身も世もないほど


「どうしてほしい?」
「キスして」

喉の奥に甘い蜜を注いでよ。

忘れたい。
忘れさせて。

「もっとして、いっぱいしてよ」

思い出したくないこと、思い出せなくして。

なんにもわからなくなるくらい、夢中にさせてよ。



☆☆☆



恋人とのセックスが変わってきたのは、俺が働き始めてからだ。

恋人に仕事の話なんて、しない方がきっとかっこいい。
だけど、俺の性分として話さないではいられない。

例の不登校の生徒が結局退学したよとか、ダブルス組ませてみたけどうまくいかないペアのこととか。
わりとなんでも話している。

だけど、それでも。
言わないことは、あった。

話したくないこと。
話しても仕方ないこと。

行為を始めても、そういう記憶ほど頭にこびりついていて、次から次へと浮かんで消える。

生徒の顔。
保護者の顔。
上司の顔。

学生の頃はそんなとこはなかった。
始めればすぐに没頭できたのだ。


だけど、集中してよとか、今日はやめようかとか言われたことはない。
その代わり、どうしてほしいか尋ねてくる。

ああして、こうしてと注文して、いろいろ試してみながら、没頭できるきっかけを二人して探す。

実のところ、この新しい作法は新鮮だった。

快楽には、尻尾がある。
見失ってしまったそれを探し出して、捕まえて、引っ張り出せば、探さなかった時よりも大きな歓喜が待っている。

激しい欲望に翻弄されるのも。
慈しむような行為に癒されるのも。
どちらも好きだけれど、そのどちらでもない、この方法が一番好きだし、一番感じる。
二人でもって糸を縒り合わせるような、この方法が。





「どうしてほしい?」
「抱っこしてて」
「抱っこ?」

だけど、今日は。
拭っても拭っても浮かび上がる。

それは、仕事じゃなくて恋人のせいだ。

重ね合わせた体と体の間に、大石は右手を滑り込ませようとした。

「だめ、触っちゃ」
「ええ、なんで」

「ただこうしている方が気持ちいいんだよ」
「そうかなあ」


大石の肌は肌理が整っていて滑らかだ。
じっとしていると、ああそうだったと思い出してくる。

彼の肌。
体温。
体の形。

何度も抱き合ったはずなのに、こうしてまた抱き合うまで忘れているのはなぜだろう。

腕の筋肉のつき方とか。
肩の線のなだらかさとか。
肩胛骨の形とか。
両腿は結構太くて、重みと体温が心地いい。


人間の細胞は28日周期で生まれ変わる。

生まれ変わった俺の皮膚細胞は記憶を無くしてしまったのだろうか。

一緒に暮らし始めたら、彼の体の形を忘れることもなくなるだろうか。






研修医が大変だというのはなんとなく知っていた。

だけど、次いつ会えるのかな、という質問に大石はびっくりするような答えをくれた。


「先輩に聞いたんだけど、織姫と彦星レベルなんだって」

彼は笑ってそう言った。

笑っていやがった。


「それって、会えるかどうかもわかんないってこと?」
「うん。会えるかもしれないけど、わからない」

ぽかんとして彼の顔を見返した。

彼は、今度は困ったような顔をして、また、笑った。






「次は?どうする?」
「入れてよ」

「ええ。極端だなあ」
「おまえが聞くから答えただけじゃん」

「うーん、でもまだ無理だよね」
「大丈夫」


上下を交替して、半身を起こした。

上から見下ろすだけで、ずいぶんとかわいらしく見えるものだ。
なんだか愛しさがこみあげた。


体を動かすと、接している部分だけが熱を帯び始める。

腹も胸も押し付ける。
汗ばみ始めた肌と肌が吸い付き合うようで心地いい。

俺のも彼のもみるみる熱く固くなってゆく。

手の先に触れた彼のをやさしく握り込む。

やっぱり、忘れてた。
どんな形だったか。


目の前のくちびるにくちづけた。
小鳥が仲良しの小鳥にしてあげるキス。

「入れて」


肘と膝をふとんの上につくと、舌先で犯された。
やわらかくて、熱い。

はやく。
やわらかいのじゃなくて。
俺がほしいのは。

「まだ?」
「痛がるじゃない?」

「痛くてもいい」
「いいわけないでしょ」


潤滑液でもって湿らされ、彼のがおそるおそる侵入してきた。

俺の体は、初めての時のように驚く。


「おーいし、うごかないで」
「痛いの?」

それには答えずに、前を触ってとお願いする。
彼は俺の背中を抱くようにして前に手を伸ばす。

されてる俺もしている彼も、しんどい体勢だ。

肘を抜き、ごろんと横になって、天井を仰いだ。
大石の胸が、背中にぴったりと密着する。

背中があたたかい。

体の中に彼がいる。
忘れていた形も大きさも、快感も、すぐに思い出す。

大石も、いま、思い出してる?
俺の形、どんなだったか。


このままただじっとしていたい。

大石には申し訳ないけれど、俺はこうしているのが一番好きだ。

セックスは、達した時より達する前の方がいい。

達してしまったらおしまいなのだから。

そういうわけで、後ろからの体位だと深すぎて困るのだ。




「動きたい」

大石が呻くように呟いた。

俺は半身を反らして彼の方を振り返った。
キスをねだるいつもの仕草。

無理な体勢でするのは小鳥のキス。

くちびるが離れた。


「英二、お願い」
「ちょっとまって」

繋がったまま体を動かして向かいあった。
密着できないのは残念だけど、顔が見える方がいい。

背中を倒すとシーツがひんやりと気持ちいい。
自分の体の熱に気付く。

彼がゆっくり動き始めた。

俺は自分のに手をやった。

昔は、こんなこと恥ずかしくてできなかったけど。
淫乱みたいかな、って尋ねたら、綺麗だよって答えてくれたから。
今では躊躇もない。


快感が背筋に沿ってのぼってゆく。

不意に洩れた声は自分のものとも思えない。
猫の赤ちゃんみたい。

ねえ、見下ろすと、俺がかわいく見えたりする?

