魔法


恋は、魔法

魔法にかかれば、世界はばら色

だけど、魔法はいつかはとける

とけるからこそ魔法なのだ…



付き合いが長ければ、顔は見えずとも、声の色で感情のおおよそはわかってしまうものだ。
洗面所から俺の名を呼ぶ英二の声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。

「これ、なに?」
英二は仁王立ちして、こちらを睨み据えていた。
親指と人差し指の先で、あるものをつまんで。

見つかってしまった。
手を洗った時に外して、置きっぱなしだったのだ。
何の変哲もない、シルバーリング。
シンプルな形状が、かえって意味ありげだ。
意味ありげを狙ったのだから、当然だ。

「誰の?」
「…俺の」
「うそ!俺も入んないのに」

英二は、右手の薬指に指輪を差し込んで、こちらに見せた。
指輪は、第二関節の上で止まっている。
彼はむっとした表情で、またこちらを見つめて俺の弁明を待った。

「…そっちじゃなくて。反対…」
俺は英二の左手の方を指さした。
「…こっち?」
「そう」

英二の指から指輪を外して、自分の左手の薬指に差し込んだ。
指輪は第二関節をすんなり通過して、奥まで入っておさまった。

「…あ。入った」
「ね?」
「ね?じゃねーよ。なんなの、これ?」
「これはさ、虫よけ、っていうのかな」
「…はぁ?」

英二が働き始めてから、以前にもまして二人で会う機会は減っていた。
今日だって、彼が俺の部屋に来るのは実に3か月ぶりのことだ。
会う時間が少ないと、恋人がいるという気配も薄れるものらしい。
先月、俺はある女の子から告白された。
その子がなかなか頑固で、こんな言い方は申し訳ないが少々辟易してしまった。
それで、予防策としてこういうことを思い付いたのだ。
指輪は、ネット通販で購入した安物だった。

「…おまえさー、まぎらわしいんだよ」
俺の説明を聞くと、英二は、むっとした顔のままくちびるをとがらせてつぶやいた。
だけど、その声音は屈託なさを取り戻していた。

英二は苦笑しつつ、俺の顔を覗き込んだ。
「でもさ、左手なんだ…?」
そう言うと、ケタケタと声を立てて笑った。

「引いた?」
「そーじゃなくて…。大石、意味知ってたんだ…」

「…知ってるよ。それくらい」
思わず黙り込んだ。

「あ…。ごめん」

いまや英二の背は俺に追い付いてしまって、向かい合うと目の高さはちょうど同じ位置になる。
彼はまっすぐこちらを見据えた。
「怒らないで。天然だと思ったんだ」

「…別に。怒ってない」
「俺も、おんなじの、する。どこで買ったの?」

機嫌を取るためであっても、そう言ってくれれば悪い気はしない。
いつもより幾分甘い声は、魔法のように心をほどいてゆく。
同じ男の彼ならば、そんなツボの在りかくらいわかっていて当然なのだろう。

「ネットでね。安物だよ」
「安物とか関係ない」
「指輪貰うなんて、女の子みたいで嫌かと思ってた…」

英二は不意にぎゅうと抱きついて、俺の耳元で囁いた。
「やなわけない」

魔法の囁きは効果覿面、俺はあっさり全面降伏だ。
英二はプライドや照れなんか横に置いてしまって、俺がしてほしいことを真っ先にしてくれる。
そういう彼の先回りは心地よかったし、彼の一途さもいとおしい。

彼は、何度でも魔法をかけてくれる。

…だけど、俺は、魔法のかけ方がわからない。
…どうしたらいい?

「じゃ、やっぱりもっといいの買ってやるよ。こんなのじゃなくて」
「だからこれがいいってのに」

俺は指輪を外して、英二の左手の薬指に嵌めた。
「サイズ、同じでいいみたいだな…」

英二は、左手を蛍光灯の光にかざした。
ろくに磨いてもいない安物のシルバーリングでは、たいして光りはしない。
だけど、彼は手の甲の角度を変えてみては、クスクスと微笑っていた。
その声は、まるで子供のもののように無邪気に響いて、ある記憶を呼び起こさせた。


昔、家族でよく海へ出かけた。
まだ幼かった妹は、浜辺でガラスのかけらを拾うのが好きだった。
うれしそうに笑いながら、波に洗われて丸くなった塊を、いくつもいくつも拾い集めていた。
だから、それはただのガラスだよ、って俺は教えてあげた。

だけど、妹はぽかんとした顔で答えたのだ。
…宝石かもしれないもの、いちおう持って帰るわ、って。

そうして、色とりどりのガラスのかけらを箱に大切にしまった。
海外土産のチョコレートの空き箱が彼女の宝箱だった。
箱の表面には少女と子猫の絵と、周りに蔦の模様がぐるりと描かれていた。
その中に入っていたのは、ガラスの他に、淡いもも色の貝殻、どんぐり、あめ色の飾りボタン…

妹は、箱からガラスのかけらを取り出しては、陽の光に透かして眺めていた。
満足そうに微笑んで、また箱にしまって…

妹はあの箱を、ガラスのかけらをどうしたろう。
捨ててしまったろうか…
どこかにしまい込んで、忘れてしまったろうか…

幼さの魔法は力を失って。
宝石はガラスに戻ってしまったろうか…


英二は微笑みながら、指輪を大事そうに撫でていた。
それを見て、思わず言ってしまった。

「やっぱり、もうちょっと高いの、買ってやる」

英二は口をぽかんと開けて、心底あきれたという顔をした。

「…大石、おまえ、ほんとはバカだろ…?」
「…だって」
「こーゆーのはさ。値段は関係ないわけ。気持ちの問題なんだから」

そして、ふいに黙ると俺の頬にキスをした。
「これで十分。しあわせです」

英二の声は、光の粒のようにキラキラ光ったかと思うと、空気に溶けて消えいった。
俺は呆けてそれに見入った。

「…俺、英二をしあわせにできた?」
「そーだよ。これからもしあわせにしてよ」

魔法がとけないようにするには…
指輪の光が失われないようにするには…

「…どうしたらいい?」

「俺をずーっと一番好きでいればいいよ。簡単だろ?」

英二はいたずらっぽく微笑って、キスをねだった。



知りたかった魔法のかけ方は、ほんとはとても簡単だった

君にかかった魔法がとけないように

君が俺を愛し続けてくれるように

俺は魔法をかけよう

君を愛し続けよう





end