It's untalkaboutable...
黒くひからびた物体が、転がっていた。
繭だった。
うまく紡ぐことができなかった繭だった。
きっと、美しい糸を紡ぐことができたはずなのに。
今この時を逃してはならないのだと、わかっていても。
不器用なこの手は、その機会をのがしてしまうのだ…。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
8月の初め、俺は、夏の後半を日本で過ごすことに決めた。
本当ならば、今頃は、地中海の小島で、バカンスを楽しんでいるはずだった。
予定というものは、いつどうなるか、わからないものだ。
特に、そこに、人の感情が絡んでいるときは、予想もつかない展開をする。
帰国して、まず連絡を入れた相手は、大石だった。
六本木にある、老舗のイタリア料理店へ予約を入れて、彼を呼び出した。
ここの二代目オーナーは青学出身で、父の親友だった。
そういうわけで、子供の頃から馴染みがあり、東京で落ち着いて食事を楽しめる店の一つとして、大切にしていた。
早めに到着し、苦いアペリティーヴォをリクエストした。
「お疲れですか?日本の夏は過ごしにくいでしょう?」
顔なじみのスタッフが心配してくれた。
苦い食前酒は、食欲増進に効果がある。
それもあったが、単に、思い切り苦いのが飲みたい気分でもあったのだ。
待ち合わせ時間のちょうど5分前に、彼は現れた。
「久しぶり。」
「元気だったか。」
彼と会うのは、3年ぶりだった。
表情の穏やかさが一層増したように思われた。
「ここ、有名だろ?英二が、羨ましがっちゃって、大変だったんだ。」
「妬いていただろう?」
彼はぽかんとして、尋ねた。
「英二が?手塚に?なんで?」
1、2年の頃、菊丸は、俺を怖がっている一方で、時々気まぐれのように、俺を睨んだり無視したりしていた。
俺はそういうことには人一倍疎かったので、当時は、彼の行動の理由がわからなかった。
今となって見れば、簡単なことだ。
菊丸は、嫉妬していたのだ。
大石の親友である俺に。
本人にも自覚がない、幼い恋心の芽生えだったのではないか。
そう、俺は思っていた。
それを説明すると、大石は、なんとも言えないやわらかな顔になって、目を伏せた。
「中等部のときに?知らなかったな…。」
10年以上前の話だ。
そんな表情をされたら、こっちが戸惑ってしまう。
「菊丸は、元気か。」
「ああ、相変わらずだよ。」
俺は、向かい合った彼の、左手の薬指を、見るともなしに見遣った。
3年前に会った時、すでに左手には指輪があった。
それについて尋ねると、将来を約束したのだと、答えをくれた。
彼の眼差しは、どこまでも、真摯だった。
「一緒に生活してみて、どうだ?」
二人で部屋を借りたと、彼はメールで報告をくれていた。
「すごく、大変。」
そう言いながら、彼の表情は幸せそうとしか、言いようがなかった。
どっちなんだ。
たぶん、どちらも、本当なのだろう。
「二つの家のルールを一つにしていかないと、ならないだろ。毎日が討論会だったよ。なにもかもを二人で共有するってのは、大変なことだな。」
なるほど。
そういうものか。
未知の世界のことなので、想像でしかないが、そういうものなのだろう。
俺は、納得して、頷いた。
「お前の方こそ、どうなんだ。気になる人がいるって、前に言っていただろう?」
「うちに泊まっていたんだが、先週、出ていってしまった。」
「…どこへ?」
「さぁ。荷物は置き去りで、旅券だけなかった。」
「…さぁ、ってお前…。」
大石は、呆れた顔で俺をまじまじと見た。
「…恋人が逃げる時は、追い掛けて欲しいって、サインだよ。」
…そうなのか。
一人になりたいのかと思っていた。
向こうだっていい大人だ。
なんだって、そんな理不尽な行動をするのだ。
追い掛けて欲しいなら、追い掛けて来いと、はっきり言えばいいものを…。
「たぶん、何かヒントを残しているだろう。探してみろよ。…1週間もほったらかしか…。」
彼は、自分のことのように、溜息をついた。
「大石、恋愛というのは、疲れるものだな。」
俺がしみじみと言うと、彼は頷いて、少し笑って、こう言った。
「二人でこんな話をする日が来るなんてな。俺たち、奥手もいいとこだったのに。」
そうだった。
俺は恋というものをほんとうには知らないまま、青学での6年間を過ごした。
高等部を卒業して、アメリカ、ロシア、そしてスペインへと生活拠点を移してからも、大石との交友は続いた。
メールでのやりとりの中、彼は、菊丸への誰にも言えない想いを、綴ってくるようになった。
親友とはいえ、そうした秘めた想いを打ち明けてくれたのは、俺が日本を遠く離れていたという気安さもあったのだろう。
遠慮がちでひたむきなその文面から、大石は片思いをしているのだと、俺は勘違いをしていた。
相手から告白されて、すでに恋人同士になっていたのだとわかったのは、それから数カ月のちのことだった。
恋というものは、そういう想いか、と思ったのだ。
