秘密なんて、ない。
あったとしても、話さないでは、いられない。
秘密って、話したくてしかたがない、そういうものだろう。
そう思ってたし、ほんとうに、そうだったのだ。
たぶん、ほんのちょっと前までは。
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正月休みほど、長く感じられる時間も、そうない。
他の強豪校はおおむね三が日を休むだけだろうが、青学テニス部は例年、正月明けは新学期が始まるまでしっかり休む。
かつておぼっちゃん学校だったころの名残だろうか。
がつがつしていない、それはそれでいいことなのだが。
俺はというと、今年も休みを心から満喫していたのはせいぜい1月2日までで、3日の昼ごろにはすっかり休みに倦んできていた。
下の姉に、ちょっと付き合ってよと声をかけられて出かけたのは、まさに3日の昼過ぎだった。
行き先は、新宿にあるスポーツ用品専門の量販店。
高校生の姉は少し大人びたところがあって、どうやら大学生と付き合っているらしかった。
らしかった、というのはほかの兄弟のように、恋人を家に連れてきたことがなかったから、この目で確かめたことがなかったのだ。
「こんど、山に登るのよ」
姉の口からその言葉を聞いて、俺は思わず吹き出した。
「山登り」というものが、姉のキャラクターにあまりに合っていなかったから。
おそらくは、いや、まちがいなく、それは彼氏の趣味なのだろう。
無理してまで合わせている姉が、弟の目からもかわいく思えた。
つまり、彼女はトレッキング用品を買いたいのだった。
青春台のスポーツ用品店には、お洒落な姉の眼鏡に適う商品がなかったというわけだ。
正月休みの店内は予想通りの人出だった。
昨今は登山ブームというわけで、目的のフロアも人でごったがえしていた。
姉の買い物は時間がかかる。
あーでもない、こーでもないとやっているのだが、横で話し相手をしていると、途中で目的が逸れていく。
これでは余計に時間がかかるばかりだし、姉が一人でじっくり選んだ方がいいんじゃないかと思い始めた。
「ある程度ピックアップしておいてよ。それから相談に乗るからさ」
そう言い置いて、俺はテニス用品のフロアへ移動した。
テニス用品の売り場は、オフシーズンとあり混みようはまだだいぶまし、という感じだった。
ほっとして店内を見回し、シューズのコーナーへと歩みを進めた。
今日は、少ないながらも一応お年玉が手つかずであったから、値段の高い方から順番にゆっくり眺めた。
そこそこの人出なので、店員も纏わりつかず気楽だった。
いくつも試し履きして、履いて歩いてみたり、跳ねてみたり、鏡に映して眺めてみたりした。
結局、気に入ったデザインは自分のサイズが品切れで、他店舗から取り寄せしてもらうことにした。
カウンターで連絡先を書いて、携帯電話を開いて時計を確認してみれば、30分ほど経過していた。
そろそろ姉のところへ戻ろう、そう思って階段を下り始めた。
「ちょっと、君」
階段を2、3段下りたところで、後ろから声をかけられ振り向いた。
店の雰囲気にに不似合いな、スーツ姿の男がいた。
「こういう者だけど」
そう言って、男は名刺を差し出した。
受け取って眺めれば、社名は『ミント企画』、肩書きは『企画・採用』と書かれていた。
父の会社の名刺に比べると、ずいぶんちゃちな紙のように思えた。
それに、ふざけた名前、そう思って男の方を見上げた。
顔は日焼けしているが、それはスポーツに熱中したからというよりも、人工的な雰囲気がした。
ネクタイはしておらず、2つボタンを開けた胸からは、香水の香りが漂ってきそうな、平たく言えば水商売の匂い。
脇に抱えたウールのコートと鞄はブランド物のようだった。
男は、外見とは裏腹な穏やかな口調で話し始めた。
「AVとか、興味ある?」
ないわけが、ないだろう。
そう思ったが、無言で見返した。
「興味あったら、ここに電話して。服脱いで、ベッドに横になるだけで」
そう言って、男は人差し指を一本立てた。
「お金、ほしくなったら、ね?」
その意味するところを知って、さー、と音を立てて全身の血の気が引いて行くのがわかった。
恐ろしくなって何も言い返せず、そのまま踵を返して階段を駆け降りた。
☆☆☆☆
「へえー、スカウトってそういうところでやってるんだ・・・最近体育会系の子が多いみたいだもんねえ・・・」
新学期の教室で、俺はさっそく不二にその話を打ち明けていた。
不二は驚くわけでもなく、腑に落ちたといった口調で俺の話を受け止めた。
AVにそういうジャンルがあることは知らないではなかった。
だけど、自分が出演者の候補になろうとは夢にも思っていなかった。
「まあ、まさか中学生とは思わなかったんだろうけど…。ちゃんと、断ったんだろうね?」
「…もちろん、断ったよ」
怖くなって逃げ出した、ということは、恰好悪いから言いたくなかった。
そういうわけで、最後のところだけ、嘘をついた。
「じゃあ、なんで、まだ名刺持ってるのさ」
「えっと、記念に…」
「どうだか!あのね、ベッドに横になるだけで済むなんて、思ってないよね?まさか?」
「思ってない、思ってないよ!」
と、答えたが、実は不二に言われるまで、その先を要求されるとは思いもしなかった。
字面通り受け止めていたわけで、世間知らずな自分が少し恥ずかしかった。
「この話、大石にした?」
「してないけど…」
「ふうん」
「なんでさ?」
「お堅い副部長はどんな反応するのかなあ、って思っただけ」
実のところ、この話は大石にするつもりはなかった。
大石とは、AVの話なんてこれまで一度もしたことなかった。
一緒にいてするのは、とにかくテニスの話。
あとは、チームメイトや先生や家族の話、ペットの話。
ときどき、勉強の話もした。
ゲームやテレビの話は、1年生のころはともかく、最近では全くしなくなった。
大石はあんまり興味がなさそうだったから。
AVの話なんて、とんでもない。
大石は、友達だから。
友達だから?
