不二周助は、菊丸英二が苦手だった。
といっても、嫌い、というほどではない。
それに、これは中学一年の5月頃までのことだった。
はっきり言って、その頃の英二には粗暴と言ってもいいところがあった。
中学1年生の男子としては、ごく普通の振る舞いなのかもしれなかった。
しかし、思慮や配慮に欠けるその年頃の少年たちの行動が、不二にはひどく野蛮で幼いものに感じられたのだ。
クラスも同じ、部活も同じ。
人なつっこい性格の英二は、不二にまとわりついてきた。
「ねえねえ、手塚ってどんな奴?」
教室移動の時も、しかりである。
英二は不二の後をくっついて来る。
少し後ろを歩いていた英二を振り返ると、瞳に「不信感」という文字が浮かんでいた。
同級生のこうした話しぶりには、不二はすでに慣れっこになっていた。
あの仏頂面で取っつきにくい手塚本人よりはと、旧知の不二に問いが投げかけられる。
旧知といっても、親しくなったのは青春学園に入学してからの話なのだが。
「・・・見ての通りの人間だよ」
不二は、そう答えることにしていた。
人の印象というものは、受ける人によって全く異なるものだ、と不二は幼いながらになんとなく感じていたからだ。
であるからして、単に説明するのが面倒くさい、ということも多分にあった。
「・・・やっぱり、そうなんだ」
英二は、我が意を得たりといった表情になった。
たいていが、こういう反応だった。
不二に意見を聞きに来たところで、結局は自説の裏打ちが欲しいだけなのだ。
「俺、あいつ嫌い」
英二はそれだけつぶやいて、黙った。
そのことは、不二も感じ取っていた。
英二は、考えがすべて顔に出るタイプの人間だ。
子供じみた感情の発露に不二は少々あきれたが、嫌な気持ちにはならなかった。
自分に嫌いな人間がいたとしても、こんな風にためらいなく「嫌い」と断言ができるだろうか。
不二は我が身を振り返った。
そもそも不二には、嫌いな人間がいなかった。
そのかわり、身内以外に好きな人間も少なかった。
そういう意味では、不二は英二とは対照的な性格だった。
英二といると、時折、このように感じることがあった。
対照的だということは、我が身を映し出す鏡のような存在だということだ。
「・・・不二は好き」
付け加えるような一言に顔を上げると、屈託のない笑顔があった。
「君って面白い・・・」
不二は気がついたら笑っていた。
英二は心外というような顔をした。
「不二のほうがずっと面白いしー」
「・・・アハハハハ」
「変な不二・・・。あ!遅刻になっちゃうよ」
英二は不二の手を取って駆けだした。
不二は英二に手を引かれて、笑い転げながら廊下を駆けた。
青春学園での生活が面白いものになりそうだと、この時不二は感じたのだった。
一学期の中間テスト直前の週だった。
テスト一週間前から、部活動が全面禁止になる。
不二は、英二と連れ立って帰宅の途についた。
話の内容は、ほぼ部活のことだった。
あとは、教師やクラスメイトの噂など、いずれも他愛もない話だった。
「不二!こっちこっち!」
遥か後ろの方から英二の声がする。
振り返ると、電信柱の陰から英二が顔を出して、不二の方に向かって手招きをしていた。
「こっちから帰ろうよ」
英二は、進行方向とは反対の道を指している。
「近道、・・・じゃないよね?」
不二は苦笑しつつも、英二の後を追った。
「残念!近道じゃないけど、いいところ!」
「良いところか・・・」
この頃には不二は、英二の突飛な思いつきや行動には慣れつつあった。
慣れてみれば、付き合うのも苦というほどのものでもない。
「楽しみだな」
「うん。すごくいいところだから」
住宅街を抜ける細い道は、通学の最短経路から大幅に外れるため、不二はこれまで辿ったことがなかった。
角を何度も曲がったが、わずかに傾斜した土地故に、すでにどの方角へ向かっているのかわからなくなっていた。
これは自力で戻ることはできないぞ、と不二は少々後悔した。
しばらく行くと、風に乗って何かの香りが漂ってくるのを感じた。
香りは次第に近づいてくるようだ。
微かな香りが、次第に輪郭を持ってくるのがわかる。
甘いくせに、どこか爽やかさもある。
これは花の香りだろうか。
もしかして、英二はこの香りを辿っているのだろうか。
この香りの源へと、自分を案内しているのだろうか。
「英二、この香り・・・」
「うん。もう少し。あの角を曲がると・・・」
