こころも。
からだも。
すべて。
なにもかも。
細胞のすみずみまで。
くまなく。
俺だけで満たしたいんだ…。
☆☆☆☆☆
「日曜に帰るよ。…えっと、7末までかな…。お盆にまた帰るから。」
母からの電話を切って、しばらくの間、ぼんやりとしていた。
携帯電話のボタンの辺りを眺めて。
おととい、ここにキスしたのだ。
英二にねだられて。
電話越しに。
今思い出しても、恥ずかしい。
成田から電話を寄越した彼は、切り際に「行ってきますのキス」をくれた。
「行ってらっしゃいのキス」ちょうだい、と言われて…そして。
思い出すと、胸の真ん中がほんのりと温かくなった。
英二のファームステイ期間は3週間。
向こうに着いたらメールをくれると言っていたが、まだ届かない。
電話はなるべくしないつもりだけど、わからない、と言っていた。
☆☆☆☆☆
…どうしても声が聞きたくなったら、フォンカード買って電話する。
そう言いながら、英二はカレンダーの8月2日のところに蛍光ペンでしるしをつけた。
彼が帰国する日だ。
「実家から戻って来てね。成田から直接来ちゃうから。」
英二は俺の膝に乗り上げて、首に腕を巻き付けた。
俺の目をじっと覗き込む。
色素の薄い瞳は、白目のところが青みがかっている。
子供の頃に遊んだ、ビー玉みたい。
俺は返事のかわりに、目尻にキスした。
そんな風に甘えられなくたって、戻って来るに決まってる。
彼は、満足気に微笑んだ。
「なぁ、ほんとに携帯禁止なのか?」
俺は、彼の申し出に、再度異義を唱えた。
「利用料払えないって。ばかみたいに高いんだから。だめだよ、使っちゃ。それにさ、やっぱり試してみたいし。」
やっぱり試してみたい、というのは。
会いたいのに会えないと愛が深まる、という英二のおばあさんの話。
携帯電話などなかった時代の、恋愛話。
家にも電話があったりなかったりの時代。
英二のおじいさんとおばあさんはラブレターを送り合った。
英二は、それを真似してみたいのだと言う。
だから、電話もメールもしないでいてみようと。
でも、せめて、手紙じゃなくWEBメールでと、ごねて折衷案を出させた。
時々、思いつきで勝手なことを言い出すのだ。
愛が深まるって?
「…なんか不満でもある?俺の愛、足りてない?」
つい、口調がきつくなった。
だって、こんなに深く愛してる。
「愛、足りてるけど…。俺、欲張りなのかな…。」
そう言って、彼は下を向いてしまった。
その顎を取って、くちづけた。
軽く音を立ててした、戯れのキスのはずだった。
だけど、なんだか急に、彼を手放したくなくなって。
いつの間にか、情事の前の熱をもったキスに変わっていた。
くちびるが離れた時、彼の瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
今日はすでに幾度もして、さっきやっと衣服を着けたところだったのだ。
彼はまばたきの一瞬で、瞳のその色を消すと、微笑んで俺の頬にキスをくれた。
でも、その優しいキスも、俺の心をなだめることはできなくて、俺は彼の耳元にささやいた。
「英二、もう一度だけ、いいかな…。ごめん、大丈夫?」
「…そんなこと、聞かなくたって、いーのに…。」
☆☆☆☆☆
3週間って長い…。
ため息をついた。
声、聞きたいな…。
おととい聞いたばかりなのに。
ぼんやりしたままで、携帯電話をたたんだ。
一昨年の夏の終わりに、両思いになって。
こうして、二人で過ごせる空間も手に入って。
だけど、気持ちは落ち着くどころか、ますます。
英二に、焦がれていた。
どこにも行かないで。
ここにいて。
俺だけを、見て。
俺以外、見ないで。
だれも。
なんにも。
彼のこころも、からだも。
俺だけで満たしたい。
英二の世界が広がっていくことも。
彼がキラキラした瞳で世界を見つめることも。
俺の心からの願いだってことは、ほんとうだ。
でも、たぶん、独占欲、という名前のその気持ちが。
醜いその気持ちが。
俺の心の一部を占めていることもまた、ほんとうだった。
狂おしいほどに。
狂ってる…。
そうなのかもしれないな。
昔は、自分が恋に狂う種類の人間だとは、思っていなかった。
そういう種類の人間を、ひそかに軽蔑していたくらいなのに。
でも。
心ごと。
体ごと。
彼のすべてを、俺のものにしたいんだ。
というより。
二つであるのがもどかしい。
