猫型インフル
英二編
大石の猫型インフルエンザ発症から、約1週間。
案の定と言うべきか、全校でもただ一人、英二が罹患し発症した。
この日も、部活動は全面禁止、全校生徒は帰宅の途に就いた。
「大石」
校門を出たところで大石が振り返ると、乾が近づいてくるところだった。
「英二の家に行くのか?」
大石は前回の発症により免疫を保持しているので、他の学生に比べれば、罹患の危険性は格段に薄い。
そういうわけで、英二の担任からプリント類、不二からはノートと、預かり物を届ける役目を仰せつかっていた。
乾は大石の返事を待たずに言葉を続けた。
「だったら、写メ、いいかな?」
「写メ?」
「英二の」
「…不謹慎だぞ。英二は病気なんだから」
「今、ネットで投票してるんだ。入賞したら投稿者に賞金が出るんだって」
猫型インフルエンザは、確かに深刻な流行性疾患ではある。
だが、患者の外見的特異性からすれば想像できることだが、周囲の人間のこうした反応も特に珍しいことではなかった。
それどころか、インターネット上では、患者の猫耳写真がどんどん投稿され、特集サイトも大人気であった。
当然こうした動きについては、批判的な向きが強いのも確かだったが。
「…だから?」
「大賞は、ちょうどテニスマシンが買える額だ」
「乾!」
「だめか…」
この男、いさめたところで、全くわびれがないのであった。
結局、大石は乾の不躾な依頼を断って、英二の家へと向かった。
不謹慎だと乾を叱ったものの、大石とて、若干のときめきを胸にしまっていた。
健康な男子ならば当然のこと。
淡い恋心を抱く相手に、猫耳。
あの、ふわふわの赤毛から、猫耳。
しっぽはふさふさか、はたまた、いわゆる「しっぽな」の、丸い尾か。
毛色は、何色だろうか…。
そう考えながらの道のりはあっという間で、気がつけば、角を曲がれば菊丸家、というところに差し掛かっていた。
「あおーーーんっ」
何かを訴えるかのような、大きな大きな声が、大石の耳に飛び込んできた。
まさかと思い、大石は駆け出して角を曲がった。
すると、そのまさかであった。
英二が菊丸家の屋根の上の端でしゃがみこみ、空を仰いであおんあおんと喘いでいるのであった。
菊丸家の門扉は幸いにも施錠されていなかった。
大石は頭上の英二を見守りつつ、勝手に敷地内に入って行った。
屋根の上の英二は、恐ろしいのであろう、尾はすっかりおしりの下にしまって見えず、猫耳も力なく垂れている。
半袖のTシャツに短パンという寒々しい格好から見て、発熱していると推察された。
英二の心細げな耳を見て、茶トラだっか、と大石は悠長なことを思った。
「どうしよう。どうしよう」
庭に入ると、英二の祖母と上の姉が慌てふためいた様子で、庭に下りたり家の中に戻ったりとうろうろしている。
上の姉が、まず大石に気付き、途端に泣き出しそうな表情になった。
「大石くん!英二を助けてやって!」
「あたしが、調子にのってまたたびなんて預けたから!」
英二の祖母が、わっと顔を両手で覆って泣きだした。
大石は、雰囲気に呑まれ、頭がぐらぐらと沸騰しそうになった。
が、すぐに冷静に状況を確認し始めた。
英二がしゃがんでいるのは、屋根の端ではあるが、幸いにも庭側である。
あらかじめ、庭に布団やマットレスを敷いてもらっておくのが安全だろう。
屋根から落ちたとしても、そこに着地できれば、なんとかなりそうだ。
そうは言っても、まずは英二を誘導して、地上に降ろさねばならない。
どうしたものかと、頭をぐるりと巡らす。
空いたままになっているのは、英二と兄の部屋の窓だけだった。
「あそこから出たんですね?」
「そうなの。雨戸の樋を伝ったのかしら」
姉がおろおろと大石の問いに答える。
「この家に梯子はありますか」
「ありますとも」
祖母が、がばと顔を上げて、小走りに家の裏手へと消えた。
それを追って、姉も駆け出した。
英二は、相変わらずあおんあおんと助けを求めて鳴いている。
大石は、無言でそれを見上げた。
祖母と姉が、古びた木製の一段梯子を抱えて現れた。
それを見て、大石は失望した。
庭から屋根までは、とても届く距離ではない。