言うが早いか、英二は駆けだした。
不二も、英二について駆けた。
マンションの角を曲がる。
途端に、ふわりと芳香が広がった。
果たしてそこには、緑色の建物があった。
四面を蔦に覆われた、少々古めかしいビルである。
煉瓦造りのそのビルは、上方から下へ下へと蔦を生やしている。
ビルを覆う緑色の一部が、白茶けている。
よくよく目を凝らして見れば、それは小さな花々であった。
小さな花がぎちぎちと寄り集まって、白茶けた葉のように見えたのである。
「あれ」
英二はビルの方向を指した。
そして再び駆けだして行く。
ビルの手前には月極の駐車場があり、英二はかまわずそれを横切ってビルへと近付いて行った。
少し遅れて不二が続く。
芳わしい香り漂う空間を、不二は夢見るように歩いた。
ビルの下まで来ると、英二は小さな花に顔を近付けて思い切り息を吸い込んだ。
不二もその隣に立ち、花の香りを嗅いだ。
「かわいい花だね」
遠くから見れば白茶けた味気ない花も、近付けば小さな花ならではの可愛らしさを存分に見せた。
また、香りは姿に似合わず、華やかさと上品さを相備えている。
不二は、この香りに懐かしさを感じた。
どこかで嗅いだことがある。
記憶を辿ろうとした。
「な?いいところだろ?」
「うん・・・。英二、この花、なんて言う名前?」
「名前?なんだろう?」
俺も知らないよ、英二はそう言うと、再びうっとりと瞼を閉じて花の香りを嗅ぐ。
「毎年この時期になると咲くんだけど・・・」
絆創膏を貼った鼻の先が、ひくんと動いた。
細くて長い睫毛の陰が深く下りている。
その下に、無数のそばかすが踊っていた。
粗暴とか野蛮とか、どこの誰が言ったのだろう。
英二は、名も知らぬ香りのいい花を愛でるような、そうした感受性を持つ少年だった。
不二は、英二に対する評価を改めた。
それとともに、自分の、他人を見る目の浅はかさを恥じた。
「俺、この花、大好きなんだ」
・・・好きとか嫌いとか、大好きだとか大嫌いだとか。
それらはしばしば口にするが、いいとか悪いとかいう評価はしない。
自分もこんな風に感じられたら。
感じられたら、自由だろうか。
たとえば、あのぶっきらぼうな少年を、好きとか嫌いとか、大好きだとか大嫌いだとか。
そう、思ってみたらどうなるだろうか・・・。
ふっと、不二の頭に閃くものがあった。
「この花、ジャスミンだ・・・」
「ジャスミン?」
「うん。ジャスミンティーの香りだもの・・・」
そこまで言って、しまったと感じた。
不二は少し年の離れた姉と、姉妹のような楽しみを共有していた。
友人たちに隠していたのは、少女じみた趣味と揶揄されるのを危ぶんでいたからだ。
「ジャスミンティー!?この花のお茶があるの?」
「う、うん。この花の香りをつけているお茶があって・・・姉さんが煎れてくれるんだ」
「そのお茶、不二の家にあるんだ?」
「あ、ああ。たぶん・・・」
たぶんどころか、あるのは間違いなかった。
何しろ、姉が台湾の茶問屋から茉莉花茶を取り寄せて二人で賞味し合ったのは、つい先週のことだったのだから。
「いいなあ!飲んでみたい!今から不二の家に行ってもいい?」
「い、いいよ・・・」
英二が無邪気に顔を輝かせる横で、不二はほっと胸をなで下ろした。
☆☆☆☆☆
雪がしんしんと降っていた。
この降り方が一晩続けば、明日の朝には積もっているかもしれない。
不二は、沸かしたての湯を紅茶用のポットに注いだ。
ふわりと、ジャスミンの花の香りが浮かび上がり、部屋中に広がった。
窓の外は真冬でも、部屋の中には春が訪れたようである。
不二は今月の誕生日を迎えると、いよいよアラサーの仲間入りをすることになっていた。
といっても、いまだ美大に居座っているためか、どこか浮き世離れした雰囲気は相変わらずである。
不二が自慢の茉莉花茶を振る舞う客は、こちらすでにアラサーの英二である。
英二は、来月に引っ越しを控え、青春台を離れることになった。
そういうわけで、名残惜しい思いで不二の家を訪れているのである。
英二はカップを手に取ると、口元まで運び、まず香りを味わった。
その後、口に含み、再び香りを味わいつつ、液体を飲み込む。
「ふわー、いい香り。上物ですね、ご主人」
「ふふ。わかる?」
ふざけた口調の英二に、答える不二の口元が思わず緩む。
茉莉花茶は、ものにより品質の良し悪しが極端に分かれる。
そのため、わざわざ台湾まで買い付けに出向いた品である。
