ふたりっきり。
それがいちばんいいんだって。
ひとりじめできるんだって。
君がそう思ってると知ってから、
君とふたりでいる時間が、特別になったんだ。
☆☆☆☆☆☆
今年の夏休みも、英二と過ごす時間はほとんどなかった。
大きい大会が続くので、しかたがない。
応援のために東京の会場まで出向いたが、メインといえるインカレ・シングルスはベスト32に終わった。
ファームステイもあったし、調整不足だったのかもしれなかった。
来年は、必修の実習が3か月もあってインカレは出られないのだし、今年思うように勝ち進めなかったのはきっとこたえたろう。
声をかけずに帰ろうとしていたら、その本人につかまってしまった。
「おーいしっ!」
「わあっ!ちよっ…重いからっ!」
「なーんだよ、ケチ。どーせ重いよっ!」
やっと背中から下りてもらった頃には、注目を集めてしまっていた。
手を引いて人目のないところへと避難すると、彼は待ってましたとばかりに、俺の耳元で囁いた。
「ね。大石んち、行きたい。」
「今日?打ち上げあるんでしょ。」
「大丈夫。落ち込んで打ち上げどころじゃないふりするから。」
「馬鹿なこと言わないで。」
「…俺、ほんとに落ち込んでんの。大石でなきゃ、慰めらんない…。」
ためらいという言葉など知らないみたいに、じっと瞳を据え付ける。
その瞳がみるみるうるんで、涙でいっぱいになってしまった。
突っぱねられるわけがなかった。
うちに着くまで、話題はずっと、俺のうちの猫の話だった。
拾った、というよりは、部屋にあげたら居座ってしまった。
それがお盆明けのころだから、そろそろ1か月になる。
ひどい夕立ちの日に、ずぶ濡れで、うちの玄関の前にへたり込んでいた。
寒さに震えて、必死な瞳で、何か言おうと口を開いたけれど、鳴き声は出なかった。
そう話すと、「思うつぼ」と言って、英二は笑った。
「それが、猫の『手』なのにさ。」
「だって。あれ見たら、英二だって、絶対部屋に入れたと思う。」
「まーそうだろうね。結局、人間は猫に逆らうことなんてできないのさ。そういう風にできてるんだから。」
☆☆☆☆☆☆
「英二、靴脱げないから。一回離れて。」
「やだぁー…。」
「いー加減に…。」
「ね?ここでしちゃおっか…?」
「おこるよ?」
「…ゴメンね。チューだけでがまんする…。」
そう言って、首の周りに腕を絡めてきたので、英二のくちびるにキスを落とした。
まぶたを開くと、猫と目が合った。
目をまんまるに見開いて、こちらを見ていた。
と思うと、踵を返して、部屋の奥へと消えた。
うちの猫は、というかどこの猫でもそうだと思うが、玄関先まで迎えに出てきて、甘えてすり寄ってくるのが常だ。
だが今日は、もう一人の人間が自分より先に、玄関先で俺に甘えているのだ。
猫にしてみれば、なにごとか、という事態だろう。
そのまま、二人で部屋へと転がり込むようにして、いきなり始めてしまった。
参加した大会が、大きければ大きいほど、興奮は尾を引く。
試合自体が白熱すれば、なおさらだ。
俺も、ありすぎるくらいある経験だが、大きな試合が終わった夜は、とてもそのまま眠ることなどできない。
特に全国大会の後などは、会場のトイレで一度抜いて、うちへ帰ってすぐ抜いて、夜も普通に、というくらい昂ぶっていた。
英二もそういう状態なのはわかっていたので、危なっかしくて放置して帰るわけにいかなかった。
部屋に連れ帰ったのは、そういう理由もあったのだ。
「…ねえ、焦らしてんの?」
「ちがうよ。もう、欲しいの?」
「へへ。ほしーよ。」
いたずらっぽく笑った。
と思うと、腕を引っ張られて、床へ転がされた。
「攻守こーたい、なんてね。」
そう言うと、俺の腰の上に跨った。
腰骨に触れる内腿の熱さは、とまどうほどだ。
「入るかな…。」
「痛くない?無理しないで。」
苦悶の表情でもって俺を迎え入れて、自ら腰を動かし始めた。
たちまちのうちに恍惚として、俺の体の上でからだをよじった。
髪の毛と髪の毛の隙間から垣間見える、閉じたまぶたが、知らない誰かのものみたいだった。
