Here,There and Everywhere


俺がどこにいても。

君がどこにいても。

願うことはひとつだけ。






春という季節は、気が塞ぐようにできている。

とりわけ初春は、暖かくなったかと思えば急に冷え込んだり、気候の変化に気分まで振り回されがちだ。
その上、卒業という言葉が胸をざわつかせる。

内部進学なわけだから、校舎がかわるだけ。
高等部への編入者も数えるほど。

何も変わることはないのだと自分に言い聞かせても、なぜだか気持ちはざわざわするばかり。

何かが変わるような気がして、変わってしまうような気がして。


だけど、実のところ、根本の根本のところが、すでにすっかり変わってしまっているのだ。
もう、これ以上変わりようがないくらいに。

これは、度が過ぎた友情か。
友情ならば、これほど焦がれるはずもない。

わかりきった問いと答えを繰り返す。




それは、初春とも思えぬほど空が青く晴れ渡った日だった。

卒業試験という名の学年末考査の最終日、英二と二人で買い物に行くことになった。
顧問の竜崎先生への心ばかりの贈り物を、部員を代表して買うためだ。

俺も手塚も、こうした種類の買い物は得意でない。
だから、自分も行きたいと英二が言いだした時は、助かったと思った。
誰かが横にいて意見してくれればありがたいし、むしろ決めてもらいたいのが本音だった。


青春台の駅へと着き、駅ビルの中へと入った。
さてどうしたものかと思い、ただあちこち見回していると、英二が口を開いた。

「なんだかぱっとしないねえ。新宿まで、行っちゃわない?」

青春台から新宿までは、乗り換えなしで15分ほどだ。
どうせ英二に決めてもらうことになるのだろうし、そう言うならば従おう。
そう思って二つ返事で了解した。


改札をくぐり、快速電車に乗ろうと歩みをすすめると、後ろから呼び止められた。

「大石」

振り返ると、英二が普通電車の改札へと上るエスカレーターを指差していた。

「そっちで行くのか?」
「だって、空いてるじゃん」

それもそうだと思い直し踵を返した。
普通電車に乗ったとしても、5分やそこらの違いだけなのだ。

俺達が乗る車両には10人ほどの乗客がいて、そのほとんどが青春台の駅で降りた。
そして、俺達を含めやはり10人ほどの乗客が車両に乗った。

電車に乗り込むと、英二はつかつかと先を歩き、縦長の座席のまん真ん中に腰を下ろした。
端には座らないんだよな、と、自分の作法との違いを思いながら隣に座った。

英二は珍しく何も喋らず、ただ正面を見つめていた。
向かいの座席に乗客は座っていない。
俺もなんとなく、同じようにした。


走りだしてしばらくすると、電車の窓の向こうには青い空が広々と広がった。

住宅街の高架の上を走るこの路線は、視界を遮る建物が少ない。
空を飛んでいるみたいだなんて思う瞬間があるほどだ。

とはいえ、それを思ったのは子供のころのことで、英二があんなことを言い出すまで、俺はすっかり忘れていたくらいだった。


「水の底にいるみたいだ」

思わず英二の方を見ると、相変わらず正面の窓の向こうを眺めていた。

空を見て、水の底、と思ったことはなかった。
英二の発想は時々突飛で俺は驚かされる。

ぼんやりと、その空に見惚れた。


「じゃあ、あの飛行機雲は?」
「あれはさ、船が通った跡。下から見ればそう見えるんじゃない?」

そうかなあ、と異を唱えると、英二は愉快そうに笑った。

「ほら、あそこに船があるだろ」

指差した先には、少し欠けた白い月が浮かんでいた。

「本当だ」
「な?」

ちらりと横を見やり、笑顔を盗み見た。


「海の底に潜ったら、もっときれいだよ」
「そうなんだ?」
「うん。晴れてる時は。キラキラしてさ。」

見せたいくらいだ、と言おうとしてやめた。
なんとなく、口説いてるみたいではないか。
以前ならば、他意無く口にしていただろうけれど。

沈黙が流れた。


「見てみたいなあ」
「きれいな海ならさ、シュノーケリングだけで十分楽しめるよ」
「俺、そんなきれいな海、行ったことないよ」

なら、いつか二人で行きたいな、と言いそうになり、言葉を飲み込んだ。

そうなのだ。
やっぱり口説きたいのだ、俺は。

また沈黙が流れた。


「海の底は、きっと静かだろうな」

連れて行ってとねだらなくなったところを見ると、英二も大人になったのだ。
普段の様子からは全くそうは見えないが、自分にはわかると思った。

自分だからわかるのだと思いたかった。


電車はいつの間にか建物の間を走っていた。
俺たちは目的の駅が近いことを知った。


「新しいデパートができたろ?行って見たかったんだ」

英二がうれしそうに笑って言った。
なるほど、そういうわけか。

「はじめから、新宿に行くつもりだった?」

英二は俺の問いには答えず、ただ笑顔を返した。



人ごみに紛れはぐれそうになりながら、時々振り返り、手を振り合い、なんとか二人とも改札を抜けた。
賑やかな場所は苦手だが、こんなささいなやりとりにさえ心は弾んだ。

二人ともきょろきょろと周りを見回しながら、目的のデパートにたどり着いた。
そうして、中に入って案内板を探すと、ああだこうだと言い合ってめぼしい売り場の見当をつけた。