誉められて嬉しくないはずがない。
茶道楽という言葉があるが、不二の場合もまさにそれだろう。
姉という強力なスポンサーがいるために、ことお茶に関しては資金面で困ったことはない。
金と手間をかけた趣味である故に、ビジネスに発展させてはどうかという助言も数々受けた。
しかし、ここがこの姉弟らしいところで、あくまで趣味として楽しみたいというのである。
「それにしても、よく親御さんがお許しになったね」
不二は、電話やメールでは切り出しにくかった話題を口にした。
英二の引っ越しというのは、大石と二人で住み始めるということである。
大人数の兄弟の末っ子というものは、放任されているか過干渉を受けているかのどちらかだと感じる不二である。
英二の場合は、その危なっかしい性格から、どう考えても後者なのだった。
「そりゃあね・・・」
どこか余裕ありげな表情で、伏せた睫毛は、かつてと同様に濃い影を落としている。
しかし、その下に踊っていた幼いそばかすは、すっかり消え去っていた。
常に絆創膏が貼られていた鼻梁もすっと立ち上がり、目前の面差しは静謐ささえ備えている。
英二は、今やかつての面影をささやかに残すばかりの大人の男である。
「・・・だけど、昨日今日の思いつきじゃないんだから」
「思いつき」とは、大石と一緒に暮らしたいという希望のことだろう。
確かに、二人の仲は昨日今日の始まりではないことは、不二も知っている。
といっても、中学時代であったのか、それとも高校生になっていたのか、二人の始まりまで正確には記憶してはいなかった。
そのころは、不二自身も人並みに初めての恋に身をやつしていたので、他人の恋愛どころではなかったのだ。
「・・・念願かなって、ということだね」
不二は微笑みをたたえた口元を、茉莉花茶の入ったカップに近付けた。
不二にも、想っている人間の一人くらいいたが、共に人生を歩むという選択については、結論を先送りしていた。
そもそも自分は、英二のように素直に率直に、人生というものを捉えてはいないのかもしれない、と不二は感じた。
「念願ね・・・」
ふふふと、英二は彼らしからぬ含み笑いを口元に浮かべる。
「・・・ただ願っていたばかりじゃないからさ」
「・・・?」
不二は無言で問いを投げかける。
「俺さ、大石とつきあい始めてから、うちで毎日言ってたの、『いつか大石と住むから』って」
「毎日?」
「そう、毎日。そうしたら、なんつーの?慣れたっていうか、当たり前になっちゃったみたい。最近なんか『いつ引っ越すの?』なんて、言ってたんだから」
英二の家族からすれば、最近はいざ知らず、遡って英二がまだ幼いと言える時分にはさぞかし気を揉んだことだろう。
不二は、彼の家族に少々同情せざるを得なかった。
それと同時に、英二の、思いこんだら命賭けという性分にも感嘆した。
「・・・すごいな、英二は。僕にはとても真似できない」
偽らざる気持ちが、口を突いて出た。
英二という人間は、人生にというより、愛するということについて、誰より真摯なのかもしれない。
不二は、自分はそこまで真剣にはなれない、と思った。
人生を賭ける気にはなれないのだ。
たとえ、愛していようとも。
「・・・不二は、優しいからね」
「・・・僕が、優しいだって・・・?」
実の所、それは不二にとって、よく他人から言われる言葉だった。
しかし、それは自身の本質から大きく外れていると感じていたし、英二の口から聞いたのも初めてだった。
「捨てられないものがあるんだろう。俺はエゴイストだもの」
「エゴイスト、か。君に一番ふさわしくない言葉だと僕は感じるけどな」
エゴイストと言うならば、それはむしろ自分のことだろう。
捨てられないものとは、「自分自身」のことだと、不二は思った。
子供の頃から、人の好き嫌いが意識されなかったのは、何よりも「自分自身」が大切だからだ、と。
「・・・お互いに、相手のことがよくわかってなかったってことだね」
英二は、あははと愉快そうに笑い、カップの中の茶を飲み干した。
それを見て、不二は熱い湯を取りに席を立つ。
「・・・俺はさ、居心地のいい場所を明け渡したくなかったんだ」
英二は、両手に収めてた空っぽのカップの中を見つめている。
居心地のいい場所とは、むろん、大石の隣ということだろう。
「ふふふ。本当に、君はネコみたいだね」
そう言いながら、不二は、欧州の空の下に居る男のことを思い出していた。