不二にはしたのに。
なんで、大石には、とんでもない、んだろうか。
なんとなく、頭の中が渦を巻いてるみたいに、ぐるぐるした。
☆☆☆☆
「じゃーん」
おおげさな動作で、例の名刺を大石の目の前にかざした。
大石は、ぽかんとして見返すだけだった。
「俺、スカウトされちゃったの、この人に」
「それで、その気になっちゃってるわけ?」
呆れたという風で返された。
たいして興味もないという感じでそっぽを向かれて、なんだかムカついた。
「その気になんて、なってないよ。だってこの人さ、AVに出ないかって言ったんだぜ…」
大石がこっちを向いた。
やった、と思って続けた。
「服脱いで、ベッドに横になるだけで、じゅーまん…」
あ、と思ったら、手の中の名刺は大石に奪い取られていた。
大石はその名刺を冷やかな表情で眺めていたが、おもむろに口を開いた。
「…それで。断ってないわけ?」
「…ううん、ちゃんと断った…」
逃げ出してしまったから厳密には断っていないのだが。
なんだかそれすら言いづらい雰囲気で、断ったということにした。
「じゃ、もうこれ要らないだろ」
大石はそう言って、名刺を破る動作をして見せた。
「あ…」
「要るの?」
「要らない…」
大石は怒っていた。
怖いと思った。
「いいよ、破いて」
大石は、名刺をまず半分に破り、それからまた半分にと丁寧に破いていった。
安っぽい薄手の紙は、面白いように小さくなった。
大石が手の平を開くと、こまかくされた名刺の切れ端はちりぢりに舞った。
「どこで声掛けられたの?まさか青春台じゃないだろ」
「…新宿」
「なんでそんなとこ、一人で行ったの」
大石は責めるような口調だったから、なんだか泣きたくなった。
「そんなとこじゃないもん、ちゃんとしたスポーツ店だもん。それに姉ちゃんと一緒だったし」
「…そうか」
沈黙が流れた。
「あぶないから、もう行くなよ」
「…行かないよ。あ…」
シューズを取り寄せてもらっていたことを思い出した。
昨夜、その店からシューズが届いた旨連絡があった。
今日は始業式とホームルームだけだから、早速受け取りに出かけようと思っていたのだった。
☆☆☆☆
結局、大石は、あぶないから、と言って新宿の店まで一緒に来てくれた。
怒ったのは、心配だったからなのだ、とわかった。
だったら、あんな風に怖い顔しないで、最初から心配だと言ってくれれば良かったのに、と思った。
平日の午後とあって、店は先日とはうって変わって空いていた。
大石は、店に入るとテニス用品のフロアに着く前からきょろきょろと周りを見回していた。
怪しげな人物がうろついていないかどうか、確かめるつもりなのだろう。
テニス用品の売り場には、自分たちのような制服姿の中高生と、大学生らしき人たちが数人いるだけだった。
俺がシューズを試し履きしている間も、大石は落ち着きなくふるまっていた。
対応してくれた店員さんが、「お連れの方はどうかなさいましたか」と小声で尋ねてきて恥ずかしかった。
そのシューズは俺の足にぴったりだったから、お年玉の袋からお金を出して払った。
そうして店を出ると、ほっとしてため息が出た。
右手に提げた紙袋の重みもうれしく、思わず大石に体当たりした。
そしたら、大石は、わあと大きな声を上げた。
「ああ、びっくりした…」
心臓を押さえて、大きなため息をついた。
俺はやっと気がついた。
大石だって緊張していたのだ。
それはそうだ。
こちらは子供で、相手は大人なのだ。
しかも、カタギではないかもしれない輩だ。
もしも例の男に鉢合わせしたとして、手に手を取って二人で逃げるしかなかったかもしれない。
俺は、大石の胃痛の種を作ってしまったのだろうか、と思った。
そんな思いをしてまで付き添ってくれた大石に、感謝の気持ちがこみ上げた。
「大石、ついて来てくれてありがと。俺、なんかお礼したい」
みずくさいぞ、と言われて、帰りにマックでおごることになるだろう、と思いつつも、そう切り出した。
「なんでも、いい?」
意外な返事に、思わず大石の顔を見返した。
大石の顔は、なんだか大人びて見えた。
いつもと違う街で見る表情は、それだけで、いつもと違うみたい。
「…なんでもいいよ」
「じゃあ…」
☆☆☆☆
「それで?それで?」
そこまで話すと、不二が体を乗り出して、話の先をねだった。
「えっとね、お弁当作って、って」
「はあ!?」
不二は、似合わない素っ頓狂な声を上げたかと思ったら、くすくすと笑い始めた。
「もうすぐ、中等部の入試じゃん?大石は面接の手伝いで登校するから、その時に…」
不二はひとしきりそうして笑うと、大きく肩で息をしながら言った。
「はあ、最高!大石ってかわいい…」
その一言を聞いて、胸がちりりと小さく焼かれたのがわかった。
そうなのだ。
大石はかわいい。
そんなの、俺はとっくに知ってる。
だけど、それは俺だけが知っていればいいことだ。
この話を不二にしたことを、後悔した。
だから、話の続きはしなかった。
かわいい大石が、卵焼きは甘くして、って言ったこと。
大石がかわいいことも、怖いときがあることも、これからは全部、秘密。
「秘密」end
英二が乙女でちと恥ずかしいです
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