恋を

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「手塚がね、恋をしているらしいよ。」

気がついたら隣の席に乾が座っていて、おもむろに口を開いた。
ちょうどその時、女子生徒の一人が素っ頓狂な笑い声を上げた。

俺は数学Tの参考書から顔を上げ、乾の顔を見た。
乾は参考書を覗き込んで、ずいぶん先までやってるんだなあと暢気な口調で言った。

「…何て?」
思わず聞き返した。
乾が言った言葉は聞こえていたものの、どうにもしっくりこなかったのだ。

自習室は、それとは名ばかりの3年生の憩いの空間になっていた。
すでに昨年末に、内部進学の合否は出た。
高等部に進学できないと決まった生徒は、こんな所でのんびりしている場合ではない。

「手塚が恋をしているらしい。相手は誰だろう。」
「…初耳だよ。知らないな。」
「そうか。大石なら知っていると思ったのに。」




「恋愛は、人生にとって無駄か否か。」

そういう問いを1組担当の国語教師がしたのだそうだ。
青学中等部の生徒は、数人の例外を除きそのまま高等部へ進学するが、指導要領に則れば、中等部と高等部の学習内容には大きなギャップがあるという。
それを埋めるという名目で、3学期に入ると国語の時間に古典文法入門が始まり、今月は伊勢物語を読まされていた。

伊勢物語といえば、恋愛歌物語。
主人公は、一応、在原業平と言われている。
平安時代きっての、名うてのプレイボーイだ。
そこで、先の問いになるわけだが、中学生にとってはいかにも面映ゆく答えにくい質問だ。
気心知れた若い教師ならいざしらず、相手は最長老の国語科主任だ。
下手なことを言えば、どんな突っ込みが待っているか知れない。
案の定、クラス全員が下を向いた。
ただ一人を除いて。

手塚は指名されると、躊躇なく立ち上がった。
そして、含羞のかけらもないよく通る声で答えた。

「否、でしょう。恋は、人生に彩りをもたらします。」

中学生らしからぬ確信めいた口調に、女子生徒は黄色い悲鳴を上げ、男子生徒はざわめき立ち、最後に教室は静まり返ったという。



「…じゃあ、何か聞いたら、教えて。」
「うーん。手塚のことだから、何も言わないんじゃないかなあ。」
「…そういう話、しないんだ?」
「しないねえ。」
「ふーん…。まあ、いいや。じゃ。」

乾は立ち上がり、何かを考えながら自習室を出て行った。



相手が誰かはさておき、手塚の答えは言い得て妙だ。

人生に彩り。
恋は彩り。

明度の高い色。
天から射す一筋の光のように。

あたたかい色。
冬の午後の陽だまりのように。
あるいは蝋燭に灯る炎のように。

それはまちがいなく暖色だ。

隠さなければならない想いであっても。
それは道を照らす明るさ。

月のない闇夜も。
出口の見えないトンネルも。
怖くなどない。



「大石。」
機嫌よさ気な笑みを浮かべて、乾が近付いてきた。
「あれ、わかったよ。」

あれって、さっきのあれか。
手塚の、恋の相手。

「おじい様のね、受け売りなんだって。」
「…なんだ。」

拍子抜けの結末に、顔を見合わせて笑った。

「でも、血筋にね、期待できる。今後が楽しみだ。」
そう言うと、乾は挨拶がわりに手を上げて去って行った。

今後が楽しみって。
自分の方はどうなのだ。
安心を共有するために戻ってきた、乾の行動が可笑しかった。


恋に恋する時代は過ぎて。
だけど、恋とはどんなものか、俺達はきっと本当にはまだ知らない。

光のように実体はなく。
だけど確かに色と温度を持っている。
それを恐る恐る、手探りで。
扱い方も知らないままに。
俺達は、そっと抱きしめる。
ついに人生に現れた、甘美な名前の想いを。
恋を。



end
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