自分もネコに違いない。
居心地のいい場所を求めている、こんなにも。
「・・・あ!忘れてた」
「何?」
「手塚が大変なことになっているんだった」
「大変なことになってるのに、忘れてたの?」
英二が吹き出しつつ、尋ねる。
手塚は、欧州にプレイヤーとしての拠点を置いていた。
今回、帰国の途についたが、トランジットの際に寒波に見舞われ、空港に閉じこめられたのだと不二は説明した。
「ええ、かわいそ〜」
「そうなんだけど、当の本人はあんまりこたえていないみたい・・・」
不二は、手塚からもらったメールの文面を思いだしながら、ティーポットを傾ける。
空港というところは、たとえ雪に閉じこめられようと、ネット環境だけは抜群である。
手塚は空港で様々な国籍、境遇の人々と知り合い、交流していた。
手塚のファンだという、退役軍人のアメリカ人。
日本狂いだが、手塚のことは全く知らない香港出身の青年。
手塚と、飼っているネコの種類が同じだという、某国王族の老婦人。
その様は、数十分おきに不二の元に報告された。
「不二は、手塚のことを考えてるとき、ほんとに嬉しそうな顔をするよね」
「・・・えっ?僕?」
不二としては全くの心外である。
手塚ほどのポーカーフェイスではないにしても、中学時代は本心が読めないとよく言われたものである。
テニスプレイヤーとしては、誉め言葉だと受け取っていたし、自身でもそのことについては少なからず自負があったのだ。
「・・・え、英二の影響かなあ?」
「何言ってるのさ」
英二は、鳩が豆鉄砲食らったような顔になった。
もっとも、この彼はたいしたことでなくとも、よくそんな顔をする。
「ずーっと昔からそうだよ。手塚のこと、よっぽど好きなんだな〜って感心してたんだから」
「す、好きって、そんな、僕は・・・。む、昔から?ず、ずーっと・・・!?」
不二は柄にもなく狼狽し、ティーポットを意味なく上げたり下ろしたりした。
「不二って、意外と顔に出るんだよねー。好き嫌いがさぁ」
その一言がだめ押しで、不二はティーポットをがつんとテーブルに落としそうになり、慌てて我に返った。
このティーポットも安い品ではない、そして姉のお気に入りである。
壊したらどうなることか。
まさかそんなことを、よりにもよって英二から指摘されるとは。
これこそまさに、青天の霹靂というものである。
「・・・自分のことって、案外わからないものだよね」
目の前の英二は屈託なく微笑むと、すました顔で茶の注がれたカップを口元に運んだ。
「・・・だから、『人は一人じゃだめなんだ』って」
「・・・え?」
「一人前のようでも、人が一人だけで生きていくってのは、いろいろと危なっかしいってこと。・・・じいちゃんの受け売りだけどね」
不二は、ティーポットを静かにテーブルの上に置いた。
英二の言うとおりだ。
他人のことどころか、自分のことすら、何もわかっていなかった。
自分を巡るさまざまなものを、失くしたくなかった。
たとえば、我が身一つで、欧州へ旅立つことなどとても考えられなかった。
けれど、そうして何かを守ることで、かえって他の何かを失くしたり、見落としたりしていたのかもしれない。
「ふう・・・」
不二はため息を大きく一つついて、カップの中の茶を飲み干した。
茶はすっかり冷めてしまっていたが、興奮した喉にはひんやりと心地よかった。
「・・・ほんとに、英二にはかなわないな」
不二が浮かべた微笑みを、英二は満足そうに見遣った。
「今度は俺が煎れるね」
英二はキッチンへと立ち、薬缶に火をかけた。
不二は空のカップを両手に抱えて、顎に押し当てた。
手塚が帰国するまでには、数日の猶予が与えられている。
これは、何か見えないものによる計らいだろうか。
先送りにしていた結論について、考えてみよということではないか。
ともかくも。
手塚が戻ったら、まずこの茉莉花茶を煎れてやろう。
そう思い、カップをテーブルの上に戻した。
「今、誰のこと考えてたか、当ててやろうか?」
英二がキッチンから顔を出して、いたずらっぽく笑う。
不二はそれに微笑みで応じると、窓辺に歩み寄った。
窓の外を窺うと、雪はすっかりやんでいた。
夕焼けのオレンジ色が、白い地面に照り返っていた。
「ジャスミン」end
大石が出てこない話を最後まで読んでいただき感謝感激です(汗)
我ながらシマらない話になってしまって大変恐縮…
でも書きたかったの、お許しください…