くちびるも、見たことがないほど淫らな動きをして、酸素を求めた。
自分のいいところを刺激できるわけだから、マスターベーションのようなものだ。
そう思って、試したことがなかった体位だが、全然、悪くない。
うっとりと、恋人の嬌態を眺めていると。
「…ねこ…。」
「ねこ?」
「こっち、みてる…。」
「あ…。」
そんな会話をしながら、とりあえず、二人とも果てた。
「ぜんぜん、集中できなかった、猫のせいで。」
英二はおかんむりだった。
集中、かなりしてたように見えたけど。
そう思ったが、逆らわなかった。
「やっぱり、ふつーのかたちでして。もう一回。」
と言って、俺の中心を手に取って刺激しはじめた。
無心でな顔ではじめても、瞳だけがだんだん淫らな色に染まっていく。
その変化が好きなので、されるがままで、ただ顔を眺めた。
顔がもっとよく見えるようにと、あかるい色の髪を指でかきあげた。
英二は視線をちらりと返して、すぐに戻した。
彼は知ってる。
俺が、どんな顔を、好きなのか。
ほしいものを一心に求める顔は、つくられた媚態であっても、とても綺麗だ。
今日みたいに、なりふりかまわない顔ならば、なおさらだ。
俺は、まっすぐな視線に射落とされ続ける。
彼に会うたびに。
彼を抱くたびに。
火のついた矢尻に、胸を焦がされ続ける。
体を合わせて、折り重なると、俺の下でくぐもった声が漏れた。
吐息と吐息の間にはさまれたその声は、いつもよりも部屋に響いた。
猫が、また、驚いた顔で、引き戸の向こうに顔を見せた。
ぽかん、という擬音がふさわしい、そんな表情だった。
猫の名前を、何回か呼んだ。
ベランダから外に出たか、ガス台の上の天袋か、それとも…。
とにかく、姿を見せない。
「あいつ、拗ねちゃったね。猫ってさ、二人っきりが好きなんだよ。俺が帰ったら、きっと思いっきり甘えてくると思うよ。」
そうなのか。
なら、英二と同じじゃないか。
彼は、むかし、確かにそう言ったのだ。
「風呂借りるよ。」
英二が風呂場の扉を閉めた。
彼が姿を消せば、猫は現れるだろうか。
そう思って、猫の名前を、もう一度呼んだ。
姿を見せない。
返事もしない。
完全に、拗ねられてしまった。
★★★★★★
渋谷のプラネタリウムが閉館になる、練習後の部室はその話でもちきりだった。
話題をもたらしたのは、不二だった。
部活を休んでいる手塚を、気晴らしにとプラネタリウムへ誘ったのだという。
そして、そのニュースを知ったのだそうだ。
手塚は、上級生とのトラブルから怪我をして、しばらく部活に顔を見せていなかった。
青春台から渋谷までは、乗り換えなしで行くことができる。
沿線に育った大抵の男子生徒は、子供の頃に父親に連れられてプラネタリウムを訪れたことがある。
懐かしい思い出の場所だ。
娯楽が増えた時代、プラネタリウムの利益は上がっていなかったのだろう。
施設が入っている文化会館も、老朽化のため再来年には取り壊され、再開発の対象になるのだそうだ。
「俺、行ったことないのに。」
「俺もだよ。そこにかぎらず親父にどこかへ連れて行ってもらったことなんて、ないんだけどね。」
「タカさんちは、土日は書き入れ時だもんね。」
英二とタカさんが話すのを聞きながら、思わず口を開いた。
「最後だし、久しぶりに行ってみたいな。」
「そうだな。俺も小学生の頃は、回数券まで買って通い詰めたほどだ。」
乾が答えた。
結局、学年末考査の試験休み中の土曜日を利用して、4人でもって出かけることになった。
上演時間の問い合わせのために、プラネタリウムに電話をかけた。
すると、閉館間際になって、連日大変な混雑なのだと聞かされた。
午前10時から整理券の配布を始めるのでそれをもらってくださいと、説明された。
整理券は、一人一枚ですかと俺が尋ねると、二枚までなら大丈夫との答えだった。
電話に出たのは、男性だった。
品のいいおっとりとした話しぶりは、たぶん解説員のおじさんだろう。
こうした問い合わせが殺到して、彼までも電話に出ざるをえない状況なのだと推察された。
俺と英二の二人で先に行き、10時配布の回数券をもらおうということになった。