一つになってしまいたい。
そう言ったら、きっと、英二は笑って言うだろう。
もう全部おまえのなのにって。
そんなクサイ台詞だって、平気で言える彼だから。
その言葉は、半分ほんとうで、半分うそだ。
彼のすべてを俺で満たすなんて、無理なことだって、わかっている。
こういうのは、きっと、愛とはいえないのだ。
ふと、そう思った。
奪いたいだけの、この思いは、情欲に分類されるのか。
いずれにしろ、愛ではない。
愛は、与えるもの。
でも今は、与えるよりも奪いたい。
十分に与えられてもなお、貧りたい。
そうか。
英二はきっと、足りてなかったのだ。
俺の愛は、ほんとうの愛じゃないから。
気がつくと、煙草の箱が空になっていた。
吸い過ぎだ。
塾講師のアルバイトは夕方から。
帰省した同僚のコマも引き受けて、先週からは毎日入っていた。
だが、昼間は一人の時間を持て余して、こうして終わりのない考え事を繰り返している。
実家に帰ったら、もっと暇になるのだ。
高等部の練習でも手伝うか。
思い付いてから、悪くないと思った。
テニスは、お気楽サークルに所属して続けていた。
入学した時、庭球部に入ろうか迷ったのだ。
だが、体育学群の人間ばかりで、医学群の人間など一人もいないと聞いて、やめた。
どちらも、中途半端にできることではないのだ。
テニスをすれば、この堂々巡りから、抜け出せるかもしれない…。
テニスをそんなことの手段にするなんて、と思った。
でも、その時の俺は、藁にも縋る思いだったのだ…。
その晩、大和先輩にコンタクトを取ると、早速練習に参加して欲しい旨、返事がきた。
「菊丸くんが不在なので、代わりにダブルスの指導をしていただければ助かります。」
メールの返信には、そう書かれていた。
それはそうだろう。
いつもは、英二がダブルス練習のサポートをしているのだ。
どうして、思い及ばなかったのだろう。
余計に彼のことを思い出すことになったりはしないかと、にわかに心配になった。
けれど、言い出した手前、後に退くわけにはいかなかった。
☆☆☆☆☆
そうこうしているうちに、英二からメールが届いた。
無事着いた。
元気にしている。
ステイ先の家族は皆親切。
自然の中にいることが心地よい。
来てよかった。
俺を安心させる言葉が並んでいた。
だけど、いつもの携帯メール程度の長さで、内容も生存報告という感じだったので拍子抜けした。
着いたことを知らせるだけのメールだから、当然だろう。
だけど、彼が高校時代にくれたラブレターのような熱烈なやつを、俺はどこかで期待していたようだっだ。
☆☆☆☆☆
練習参加の初日は、試験休み中の一日だった。
懐かしの学び舎は、武蔵野の深い緑に包まれている。
正門までケヤキの並木道を歩いた。
あの頃とまったく変わらない風景に、我知らず、足が止まった。
どこまでも続いているように見える、長い並木道。
朝夕と数え切れないほど辿った道。
夏服の生徒たちが、立ち尽くした俺を追い抜いて行った。
だけど、思考を止めることはできなかった。
…いつまでも、続いてゆくと思っていた。
英二と積み重ねてゆく日常と練習とが。
タイムリミットがあることは、頭ではわかっていたし、早く大人になりたいと、いつも思っていた。
だけど、一方では、この日々は永遠に終わらないという錯覚に、しばしば捕われていた。
見上げると、ケヤキの木は天を突くように、高く高く枝を聳えさせていた。
夏らしい濃い緑色が、涼やかにきらめく。
実際、木陰は涼しくて、肌の火照りを冷ましてくれた。
蝉しぐれが降り注ぐ。
目を閉じれば、そこは、もう。
俺の思考は、時間を遡ってゆく。
英二が俺の胸倉を掴んで、怒りをあらわにした、あの時へと。
涙に濡れた彼の瞳を、見つめ返した時へと。
走り去る彼を、追い掛けることはできなかった。
俺はその時、一瞬で恋に落ちたから。
ずっと前から、とっくに、彼を好きになっていたのかもしれなかった。
気付かなかっただけで。
でも、今となっては、どちらであろうと、それはどうでもいいことだ。
とにかくその時、俺は、彼の瞳の色に染め上げられたのだ…。
☆☆☆☆☆
インターハイ直前ということで、部員たちは気合いに漲っていた。
サポートのOBは、大和先輩と、OB総会で見掛けたことのある3つ上の先輩の、計二人。
乾は、関東大学リーグに向けての合宿で不在だった。