自分が恋だと思っていたものは、もしかしたら、恋ではなかったのではないか、と。
それから何年かが経ち、旧知の友人と再会した。
故郷を遠く離れた地で、異邦人同士、心が通い合った。
もしかしたら、初恋なのかもしれない。
そう書いて、大石にメールを送ったのだった。
「俺達だって、恋愛中にいろいろあったよ。」
…二人は今も、恋愛中だと思っていたのだが。
一緒に生活し始めたことで、彼らの中では一区切りついているのだろう。
「一番こたえたのは、あれだな。浮気。」
「…誰が?」
「だから、英二がさ。」
話の流れからして、菊丸以外に主語になる人間はいないのだが、なんとなく、信じられなかったのだ。
俺を睨みつけた瞳は、大石は自分のものだと、激しく主張していた。
その激しさと一途さでもって、彼は大石を振り向かせたのだと、俺は想像していたから。
「ぜんぶ、俺が悪かったんだ。」
いくらなんでも、そこまでへりくだることはあるまい。
そう思ったが、口を挟まずに、彼の言葉の続きを待った。
「俺は、手を抜いていたんだ。あいつが与えてくれるものに満足して、その上に、あぐらをかいていた。言うべきことを、自分の気持ちを、ちゃんと伝えてやらなかった。あいつが渇いていることにも、気付いてやれなかった。」
…俺も、同じだ。
いつも与えてもらうばかりで。
俺は、恋人に与えてやることができていただろうか。
果たして。
「いくら愛してたって、それが相手に伝わってなければ、愛してないのと同じことなんだよ。」
彼の言葉は、ずしりと重く、俺の心に響いた。
「…やっと、見つけた人じゃないか。簡単に手放しちゃ、だめだ。」
「そうだな。努力してみる。」
とりあえず、行く先を、探さなければならない。
そう思って、腕時計を見ると、間もなく11時になろうとしていた。
他人の家に電話を入れるには、常識はずれの時間だが、緊急事態と称して、執事に連絡してみるか。
そう思っていると、ドルチェが運ばれてきた。
店員の後ろから、オーナーが歩いてきて、近況を尋ねられ、世間話を少しした。
でも、俺はすっかり上の空だった。
大石はというと、菊丸にねだられたという、持ち帰り用のジェラートを注文していた。
「季節のジェラートって、こんなに種類があるんですか!?」
そういうと、彼は、慌てて携帯電話を取り出した。
相手が出ると、律義にも全種類を読み上げ始めた。
大石が買って帰りさえすれば、菊丸は、どの味だって満足なのに違いない。
だけど、これが、彼らがうまくいっている秘訣なのだと、俺でもわかった。
一方は、ささいな機会を捕まえて、わがままを言う。
それも、実現不可能なものは、決して要求しないのだ。
そして、もう一方は、相手がただ甘えたいだけなのだとわかっていながら、要求以上のものを返してやろうとする。
まぁ、一朝一夕にはできまい。
大石が言った通り、彼は、やっと見つけた、俺にとって唯一無二の人だ。
逃げ出したらまた、捕まえればいい。
時間をかけて、俺達なりの関係を築いていけば、いい。
何度だって、やり直してみせる。
それくらい、愛している。
だけど、問題は、それをうまく伝えることができていない、ということなのだ。
焦ることはない。
向こうだって、俺を好きなのは事実だ。
唯一無二とまでは思っていまいが。
伝わらなければ、伝わるまで、何度でも伝えてみよう。
不器用な俺には、それしか方法がないのだから。
「ここで、別れよう。今すぐ、心当たりを探してみろよ。」
店を出ると、大石は言った。
「ありがとう。そうさせてもらう。」
大石は、地下鉄の駅を目指して、雑踏の中へ消えた。
俺は、携帯電話を取り出して、恋人の実家に電話をかけた。
彼の携帯電話は、俺の部屋に置き去りのままだった。
3回コールしたところで、本人が出たので、驚いた。
うちで、おとなしくしていたのか。
よかった。
そう言うと、あらんかぎりの憎まれ口、古今東西の罵詈雑言が、受話器から溢れた。
今から行くから、待っていろ。
俺の言葉を聞いて、彼は絶句した。
国際電話だと思っていたのかもしれない。
黙った隙に、俺は電話を切った。
タクシーを拾うために、大通りへと、駆け出した。
いい歳をした男が、真夏の夜の六本木を全速力で走っている。
なにか事件かと、擦れ違う人が皆、振り返った。
空車を見つけて、滑り込み、行き先を告げた。
シートに背中を預けると、滲んだ汗でシャツが背中に張り付いた。
…何がいけなかったのか。
何が足りなかったのか。
彼はどうして欲しかったのか。
何と言って欲しかったのか。
だけど、それよりも。
俺は彼に何と言いたいのか。
何をしてやりたいのか。
相手が、どうこうじゃない。
俺が、自分の気持ちを掴みかねて、表すことができずにいたのだ。
答えは簡単なのに。
ただ一つなのに。
彼のうちに着いたら、彼に会ったら、まず、抱きしめよう。
そして、言おう。
どんなに時が経とうと、お前だけが、俺の唯一無二の恋人だと。
未来永劫、お前だけを、愛していると・・・。
end