オープンしたてのデパートはひどく混雑していて、えらいところに来てしまったと思わされた。
コートなど着ていられないほどに、ひといきれに体が汗ばんだ。

ため息をつきかけた俺のコートの袖口を、英二が引いた。

「エレベーターでいこうよ」


エレベーターの扉が左右に開くと、後ろから押されるようにして二人して窓際に寄った。

エレベーターはガラス張りで外が見渡せるものだった。
音もなく浮かび上がったエレベーターの真下に、首都一のターミナル駅が一望できた。

「わあ、すごい」

英二が無邪気な声をあげた。


瞳を遠くにやれば、青い空は晴れ晴れと澄み渡っていた。

俺は思わずひとつ深呼吸をした。

水の香りがした。

ああ、ほんとうだ。
水の底にいるようだ。


初冬の頃、英二は香水をつけるようになった。
爽やかな、嫌味のない香りだと思ったが、それについて俺は何も言わなかった。

英二も何も言わなかった。
以前の彼ならば、香水をつけたことをはしゃいで報告しただろうか。


不意に涙が込み上げて来て、こらえたら、鼻の奥がつんとした。

どうしてそんな気分になったかも、この気持ちにつける名前もわからないけれど。

だけど、この気持ちを忘れることは、きっと一生ないだろう。

他の誰かと恋をして、結婚して、父親になっても、毎年春を迎える度に、俺はきっと思い出すだろう。

何の根拠もなく、そう思った。








それから10数年の月日が経ち。

それはもしかしたら本当に、度が過ぎた友情であったのかもしれないが。

とにもかくにも。

二人でひとつ屋根の下に、といっても集合住宅だが、やっと一緒に暮らせることになったのだ。


英二が契約した賃貸マンションは、俺の職場に程近い川沿いにある。

バブルの頃に作られたそのマンションは、築20年超には見えない無駄に豪華なしつらえだ。
おかげで家賃は安いが、管理費は高い。

とはいえロケーションは抜群で、部屋の窓から、春は桜の花、夏は花火大会が楽しめる。


見下ろせば、川沿いに植えられた桜のつぼみがほころび始めている。

春霞の空は白くけぶり、3月とも思えぬほど蒸し暑い。
少し動いただけでも汗ばむほどで、引っ越し日和とはとても言えない。


今日の段取りは、朝のうちに俺の荷物を運び入れ、ひと段落ついた昼過ぎに英二の荷物を運び入れるという順番だ。

その間にも、英二が注文した家具の受け取りがあり、預かった「菊丸」の印を押すときには、いかにシャチハタといえ緊張が走った。

我ながら不自然にぎくしゃくとし、慣れぬことはするものではないと思ったが、これからしばらくは慣れぬことの連続なのだ。

配送係が帰った後は思わずため息をついていた。


今から出発と電話がきてから、小1時間。
間もなく到着かと思うと、そわそわと落ち着かなくなった。

インターホンのチャイムが鳴り、また配送か、はたまたとあわてて受話器を取った。
聞き知らぬ声は果たして、引っ越し業者であった。



歳にも似合わぬ屈託ない笑顔で部屋に入ってきた恋人は、懐かしい、水の香りをさせていた。

農学部で畜産を専攻し始めて間もなく、英二は香水の類いを一切つけなくなった。
動物というものは人間よりも嗅覚が鋭敏で、香水を好まない。

そういうわけで5年近く続いた習慣はあっさりと影を潜め、理科の教員になった今もそれは続いていた。


ひとたびその香りを嗅ぐや、俺は一層落ち着かない心持ちになり、引っ越し業者が早く帰らないかと願った。
引っ越し業者といっても、赤帽の配達員で、おそらくは高校を出たばかりといった風の年若い青年が一人いるだけだった。

その彼は、英二の多くはない荷物を玄関先に置くと、早々に引き上げて行った。




「その香水って」
「ああ。昔つけてたやつ。荷造りしてたら出てきたんだ」

懐かしいからつけてみた、と言って、また屈託のない笑顔を見せた。



水の香り。

その水は、どんな味がするのだろう?