彼もまた、テニスに情熱を注ぎ続けている者の一人だ。
俺は、個人戦に出場する2年生ペアを任された。
一人はテニス歴は長いものの高等部からの編入で、二人がダブルスペアを組んでまだ1年足らず。
それでインハイ出場というのだからたいしたものだ。
やはりダブルスは相性といえよう。
練習が終わると、この二人に呼び止められ質問責めにあった。
どうしたら、強くなれるのか、全国で一勝を上げられるのか、要はこれが知りたいのだった。
「英二は、なんて?」
「お前たちの色を探せって、今はとことん悩めって突き放されました。」
そういうと、二人で顔を見合わせた。
「…まあ。その通りだよね。二人は二人なりのダブルスを見つければいい。正解は一つじゃないんだ。たまにしか来ない俺がアドバイスを残すとすれば…。」
息を飲んで、俺の言葉の続きを待つ二人が、なんだかほほえましかった。
「目標は大切だけど、結果に目を向け過ぎるな。大切なのは過程。日々の積み重ね。とことん話し合え。疑問を残すな。だけど、分析も批評も、ほどほどに。突き詰め過ぎるな。パートナーとのテニスを楽しむ姿勢を忘れるな。パートナーを追い詰めたり、窒息させては共倒れだ。…ダブルスは二人でするもの。それを忘れないこと。」
「…あっ…ありがとうございましたぁ!」
そういうと、二人は頬を紅潮させ、部室へ向かって駆け出した。
顔を見合わせて、メモを取るというジェスチャーをしていたので、二人が満足する回答をあげられたのだとわかった。
☆☆☆☆☆
大和先輩がどこからともなくやって来て、俺の隣に腰掛けた。
「さすが。的確なアドバイスでした。」
「いえ。あんな抽象的なのでいいんですかね。」
「大丈夫。菊丸くんよりは、だいぶ具体的です。」
俺は、その言葉に思わずクスクス笑った。
「でも、菊丸くんには、理屈なしに生徒を引っ張っていける力があります。意外と、指導者向きですよ。運動部というところは、理屈じゃ動かない子も大勢いますからね。」
「はあ。…大和先輩は、あの。」
「コーチは道楽です。」
「そうですか。」
相変わらず、囲碁か将棋のように相手の先を読む返答だ。
沈黙を埋め尽くす蝉の声。
俺の思考は、先輩を置き去りに、また深く沈み始めた。
二人なりの、か…。
俺の探している解も、一つじゃないのだろうか。
それとも、解は一つだけど、解き方がいくつもあるのだろうか。
そもそも俺は、解を探していたのか、解き方を探していたのか。
このままでは、俺は英二を追い詰めて、窒息させてしまうのではないか。
また、堂々巡りになっていきそうだった。
「なんだか、いつになくぼんやりしていますね。」
大和先輩が口を開いた。
目線はケヤキの梢の先を見上げている。
「…高校時代は、大学生ってもっと大人だと思っていました。」
「同感です。少しくらい年をとったからといって、なにかが変わるわけではありませんね。」
「あの頃は、人の気持ちばかり気にしていたけど、いま俺は、自分の気持ちすら制御できてないんですから…。」
「…もしや、恋のお悩み、でしょうか?」
「…恋以前の問題です。俺は、人を愛せないんです。」
「…聞き捨てなりませんね。」
どうしてか、俺は、抱えている思いを、先輩に打ち明けていた。
俺の愛が、偽物だということ。
だから、恋人が俺の愛に満足していないということ。
「…なるほど。でも、足りてないのは、お相手じゃなく、あなた、の方じゃないですかね…?」
俺が?
俺は以前に英二がくれた言葉を思い出した。
…俺は大石のだから、…欲しいだけ全部あげる…
実際、英二は、俺がどんなに求めても、全て受け入れてくれる。
「…あの。体の話じゃありませんよ。心、の方です。」
先輩には、思考を見透かされているようだ。
…こころ?
俺の心は英二の愛が足りてない?
…だとしたら、俺はなんという、欲張りなんだろう。
「愛は無尽蔵じゃないんです。与えられなければ、与えることはできません。きっと、大石くんは、頑張って与え過ぎてしまったのではないですか…?」
そう、なんだろうか?
「…わかりません…。難しすぎて…。」
「私が見たところ、菊丸くんが足りてないようには、見えませんでしたし…。」
大和先輩は知っていたのか、俺達のこと。
体がかっと熱くなった。
きっと顔はまっ赤だろう。
「…では、特効薬をお教えしましょうか。お相手に『好き』と言ってもらってください。」
…それだけ?