8時半に青春台の駅前で待ち合わせると、英二は時間ちょうどにやってきた。
彼は切符を買うのにも慣れていなかったから、券売機の前までついて行ってボタンを押してやった。
「電車で出かけるの、ひさしぶりだから、買い方忘れちゃった。」
「毎日毎日、練習だもんな。」
1年生で、レギュラーでもない俺たちは、まだ練習試合にも連れて行ってもらったことがなかった。
改札を抜けると、彼は俺の先に立って歩いて、一番前の車両に乗り込んだ。
青春台始発なので、座席は選び放題だ。
5人掛けの座席に座ってから、ここでいい?と尋ねてきた。
「大石と二人で出かけるの、はじめてだ。」
そう言って、振り返って窓の外を見た。
「つき合わせて、悪かったな。」
「なんだよ、いまさら。」
まったく、いまさらな話だった。
だけど、英二は俺と二人で退屈なんじゃないかと思ったのだ。
ダブルスを組むようになって、部活の間は四六時中いっしょにいるようにはなっていた。
だけど、彼は気がつくと人の輪の中にいて、楽しそうにおどけていることが多かったから。
「いや、つまんないんじゃないかと思って。」
「なに、それ。」
「英二、にぎやかな方が、好きだろ。」
「人が多いほうが、ってこと?」
「そう。」
すると、彼は大きくため息をついて、俺の目をじっと見た。
「ぜんぜん、わかってない。俺のこと。」
「え。」
「二人っきり、ってのがいちばんいいんだよ。独り占めできるだろ。」
「へえ。そうか。」
わかったふりをしてみたものの、彼が何を言いたいのか、よくわからなかった。
「人が多いのは、うちじゃ当たり前なんだよ。母ちゃん独り占めしたことなんて、俺、一度もないんだぜ。」
ああ、そうか。
やっと、わかった。
人に囲まれているのが、大家族で育った英二にとっては普通の状況で、だれかと二人でいることのほうが、特別な状況なのだ。
そういえば、英二は不二と二人でいるのが好きじゃないか。
なるほど、ほんとに俺は、相棒のことがよくわかっていなかった。
アナウンスが、間もなく発車することを伝えた。
座席が次々に埋まり、ほぼ満席になった。
電車が走り出した。
急カーブにさしかかり、英二はふざけて俺の方に体を傾けた。
おもわず、口元がほころんで、笑いがこぼれた。
英二も笑っていた。
30分弱の乗車時間は、話をしていればあっという間だった。
テニスの話、先輩の話、クラスの話、担任の話。
それから、家族の話、小学校の時の話。
いつもしているのに輪をかけて、他愛のない話だった。
俺はそれほど話好きでもないけれど、英二は質問するのが上手なので、気がつくといろいろ話していた。
電車がトンネルの中に入って、スピードを緩めた。
渋谷の駅が近づいたのだ。
車体がプラットホームに滑り込む。
気がつくと、英二は、扉の前に立っていた。
一番前の車両は、改札口に一番近い。
「まさか、走る気?」
「走らないよ。早歩きぐらいはするけど。念のため…。」
「うん、じゃあ、少し急いで歩こうか。」
そう言っていたのに、扉が開くと、二人とも駆け出した。
「うそつき!歩こうって言ったのに!」
「そっちだって!早歩きって言ったろ!?」
改札を抜けて、階段を転げるように駆け降りた。
笑いながら走ったので、すぐに息が上がった。
見上げると、文化会館の屋上に、銀色のドームが鈍く光っていた。
空は厚い雲におおわれて、鉛色で。
「あ…。」
「なくなっちゃうんだな。もうすぐ。さみしい?」
「うん…。」
懐かしい子供時代の思い出と。
時代が移ることでそれが失われるという寂しさと。
二つがないまぜになり、鼻の奥がつんとなった。
☆☆☆☆☆☆
プラネタリウムは文化会館の8階にある。
1階のエレベーターホールは、すでにいつにない混雑状態だった。
「プラネタリウムの整理券をお求めの方は…」
アナウンスが途中でかき消された。
不慣れな係員が、人員整理に四苦八苦している。
何度も訪れた場所なので、どこに並べばいいのかは推測がついた。
「行列の最後尾は、何階あたりでしょう?」
係員に尋ねると、5階か6階あたりだと教えてくれた。