まぶたを開いて、ちょっとの間、見つめ合った。




大石の腕が俺の腰を抱え上げようとした。

「まだ、だめ」

まだ達したくない。
終わりたくない。


「意地悪いわないで」
「そーじゃない」

「ねえ」
「だって」

「今日は時間あるんだから、またしよう」



ああ、もしかして、わかってたの。
なのに、文句も言わず付き合ってくれてたわけね。

変なところで鋭いよね。

だってさ、終わりたくないよ。

でも。


「いいよ、そのかわり、またすぐして」

大石は返事の代わりに、俺の腰の下に枕を押し入れた。

そうして、深く深く入り込んできた。



切羽詰まってやがる。

いい気味だ。

ああ、でも。

ちくしょう。

めまいがするほど。

気持ちいい。


めちゃくちゃに揺り動かされれば。

世界の輪郭はぶれてゆく。

そうして、あいまいになればいい。

なんにもわからなくなればいい。

おまえがいない世界は、どんなだろうか。

どんなだったっけ。



大石のばか。


ばかたれ。


何をへらっと笑ってやがる。


二年も俺を放っておくなんて。


あり得ないだろ。


なんでそこで、ごめんとかひとことでもないわけ?


けろっとしやがって。


ああ、ムカつく。


ばかたれ。


ばかたれ。


すごくいーけど。


すげえムカつく。


ああ、ちくしょう。


ちくしょう。


きもちいー。


ちくしょう。


ちくしょう。




頭の中ではそうやって罵りまくっていたはずなんだけど。


「おーいし、すき」


「すき、すき」


「すき、すき…」


口から出ていたのは、なぜだか恋人が一番喜ぶ言葉だった。


涙腺が壊れたみたいに、涙が吹き出して。
鼻水なんだか涎なんだかで口があわ立ってうまく回らない。


腹の上にぽたりぽたりと水が滴り落ちて、胸を目がけて転がってくる。


大石も泣いてるの?

涙が溢れすぎて彼の顔も見えない。


もうなんだか、びちゃびちゃのぐちゃぐちゃで。

気持ちいいんだか悪いんだか、悲しいんだか可笑しいんだかわからない。


わかることは一つだけ。

俺は、どうしようもないほど彼に惚れている。


会えなくなると身も世もないほど嘆いては。

あられもないほど乱れて悶える。


彼がいなくては生きていけない。



☆☆☆



「…すごい顔」

大石はティッシュを二つに折り畳んで俺の鼻にあてがった。

「はい、ちんして」

言われるままにして鼻をかんでもらった。

妹にやってあげていたんだろうか、あんまり自然すぎて可笑しかった。


「今日は子供みたいだ」
「わがままって言いたいのかよ?」

「恋人はさ、ちょっとわがままなくらいがちょうどいいんだよ」
「ふーん。じゃーさ、俺が来てって言ったらすぐ来てよ」


「英二はそういうこと言わないだろ?」

そんなこと、言おうと思ったこともないし、これからも言うことはきっとないだろう。
だけど、今くらい、言ってみたっていいじゃないか。


「すぐ来るよって言うだけでいーからさ」
「俺はできない約束はしないよ」


本当に来なきゃ承知しないってわけじゃない。
ただ一言、言ってほしいだけなのに。
英二が呼んだらすぐに駆け付けるよって。
そういう気持ちでいるよって、言ってほしいだけなのに。


思わずひとつ、ため息を洩らした。


「大人って、なかなかなれないもんなんだな」

「大人だろうと子供だろうと、俺は英二が英二らしければそれでいいよ」

彼の顔を見ると、なんだか得意気に笑っていた。

「今、うまいこと言ったと思ったろ?」
「ははは。うん、名言だろ? 」


じろりと睨んでやったけど。

俺だってそうだ。

大石が大石らしく生きられれば、それが一番だ。

人が嫌がることとか、敬遠することとか、大変だといわれることとか。
彼はそういうものにむしろ喜々として取り組む。
そういうものに生きがいを求めて邁進する。

自分を犠牲にして、酔ってるんだろうかなんて昔は思ったものだ。
だけど、当の本人には自分を犠牲にしているつもりなんてさらさらないのだ。
それは単に彼の性分なのだとしか言いようがないだろう。


そういうのこそが彼が人生に求める手応えで、たぶん、それがなければ生きていないのと同じなのだ。

恋人は今までもこれからも、きっとそういう人。



「英二、二年経ったら。」

言いたいことはわかっているけど、言わせてやるよ。

「一緒に暮らそう。迎えに行く。約束するから」
「長いよ」

「部屋は英二が決めていいよ」
「長すぎ」

「俺はどんなだっていいから」
「大石のバカ」

「そうだ。ペット可の部屋じゃないと」
「バカバカバカ」


「犬飼わないの?」
「…飼うよ」

彼は機嫌良さげに笑って尋ねた。

「どんな犬飼いたいの?」
「…大きいの」


すげえムカつく。

おまえのペースになっている、ふりしてやるのも疲れるっつーの。


ああ、だけど。

俺はやっぱり。
惚れてるよ、おまえにさ。

きっと、身も世もないほど、愛してるんだ。




end