後輩たるもの


桃城武は、お茶の水駅で中央線に乗り換えた。

平日の昼下がりの割に車内は込み合っているが、運良く座ることができた。
中央線には不思議と東京の雰囲気がある、と桃城は感じている。
あと数十分で、懐かしい街に辿りつく。

千葉の大学に進学したので、通えない距離ではない。
しかし、テニスを続けるには不都合で、桃城は実家を出てテニス部の合宿所に寝泊まりしている。

自他共に認める体育会系の桃城であるが、大学のテニス部というものには面食らった。
軍隊に入隊したと考えればいいのだと入部1か月めに悟ってから、2年の月日が経とうとしている。

青学中高テニス部の環境が、いかに恵まれていたかということを、桃城は18の春に思い知った。
自由闊達な雰囲気の中、先輩後輩の分け隔てなく切磋琢磨した。
規律は誰に対しても平等に厳しく、先輩だからOKで後輩だからNGというバカげた考えは欠片も存在しない。

とはいえ、この青学の精神が徹底的に浸透したのは、手塚国光部長の代になってからということも桃城は知っていた。
そうして、海堂薫と二人して更に下の代へと、その新しき良き伝統を繋げた。
このことに関しては、桃城は強く自負していた。
青学での6年間は自分の宝物である。


時々覗く空は、春霞に煙っている。
外堀通りの傍に植えられた桜の木々は、半月もすれば美しい花をつけるだろう。

春休みというものは、どうもぼんやりしてしまう。
2年生というわけでもなく、3年生というわけでもない。

実家に居るのはせいぜい三日やそこらだが、明日あたりかわむら寿司に顔を出そうと桃城は考えていた。
桃城が今でもテニスを続けていられるのは、河村隆の存在があったことが大きい。
もちろん、テニスが好きだからこそ続けているのだが、それでも好きだからこそ諦めたくなる時もある。
どん底に居る時には河村を思い出し、テニスを投げ出すことを思い止まる。

桃城は、筋トレにしろ打ち込みにしろ何をするにしても、人の二倍はやることを自分に定めていた。
自分と、もう一人は河村の分、というつもりであった。
一番近いところで見てきた自分が、河村の心を引き継ぐ義務があると思っていたからだ。
もちろん、河村は自分の意志でテニスを辞めたのだし、全く勝手な思い込みであることは桃城も重々承知である。


桃城がうとうとし始めた頃、電車は新宿駅に到着した。
降りる客も多ければ、乗る客も多い。

乗り込んで来た乗客の中に、見知った顔があった。

菊丸英二である。
髪型はもはや、往年のアレではない。

現在は代官山のヘアサロンに勤めているが、入店の条件がこれであった。
「その魔女っ子みたいな髪型をやめること」
以来、菊丸の髪型は常に流行のスタイルである。
この話は先々月、正月開けての青学テニス部OB会で本人の口から聞いた。
菊丸は、面接の時の上司の口調を面白おかしく(おそらくはかなり脚色し)語って、後輩たちを笑わせていた。

菊丸は車両の端の座席の前に立ち、つり革につかまった。
その隣についと男が立った。
大石秀一郎であった。

桃城は、挨拶に行こうと思って上げかけた腰を下ろした。

こちらの髪型は、往年のアレである。
大石も大学でテニスは続けているが、桃城ほど本格的な体育会系部活動ではない。
また、リーグが違うので桃城と対戦する機会はない。

それぞれ紙袋を手に提げている。
買い物帰り、ということだろうか。

大石は紙袋から文庫本を取り出して読み始めた。
菊丸はイヤホンを耳に嵌め、携帯電話にメールを打ちこんでいる様子である。
知らない者から見れば、二人連れであることには気がつかないかもしれない。

相変わらずの空気感である。
桃城はそう思い、なんとなくほっとした。
当時から、外見といい趣味といい、全く共通点がなさそうな二人であった。
しかし、醸し出す雰囲気には似通ったものがあり、その温かみのあるムードに後輩の自分は安心したものである。