目の前にある泉の水が飲めなければ、喉の渇きは一層増す。

一口飲む前から、俺は溺れていたのだろう。

水の香りに。


後ろから抱きしめたら、彼は驚いて作業の手を止めた。
常ならぬ気配に息を飲むようにして、こちらの動きをうかがっている。

首筋にくちびるを落として、Tシャツの裾から指を差し入れた。
相変わらず引き締まった腹を撫で上げて、陽に焼けない肌の白さを思う。


英二の指が俺のジーンズのボタンを探し当てた。
後ろ手にボタンを外そうとしたけれど、うまくいかない。

「自分で外してよ。手伝ってあげるから」

自らジーンズのボタンを外し、ジッパーを下ろすと、英二が俺の前に跪いた。


でも、もっと溺れたい。

溺れたいんだ。


「俺がしたいんだ」

英二は黙って俺を見上げた。

「ここでもいい?」

彼は何も言わずにうなずいた。


床に敷くものを探す間も惜しくて、自分のシャツを脱いで敷いた。
英二をその上に寝かせると、Tシャツをたくしあげた。

汗ばむ肌の塩気を舐め取り、水の香りを貪った。


縋り付いて、しがみ付いて。

俺はまるで溺れるのが怖いみたいだ。

溺れたくてしかたなくて溺れたのに。


手に入らないと思っていた。

触れることなどできるはずもないと思っていた。

手に入れてみれば今度は、無くすことが怖くて。





気が付けば、引っ越し当日の散らかった床の上に、二人で横たわっていた。

片付けもそこそこにこんなことになってしまうとは、さすがに少し反省した。

だけど、気だるい気分のままで、水の香りの中にたゆたうのは心地よかった。


「この香水、好きだった?」
「…そうじゃないよ。…好きだけど。…えーと、なんて言うか…」

好きな部類の香りではあるが、英二がつけていなければ、そもそも気になるはずもないのだ。
それを説明したかったが、うまく表現できなかった。

気持ちというものはとらえどころがなくて、それが自分のものであっても、本当のところは把握できない。
それを一言でまとめるなんて意味のないことだし、言葉を継げば継ぐほどに嘘臭くなることだってあるだろう。

そう思って、そのまま黙りこんだ。


「可愛いなあ、大石は。俺はたぶんおまえのそういうところが好きなんだ」

思いもかけない言葉に虚を突かれて、英二の瞳を覗きこんだ。

瞳は屈託なく澄んでいた。

まるで、あの日の空のように。


ああ、なんだか。
また、やられた。

世界は単純でシンプルだ。

英二といると思い知らされるのは、そのことだ。

人の気持ちだって、いっそシンプルにしてしまえばいい。
そう考えれば済むことは、そうしてしまえばいいのだ。


「この香りはさ、つけていれば、どこにいても海の底にいるみたいだから」

「…へえ」
「安心したんだよな」

「つけなくて大丈夫なわけ?今は」
「大丈夫に決まってるだろ?」

英二は笑いながら、小鳥が木の実をついばむようなくちづけをくれた。

俺は、何も言えなくなって、また黙りこんだ。


「大石はもっと自信持った方がいい。俺にこんなに愛されてるんだから」

英二は冗談めかしてそう言うと、体を起こして衣服を直した。


窓の向こうを見上げれば、空は相変わらず煮え切らない色をしていた。

曲がりなりにも人の命と向かい合うようになってわかったことがある。
人生とは自分の思い通りにならないものだということだ。

俺は怖いんだ。

手痛いしっぺ返しが待っているんじゃないかって。


だけど、思い通りになる人生なんて、意味が無い。

そう思えるのも、思い通りにならない人生を一緒に歩いてくれる人がいるからだ。

ああだこうだと言い合いながら、時々は喧嘩もし、仲直りし。
わがままを聞いてやり、聞いてもらい。

そうやって、最後まで。
最後まで、一緒に歩いていきたい。

一緒に暮らしていたって、24時間そばにはいられない。
すれ違い、会えない日だって多いだろう。


幸せにする自信なんてない。

君といられるならば、不幸になっても構わないと思い詰めた時期もあった。

だけど。

君が幸せであることが。
心安らかであることが。
俺にとっての幸せだ。

俺がどこにいても。
君がどこにいても。
いつも君を思っているから。

君の瞳がいつも澄み渡っているように。
心の底から笑えるように。
いつも願っているから。



「いつかさ、長い休みがもらえたら、きれいな海を見に行こう」

「どしたの、急に」
「昔、誘いたくて誘えなかったんだ。だから」

「…昔っていつ?」
「中3の時」

「…ふうん。で、いつかって、いつ?」
「すぐにはむりだけど…」

「おまえ、できない約束はしないんだったよな?」
「だって俺、新人だし。今は時間の自由なんてないから」

「…だいたいさあ、今までにいくらでも誘えただろ」
「…そうだよなあ。なんで今なんだろうな」

英二は、芯から呆れたという顔でため息をついた。
だから、言ってやった。


「お楽しみはさ、後に取っておく方がいいだろ?」

そうしたら、一層呆れた顔になって、睨まれた。

「…さわやかな顔しやがって、コノヤロウ」


さわやかな顔。
って。
俺が、したのか。

思わず自分の頬に手をやった。



俺がどこにいても。

君がどこにいても。

いつも俺を思っていてほしい。


そうしたら、たぶん。

俺が好きな俺でいられるんだ。



end