「自分でお願いして言ってもらうんですよ。はじめは少々恥ずかしいでしょうが、慣れれば簡単です。」
大和先輩は、そう言って微笑んだ。
…自分でお願いして、ということは。
「好きといって。」と頼むか、「俺のことが好きか。」と聞かなければならないということか…。
そんな、柄でもないこと…。
それに、わかりきっていることを、恥ずかしい思いをしてまで尋ねる必要があるだろうか。
そう思って黙り込んだ。
「少々抵抗があるという感じですね。でも、まぁ、騙されたと思って、試してみてごらんなさい。」
先輩はまた、にっこりと微笑んだ。
☆☆☆☆☆
パソコンの画面に、時差時計のページを表示した。
世界地図の上に、いくつかのデジタル時計が配されている。
主要各都市の上に配された時計は、一秒毎に時を刻んでいる。
英二がいるのは、カナダのバンクーバー郊外。
東京はいま夜8時、バンクーバーは午前4時。
東京の時計と、バンクーバーの時計とでは、夏時間で8時間の違いがある。
時差でいえば16時間。
バンクーバーの方が16時間遅れている。
刻んでも刻んでも、東京の時間には追い付かない。
いつまでも、二つの距離は縮まらない。
…朝も夜も早い生活だろう。
何時にかけたらいいのだろうか。
朝がいいのか、夜がいいのか。
朝はきっと忙しい。
こちらが正午のときにかければ、向こうは夜の8時。
もう1時間遅くかけてもいいかもしれない…。
俺は、早速、英二との約束を破ろうとしていた。
ワンコールで、英二が電話に出た。
驚いた。
「ごめん…。」
開口一番、とりあえず謝った。
「おーいし…。」
怒られるかと思いきや。
「俺、ホームシックかも…。」
「えっ。」
ワンコールで電話に出たのは、たぶん携帯を触っていたからだとわかった。
「みんな優しいし、動物はかわいいし、楽しいんだけどさぁ…。」
「うん。」
「高校ん時、選抜で台湾行ったじゃん。そん時は、大石がいたんだよ。だから、ホームシックなんてならなかったんだな。」
「うん。」
「明日、フォンカード買って電話するから。この時間でいい?」
「いいよ。」
二つの距離は永遠に縮まらないような気がしていた。
だけど、そんなの、俺の思い込みにすぎなかった。
「ね、大石もさみしかった?」
「うん、だからかけたんだ。」
「ほんと?あのさ、ねー、好きって言って。」
「好きだよ。英二、愛してる。」
そう言うと、彼はうれしそうに笑ってから、ありがとうと言った。
「あっ、あのさ、英二。俺にも、言って。好きって。」
一瞬の間があって。
英二はその言葉をくれた。
「大石、好きだよ。大好き。愛してるよ。」
ふんわりとやわらかい声。
優しさに包まれて、鼻の奥がつんとした。
ありがとうが言えなかった。
「…大石、どしたの?大丈夫?」
「大丈夫。大丈夫じゃなかったけど、大丈夫になった。」
俺たちは、笑い合った。
「あっ電話代!もう切るね。明日かけるから。電話ありがと。またね。また明日ね!」
英二は早口でそう言うと、俺の返事も聞かずにいきなり電話を切ってしまった。
事の顛末に呆然としたが、それでも、俺はしあわせだった。
☆☆☆☆☆
ほんとうに、簡単なことだった。
単純なことだったんだ。
大和先輩の言った通りだった。
俺が欲しかったのは、英二の気持ち、英二の言葉。
でも、俺は自分の気持ちすらよくわからなくて。
問題を難しく考え過ぎて。
ややこしい迷路に迷い込んでいた。
手を抜いたら、彼は他の人のところへ行ってしまうと思って。
誰かに盗られてしまうと思って。
不安に追い立てられていた。
彼から言葉を、気持ちを求めることを忘れていた。
英二と二人で生きていきたい。
それは俺にとって最大の目標であり、課題ではあるけれど。
彼を失いたくないという恐れも。
彼を独占したいという欲望も。
すべて、いったんは忘れたふりして。
日々の言葉のやりとりを、心の通い合いを楽しもう。
これがなくては、恋愛とはいえないのだから。
恋は二人でするもの。
足りなければ求め、求められれば与えて。
一人で考えていたって、何も始まらないし、解決もしない。
彼のすべてを自分のものにしたかったけれど。
二つの体と二つの心は、決して一つにはなれない。
でもだからこそ、足りない時には、こうして与えてもらえるのだと、わかった。
☆☆☆☆☆
携帯電話をたたんで、空を見上げた。
緑の隙間から覗く空は、さわやかな夏色。
空は蝉しぐれとともに、少量の水滴を降らせはじめた。
天気雨だ。
キラキラと光を反射しながら、肌の上に落ちた水滴は、熱をわずかに冷ましてくれた。
熱風は涼やかな風ヘと変わり。
頬をやさしく撫でて通り過ぎてゆく。
何年経っても変わらない夏の風景。
この夏のように。
何年経っても変わらずにいられますように。
俺らしく。
彼らしく。
そして、何年経っても二人で一緒にいられますように…。
end