そして、自分が苦手としていたダブルスの魅力と可能性を教えてくれた二人でもある。
示されたダブルスの理想の形は、今もって桃城には体得できていない。
しかし、現在の桃城はダブルスもシングルスも得意とするオールラウンドプレイヤーに成長していた。


中野駅で大石の前の座席が空いた。
大石は菊丸の腰に手を置いて軽く押し、座るように促した。
菊丸は、無言でそれに従い、座席に座った。
それから、おもむろに大石の指に手を伸ばしてきゅっと握った。

桃城の心臓はどきりと打った。

菊丸の指が大石の指を握ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。
続けて紙袋の手提げ部分をくいと引っ張ると、大石は指を離した。
おそらくは本が入っているであろう重そうな紙袋は、かくして菊丸の膝の上におさまった。

大石は再び文庫本に目を落とし、菊丸は瞳を閉じて音楽に聞き入っている様子である。

あまりに自然すぎる一連の動作に、どきどきが止まらなくなる桃城であった。

当時、もしやと思ったことはあったのである。
が、もしやと思っただけで終わりであった。
しかし、今の無言のやりとりは、それを物語っていやしないか。

桃城は、見てはいけないものを覗き見てしまったような罪悪感で、挨拶に行くことなどできなくなってしまった。


次の高円寺駅で、菊丸の向かいの座席が空いて、大石が腰かけた。
桃城の位置からは、斜め向かいになり表情もよく見える。
大石はごそごそと携帯電話を取り出して開き、ぱっと顔を上げて桃城を見た。

「もも!」
大石は声は出さないが、口を大きく動かしている。

え!?
桃城は狼狽しつつも立ちあがった。
先輩に呼ばれたら、行かないわけにはいかないのが体育会系というものである。

「…いつから知っていたんすか?」
桃城は、つい、憮然とした態度で菊丸に声をかけた。

菊丸は、桃城が車内に居ることを大石にメールで送っていたのであろう。
本に夢中になっていた大石は、しばらくしてからそれに気付いたということだ。
ということは、「あれ」は自分を惑わすためにしたことではないかと瞬間的に思ったのである。

「えーっ!?俺から挨拶しろっての?桃城先輩!ちーっす!」
菊丸はニッと笑って、軽口を叩く。

「…すんません」
とはいえ、やはり、後輩として挨拶に来なかった自分は分が悪すぎる。

桃城は、踵を返して、菊丸の向かい側に座る大石に挨拶した。
「ちーっす…」


青春台の駅に着くと、桃城は改札口で二人と別れた。
銀行に寄るというのは口実で、自分が邪魔者のようでなんとなく居たたまれなかったからである。

1月のOB会で会った時、菊丸は、仕事の休みが平日だから遊んでくれる人がいないのだとこぼしていた。
その時に、「彼女はいない」とも言っていた。
「彼女は」と…。

振り返ると、二人は立ち止まってなにやら話している。
これからどうするかという相談であろうか。

菊丸の思わせぶりな所作が、再び桃城の頭の中をぐるぐると廻る。
思い起こすと、菊丸の指がなにやらなまめかしい気分をはらんでいるように思えてくる。

おそらくは、いたずらな菊丸が桃城を驚かすためにしたことだというのは想像できた。
しかし、指を握られた当の大石は全くそれに動じなかったし、何より菊丸の腰に置いた手の優しさはただの友人にするものとも思えない。


桃城は、こういうことを考え出すと眠れなくなる質である。

「あーっ。いけねえなぁ、いけねぇよ…」
と、髪の毛を掻きむしる。

春霞に煙る桃城の頭には、少々刺激が強すぎた。

この足でかわむら寿司に出向き早々に癒してもらおう、と予定変更する桃城であった。





「後輩たるもの」end

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