「ベランダのある部屋は?」
「通り側にひとつ…」
「では、これを2階へ運びましょう」
大石は祖母から梯子を受け取り、姉が梯子の後ろ側を支える格好で、軒先で運動靴を脱いだ。
姉はつっかけたサンダルを蹴飛ばすように脱ぎ捨て、後ろから梯子を支えて大石の後に続いた。
2階のベランダに梯子を設置し、大石は屋根へと上り始めた。
屋根の上に顔を出すと、英二の背中が見えた。
尻尾は、やはりしっかりとしまわれていて、見えない。
「えーじ!えーじ!」
叫ばない程度の声で、大石は英二に声をかける。
大きな声で驚かせてしまっては逆効果なのだ。
「にゃー…」
英二は力なく答えて、大石の方を振り向いた。
「…あおん」
英二は確かに「大石」と言った、と大石は思った。
さきほどまでの大絶叫とはまた違う、かわいらしい「あおん」であった。
頼りにされている、そう思うと、ふつふつと力がこみ上げてくるのを大石は感じた。
屋根の上に上がると、掴まるところは屋根の縁以外になく、大石はただ自らの平衡感覚に頼って、英二のいるところへと近づいていった。
その距離約10メートル、といったところか。
たったそれだけの距離が恐ろしく遠く感じた。
英二は、大石の方へと頭を巡らせて、視線を送っている。
あの大絶叫はもうしていない。
ときどき、小さい「あおん」が口から洩れる。
それを聞くと、大石の胸はきゅんと締め付けられた。
近づくにつれ、英二がぶるぶると体を震わせていると大石は知った。
体がすくんでしまって、一歩も動けない状態だ。
その場まで辿りついて確保せねばならない。
他に救い出す手立てはなさそうだった。
以前、テレビのニュースでやっていた場面を思い出す。
レスキュー隊が猫を確保しようとしたその時、猫は大暴れして地上めがけて落下した。
幸い、木の枝に引っかかって、猫は無事だった。
…そんなことにならなければいいが。
あと、1メートル。
50センチ。
30センチ。
大石はゆっくりと英二に近づいていく。
「英二、大丈夫だよ」
大石はできるだけ優しい声を作って、英二に話しかけた。
英二は、長く続いた緊張のせいか声も出せない状態になっていた。
体は相変わらず小刻みに震えている。
あと、15センチ。
5センチ。
できるだけ、やさしく。
大石は、英二を胸の中にゆるりと抱きかかえた。
「大丈夫だよ。大丈夫」
ささやいて、体を撫でてやる。
英二は、震える体を大石に預けた。
と、両手を胸に突き、体を反りかえらすと上下に揺すり、大石の腕の中から跳び出した。
「英二!!」
「にゃおーん」
英二は地面めがけて落下し、大石はその後を追った。
ぼすん。
ぼすん。
落下した場所には、すでに家族全員分であろう大量のマットレスとふとんが敷いてあった。
「英二!英二!」
祖母と姉は腰が抜けたように地面にしゃがみこみ、おいおいと泣いていた。
衝撃は予想したより弱く、大石はすぐにでも体を動かせる状態だった。
英二は逃げ出そうとして、大石の腕を振り払おうともがく。
大石はすかさず英二の腕をつかみ、上からのしかかって体を押さえた。
「ふーっふーっ」
英二は興奮状態が収まらない。
大石は腕を曲げて、英二の上にゆっくり体をかぶせていく。
そうして、何度も何度も呪文のように繰り返し囁いた。
「大丈夫、もう大丈夫…」
茶トラの耳がぴくぴくと動く。
そうしながら、英二のからだを優しく撫でつけてやると、体の震えが徐々におさまっていく。
それを知って、大石は徐々に体をずらし、英二の体にかけた体重を減らしていった。
大石は、赤毛に鼻先を突っ込みながら、自分が英二を生命の危機から救ったという事実に陶酔していた。
右の手を英二のおしりの方へと近づけると、そこにあるはずの尾はなかった。
遠慮しつつおしりに触れると、短パンの生地を通して、まるくてふわっとしたかたまりが指に触れた。
「あ、しっぽな、だ…」
大石はおそるおそる、英二の丸い尻尾を優しく撫でた。
英二は、それを嫌がりもせず「あおん」とひとつ甘く鳴いた。
そして、振りかえりざまに、大石の頬をざらりと舐めた。
end
最後まで読んでくださりありがとうございました!