二人で階段を歩いて上った。
5階にたどり着くと、行列の終わりが見えた。
「プラネタリウムの整理券は…。」
最後まで言い切る前に、ここですよ、と答えをくれたのは、品の良いおじさんだった。
その間にも、俺達の後ろには人がどんどん並んでいく。
前を見ても、後ろを見ても、並んでいるのは大人ばかりだった。
そういえば、このことを父に教えてあげれば良かった、と思った。
なにしろ、むかし俺を連れてきてくれたのは、父なのだから。
だけど、今回は、自分たちだけで出かけることがうれしくて、そんなことは全く頭になかった。
俺は、いつだって、そうなのだ。
気がきかない、そういうところがある。
そんな反省をしていると、行列が動き出して、プラネタリウムのある8階まで一気に上った。
もう回数券がもらえるのかと思いきや、フロアの周りの廊下を、行列がぐるりと埋め尽くしていた。
人いきれで、廊下は暑かった。
気がつくと、英二の顔が赤くなっていた。
「上着、脱いだら。」
「ん…。」
ダウンジャケットを脱ぐのを手伝ってやると、ふわっと汗のにおいがした。
よく知っているはずの彼のにおいが、今日はなんだかまったく別のもののように感じられた。
まだ子供らしさのあるそのにおいは、妹のそれを思い出させた。
英二は、脱いだジャケットを腕に抱えて、廊下の展示物をしげしげと眺めていた。
「ひしゃくぼし、はごいたぼし、だって…。」
北斗七星と、すばるの和名を読み上げた。
彼は、兄姉が多いので、変に大人びているところがあった。
その一方で、ある方面にはまったく知識がなかったりと、とてもアンバランスだった。
彼の兄たちも父親も、天体に興味がなかったのだろう。
展示を見ながら、彼は次々に質問を投げてよこした。
俺では答えられない質問には、先ほどの、品の良いおじさんが答えてくれ、二人で感心して説明に聞き入った。
行列が大きく動いた。
回数券の配布が始まったのだ。
12時の回の整理券を4枚手に入れて、携帯電話で乾とタカさんに連絡をした。
いい席を取るためには30分前に並び始めた方がいいと聞いたので、その時間を目指して着くように告げた。
「あと1時間以上あるね。」
「喉乾いたろ?1階にフルーツパーラーがあるから、入って休もう。」
混雑したエレベーターに乗って、1階へたどり着いた。
古いエレベーターは、びっくりするほどスピードが遅かった。
1階のフルーツパーラーは、子供のころと様子がまったく変わっていなかった。
変化と言えば、壁紙の色が以前よりもくすんだ気がするくらいだ。
店内の照明はあいかわらず微妙に暗くて、椅子やテーブルも古くてお世辞にもお洒落とはいえない。
だけど、それとも、だから、なのか、妙に落ち着く。
それは、かつて通い慣れた空間だから、というだけではないのだろう。
「なんか、落ち着く店だねえ。」
英二が口を開いた。
「うん。気どりがないだろ。」
「そう。渋谷なのにな。」
なに食べると聞こうと思って、やめた。
彼は先ほどからずっと、フルーツパフェの写真を見ていた。
「それにするの?」
「高いから、違うのにする。」
価格を見ると、1500円だった。
この店はそもそも果物屋で、フルーツのメニューが売りなのだ。
そのパフェは、妹が何度か食べたことがあった。
父と妹の3人で連れ立って、プラネタリウムを訪れたこともあったのだ。
妹には、プラネタリウムよりも、上演後のパフェの方がはるかに魅力的だったろう。
父は妹には異常にあまくって、そんな高価なものもしょっちゅう食べさせていた。
そうして、母さんには内緒だぞ、と言うのだった。
俺も味見をしたことがあったが、フルーツが何種類も入っていて、とびきりおいしかった。
食べても食べても、クリームとフルーツばかりで、コーンフレークは一向に姿を見せない。
そんなところにも、驚かされた。
それを一口食べた妹は、満足げに微笑うのだ。
そして、父はそれを見て、妹の何倍も満足そうな顔をした。
「食べなよ。俺、母さんにお茶代もらってきたから。」
「いくら?」
「2000円。」
「大石は?なに食べるの?」
