ぴりぴり、ぴりぴり。
空気がふるえて。
頬に当たって、すこしだけ、いたい。
ぴりぴり、ぴりぴり。
なつかしい、はつ恋の記憶。
☆☆☆☆☆☆
「まだ、買ってなかったの、のんきだなあ。」
大石にのんきって言われるなんて、俺もおしまいだ。
でも、このことに関しては、確かにのんき過ぎた。
志望校の出願締め切りが間近というのに、まだその願書自体を入手していなかった。
俺は、今年の夏までテニス漬けで、勉強なんかまったくしていなかった。
だけど、浪人覚悟で外部受験に挑むことにした。
言い換えれば、現役高校生の今年の受験は、リハーサルみたいなもの。
そう思って、すっかり気を抜いていたのだ。
「駅ビルの本屋にあると思うから…。」
「…一緒に行ってくんないの?」
見つめ合って、大石の方が目をそらした。
なんでそこで目をそらすかな。
「乾と行くんだろ、予備校。」
「今週から冬期講習だから。乾とは別の講座なんだ。」
「…そうなんだ。じゃ、駅まで一緒に行くか。」
大石は、こちらを見ないでそう言った。
先月の終わりに、初めてキスをした。
それから、何度か、した。
俺達のキスは、最初の最初から、おもいきり濃厚だった。
まー、俺が手ほどきしたわけだけど。
キスは大好き。
あいつが俺に夢中だってわかるから。
だけど、初めてのキス以来、あいつはなんだかそっけない。
やさしい言葉とかないし。
見つめあってにっこりとかもないし。
目が合ったら、ふいと目線をそらしてしまう。
手だって、つないでくれない。
キスのとき以外、俺、ほんとに愛されてるの?って思っちゃうわけ。
☆☆☆☆☆☆
駅ビルのエスカレーターを上ると、目の前に、書店がある。
書店の一番手前のレジ脇に、「大学願書コーナー」はあった。
俺の志望校は、私大では最近人気の大学だから、すぐに見つかった。
それを手にとってレジへ行こうとすると、大石が尋ねた。
「買うの、一校だけなの?」
「…うん。」
なんでそんなこと聞くの、と思って、大石を見返した。
「いや、何校か受けるのかと思ったから。」
「来年ここに入れりゃいいんだよ。今年は模試みたいなもんだから。」
「…ああ。そこ、一柳の母校だっけ?」
空気がふるえた。
俺の頬に当たって。
ぴりぴり、した。
静電気、かな・・・?
「…うん、そう。」
俺は駅前の予備校だけど、大石は都心の予備校へ通っているから、ここでさよならだ。
普通の友達なら本屋の前で別れるだろうけど、俺達は恋人同士だから。
だから、俺は、大石を改札まで見送った。
「…理科の先生になりたいならさ。」
「…え?なに?」
「理科の先生になりたいなら、教育学部とか、理学部のがいいんじゃないの?」
「…そうなんだ?」
「うん。普通はそうだと思うよ。」
農学部から理科教員ってのは、イレギュラーなのか。
知らなかった。
「知らなかった。んじゃ、今度いっちーに相談してみる。」
「…うん。そうしたら?」
…あ、また。
ぴりぴり、ぴりぴり…。
空気がふるえている…。
大石と、俺との間の空気が。
いたい…。
肌が、ぴりぴりする…。
改札をはさんで手を振って、大石と別れた。
とおくなっていく背中を見送って、なんだかせつなくなった。
俺は、あいつが人の群れに消えるまで、見つめていた。
あいつは、一度も振り向かなかった。
両想いなのに。
片想いみたいじゃん。
ちょっとだけ、泣きそうになった。
☆☆☆☆☆☆
いっちーというのは、生物の一柳先生の愛称。
担任クラスの生徒や、彼を慕う生徒はそう呼ぶ。
でも、大石はいつも、一柳、と呼び捨てだ。
「先生」もつけない。
大石、礼儀正しいのに、めずらしい。
いっちーのこと、きらいかな。
…もしかして、嫉妬してる?
