団に入りなさい」
母が呆れて声をかけたが、大石が立ち上がる気力を取り戻すまでには、あと小一時間を要したのであった。
end
最後までお読みいただきありがとうございました〜!!