「コーヒー飲む。ちょうど、2000円だろ。」
「コーヒーだけ?ケーキとかは?」
「じゃ、ケーキセットにするよ。英二、300円出して。」
「ほんとに?いいの?」
「うん。それ、美味しいよ、ほんとに。食べたほうがいいよ。」
「へへ。ありがとー。」
お茶代をもらってきたというのは、まったくの嘘だった。
毎日、部活部活で、使う当てのないお年玉が手元にあったので、持ってきただけだった。
あのフルーツパフェを食べて、英二はきっと満足げに微笑うだろう。
このお金の使い方は、さほど間違ってはいないと思えた。
コーヒー、ケーキ、フルーツパフェ、の順で運ばれてきた。
フルーツパフェのガラスの器は、古めかしい銀の受け皿にのっていた。
スイカ、メロン、マンゴー、パイナップル、それから、赤い色のオレンジみたいな、グレープフルーツみたいな柑橘類が刺さっていた。
「すごい。どこから食べよう。」
英二が瞳をきらきらさせて、そう言った。
俺は、コーヒーを一口飲んだ。
それから、砂糖を1杯入れて、また飲んだ。
そうしながら、英二がメロンにフォークを刺して口へと運ぶのを眺めていた。
「すごい。味が…。」
「知ってるメロンの味と、違うだろ?」
「うん…。」
心なしか、瞳がうるんでいるような。
ほんとにおいしいものを食べると、人の顔はこうなるのか。
胸の真ん中が、あったかく、あったかくなるのを感じた。
誰かにおいしいものを食べさせると、こういう気持ちになるのか。
俺は頭の隅で、そんなことを考えていた。
「クリームも、おいしい…。」
「うん。」
パフェの中には、刺さっていたもののほかに、何種類もの果物が入っていた。
英二は実況中継のように、入っていたものの名前を言って聞かせてくれた。
イチゴ、ブラックベリー、ラズベリー、キウイ、イチゴ、スターフルーツ、リンゴ、なし…。
「おーいし!コーンフレークが、はいってないよ!」
「うん。」
携帯電話が鳴って、着信を知らせた。
乾だった。
フルーツパーラーの前まで来るように告げ、電話を切った。
「おいしかった…。」
英二は、夢みるように宙に目をやっていた。
「行こうか。」
「うん。」
そして、財布を開くと100円玉を3枚取り出した。
「ごちそーさまでした。おばさんにも、お礼言っといてね。」
「うん。言っとくよ。」
☆☆☆☆☆☆
乾とタカさんと合流すると、俺達はまた階段を上って行列に並んだ。
英二ははしゃいでいたけれども、それでも彼は二人の方が好きなのだと思うと、なんだか気分がよかった。
別に、俺といるのが好きだと言われたわけではないのだが、それでもなんとなく、いい気分だったのだ。
解説台のすぐ近くに、席を取ることができた。
この場所が、一番見やすいのだ。
上演が始まる前も、会場内は熱気に満ちていた。
閉館直前ということで特別に、機材の撮影が許された。
旧西ドイツ製の、巨大な黒い歯車式の投影機の周りにフラッシュが光った。
乾もしっかりカメラを持ってきていた。
「44年間。」
「え?」
「この機械が働いた年数。人が定年を迎えるようなものだな。」
乾が言った。
俺達は、なるほどと納得してうなずいた。
投影機は、2つのボールを棒でつないだような形をしている。
子供のころは、真っ黒いアリみたいだ、と思っていた。
そのボール状の部分に電球が入っていて、その光で星が投影されるのだ。
ドームの内側は、地球から見た天のかたちを再現している。
つまり、天動説に基づいた、みかけの動きをつくり出すための装置なのだ。
太陽が沈んでいくシーンから、投影は始まった。
格調高いクラシック音楽がかかり、西の空に美しい夕焼け空が広がる。
それとともに日は沈み、やがて星空に変わる。
まずは、「今日の星空」のコーナーだ。
惑星は、教育的配慮により、実際より少し大きく見え、木星には縞模様が、土星にも輪が見える。
全天の星座絵と星座名が星空全体に重なると、まさに壮観だった。
乾によれば、星の数は約8900個。
実際の空を肉眼で見るよりも、ずっと暗い星まで投影できる。
解説は、ごくごく丁寧で、ユーモアも忘れない。