うっそー…。
でも、大石の反応をよくよく思い出してみると、そうにちがいないと思えてきた。
ぴりぴり、ぴりぴり…。
肌につたわった、痛み。
あれは、大石のからだが出していた、サインなのかな。
…意外と、するどい。
そう、思った。
ふだんは、鈍感おーいし君なのに。
別に、いっちーのことが好きというわけではない。
今は。
でも、この先は、わからない。
…尊敬と、恋情の間にうすい膜があって。
何かのきっかけがあればその膜が破れてしまう、こともある。
俺の恋のかたちは、たぶんそんな感じ。
だから、もしも、大石に出会わなかったら。
俺の初恋の相手は、いっちーだったかもしれない。
もしも、大石に振られていたら。
いっちーを好きになってたかもしれない。
そんな可能性もあった、という程度だけれど。
でも、大石が、嫉妬、かぁ…。
その推測は俺の顔をにやけさせた。
すれ違った人がいぶかしげに俺の顔を見返したから、はっと我にかえった。
俺は、昼休み、毎日のように生物準備室に居座っていた。
もちろん、問題の生物教師と一緒だ。
とはいえ、生物部員だって出入りをしているので、二人きりになることはあまりないのだが。
このことを、大石はどう思っていたのだろう。
今まで、考えたこともなかったのだった。
☆☆☆☆☆☆
「…で。結局どうしたいんだ。」
「わかんないから、相談してるんじゃんー。」
翌日の昼休み、俺はいつもの通りに生物準備室へ行った。
そして、くだんの生物教師に、受験する学部について相談を持ちかけてみた。
大石に嫉妬されたから、いっちーのことを意識したりするかな、と思ったけど。
別に、そういう気分にはならなかった。
確かにいい男だし。
尊敬しているけど。
「俺はさ、生物の先生になれるなら、どっちだっていいんだ。」
「…菊丸。わかっているだろうが、生物じゃなくて、理科の教師になるんだ。必要があれば、物理や化学も教えるんだぞ。」
「…わかってるよ。」
もちろん、そんなこと、わかりすぎるくらい、わかっている。
本当に俺に教えられるのかと不安なのだから。
「…じゃあ、おまえは、生物の時間にいったい何を教えるつもりだ。言ってみろ。」
「……。」
なにを急にむずかしいことを言い出すんだ、そう思って彼を見返した。
「教科書を読むだけなら、教師なんていらないんだ。」
「わかってるー。」
「菊丸は生き物や自然にもっと触れた方がいい。なにしろ、6年間、テニスしかしてこなかったんだから。」
まったくそのとおりだ。
テニスしかしてこなかった。
それだけは、胸を張って言える。
「たとえば、生物部の部員は毎年合宿で野外研究をしている。それ以外に、有志の野外観察会にも参加している。おまえは6年間どれにも参加したことがないだろう。」
「…うん。」
「都会で育った人間が、机上の学問だけやって、したり顔をして生き物について説いていいものか。俺はそう思うが。」
「なに?よくわかんないんだけど。もっとわかりやすく…。」
「生徒たちが、みんな研究者や、教師になるのならそれでもいい。でも大半は教科の一つとして学習するだけだ。だけど、そういう生徒たちに向けても、教科をこえた何かを発信する必要があるだろう?」
「…そうかも。でも、俺、まだそんなのわかんない。これからゆっくり考えるよ。俺は、いっちーみたいな授業がしたい。それしかわかんない。」
彼は、しかたないな、という顔をして、こう言った。
「…うん。おまえは、俺の母校へ行けばいい。学部も学科も同じでいいだろう…。」
俺と彼との関係は、出来の悪い生徒と、その生徒が慕う教師。
彼は、厳しいことを言うけれど、結局は俺を甘やかす。
その関係が、心地いい。
きっとこれからも。
それ以上にも、それ以下にもならないで。
そうありたい、と思った。
そういうわけで。
結局、俺は明くる年度に、担任の母校、某大学農学部畜産学科の門を叩いた。
大石がそれをどう思っていたかはわからない。
彼はそのあと、それについては何も言わなかったから。
そうして、俺は、牛糞や馬糞にまみれて、かわいらしいだけではない、生き物の現実と向かい合うことになった。
☆☆☆☆☆☆
「英二、好きだよ。愛してる。」
恋人の声を思い出すと、気持ちがほんわかした。
とげとげしい心のおもてが、なめらかになっていくみたい。
日本から遠く離れたカナダの地で、俺は馬草と馬糞にまみれていた。
大学2年の夏休みに訪れたファームステイ先は、競争馬を育てる牧場だった。
このファームステイ自体も、元担任のすすめがあって決めたのだ。
だけど、家族と、恋人と離れて。
慣れない言葉に囲まれて。
俺は早速、ホームシックになってしまった。
「英二、好きだよ。愛してる。」
もう一度、彼の声を思い出す。
ベッドに転がって、思わず脚をばたばたさせた。
あー、録音しておけばよかった、と思った。
明日また、電話するから聞けるんだけど。
俺、ホームシックだったんだよな。
そのはずだったのにな。
たった一言でもって、俺の心を掬い上げてしまうのだ。
恋人の声と、言葉と、心とが。
恋してるって、いーよねえ。
しみじみ思った。
…あのそっけなかった恋人も、今ではちゃんと、態度や言葉で愛を示してくれるので。
愛されてないかもなんて、感じることはなくなった。
でも。
ぴりぴり、ぴりぴり。
空気がふるえて。
頬に当たって、痛い。
あの感覚を、ときどきは、思い出して懐かしむ。
俺から目をそらしたのは。
振り向かないで立ち去ったのは。
俺のこと好きすぎて、見つめられるのが恥ずかしかったから。
俺にどんどん夢中になっていくのが、怖かったから。
なんだって。
そんな話も今では笑ってしてくれるようになったけど。
あのときは、ほんとごめんね、って言ってくれたけど。
せつなくて、もどかしい思いを抱えていたあの頃を。
恋のたのしみを、おぼえはじめた時代の記憶を。
思い出してはいとおしむ。
こうやってなつかしむことも。
恋のたのしみ、なのだから…。
end