昔は、子供がたくさん見に来ていて、中には「僕知ってる!」などと出しゃばる者もいた。
解説員はそういう子供の扱いも手慣れたもので、「じゃあ、××はどれかな、わかる?」などと上手に引き込んでしまうのだった。
そうしたやりとりが、昨日のことのように思い出された。
次は、月替わりの特集、「彗星をみつける」というテーマだった。
彗星のイメージは、火のかたまり、といったところだろう。
だが、実際はその反対だ。
地球の生命の源である水、それを地球にもたらしたものは、彗星だと考えられている。
彗星の核の成分は、八割が水で構成されているのだ。
太陽から遠いところでは、低温のために、核は全て凍りついている。
地球上から見ても、恒星状の天体にしか見えない。
彗星が太陽に近づいていくと、熱によってその表面が蒸発しはじめる。
その蒸発したガスや塵が、彗星の「尾」と言われている部分の正体だ。
1608年に望遠鏡が発明され、18世紀末ごろからは、いくつもの彗星を発見したアマチュア天文家が多く現れた。
20世紀最末期、電子機器の発達により自動探査プロジェクトが技術的に可能になるまで、彗星の新発見は、こうしたアマチュア天文家に依存していた。
コメットハンター、彗星捜索家と呼ばれる者たちだ。
職業的な研究者は、業績評価や競争にさらされており、成果が確実でない彗星探索に時間を割くことはできなかった。
しかし、他に生計の途を持つアマチュア天文家ならば、毎晩のように空を隈なく探索できた、というわけだ。
そうしてみると、彗星探索家というのは、実にロマンに満ちている。
自分が、この21世紀ではなく、前世紀に生きていたら、きっと彗星捜索家になっていただろうと思った。
毎夜毎晩、寝る間も惜しんで望遠鏡を覗いて。
昼間は、夜の至福のひとときのために働いて。
そんな想像をした。
解説が終わると、いつのまにか東の空が薄く明けてきて、その空に流れ星が飛んでいた。
「うつくしい朝焼けじゃありませんか…!」
あたたかさと情熱にあふれた解説員の声に、観客の笑いがこぼれる。
鮮やかな朝焼けの中、東京タワーの横から太陽が顔を出し、投影が終了した。
だれからともなく大きな拍手が沸き起こった。
「終わっちゃったな…。」
「うん。最初で最後になっちゃった。もっと来たかった…。」
英二は名残惜しそうに、上映の終わった白いスクリーンから目を離さなかった。
そこに残像の星々を見るかのように。
★★★★★★
「へえ。俺、そんなこと言ったっけ。」
「なんだ。覚えてないの。口からでまかせ?」
「ちがうよ。二人の方が好きなのはほんと。でも、その時そんな話したんだなと思って。」
英二は、髪の毛をタオルでふきながら、俺の隣にしゃがみこんだ。
「ふふ。ファーストデートみたいだったよねえ。」
「うん。今考えるとな。」
「ねえ、パフェおごってくれたのって、下心?」
「そんなんじゃないよ。」
「でも、気はあったろ?」
「うん、それはたぶん。あったんだろうな。」
二人とも子供すぎて、自分の気持ちにも気づいていなかったけど。
「プラネタリウム、また渋谷にできるんだって。」
「うそ…。」
「ほんと。再来年だってよ。」
「へえー…。」
あんまり感慨深すぎて、それ以上、口もきけなかった。
だから、英二のからだを抱き寄せて、濡れた髪に触れた。
引き戸の陰から猫が覗いていて、目があった。
妬いている。
二人になったら、ちゃんと可愛がってやるから。
そう念じると、猫はキッチンの方へと姿を消した。
「また、行こうね。」
「うん。行こう、必ず。」
再来年ということは、あのファーストデートからちょうど10年。
英二は今も、ちゃんと、となりにいてくれる。
きっと、再来年も。
彗星探索家には、なれなくても。
俺は、自分に必要な人を、ただひとり、探し出した。
地球上に、65億人だか、66億人だか、いるという人間の中から。
こういう人生だって、なかなかにロマンがある。
そう思って、恋人の濡れた髪にくちづけた。
end
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