Happiness is storing up solar energy.

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廊下の向こうから英二が歩いてくる。

両手で螺旋型の模型を抱えて。

横を歩くのは、白衣を纏った大柄なあいつ。

彼はあいつに、一心に話し掛けている。

あいつは、大きな体を彼の方に傾けて、話を聞くと、二言三言話す。

すると彼の瞳が、大きく見開かれ、くちびるが形を成す。

「すごい。いっちーは何でも知ってるな。」

英二の眼差しに浮かぶのは、敬意と信頼。

俺は思わず、目を逸らした。


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あいつは、生物教師の一柳。
英二の担任。

歳は29。
大柄で、広い肩幅に太い首。
日にやけた肌に、不精髭。
瞳は大きくて、年の割に童顔だ。

青学は年配の教師が多いので、当然ながら、女子生徒にもてている。
だから、たいていは女の子たちに囲まれているが、ここ最近は様子が違った。

あいつの隣にいるのは、いつも、といっていい程、英二だった。

この二人はなんだか似ていた。
明るくて、あたたかくて、いつも人に囲まれている。

でも、俺は知っている。
みんなには見せない、英二の激しさを。
それを知ってしまってから、俺はずっと彼に焦がれている。


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英二がいない。

「山本さん。英二、どこにいるか知ってる?」
4年6組の教室前で立ち尽くしていた俺は、我に返って、尋ねた。

よりによって、英二の彼女を選んで。
こういうところ、俺は屈折している、と思う。


「…英二くんなら、生物準備室か理科教官室じゃない?」
大石くんなら、知ってるんじゃないの?
そう言いたげな表情だった。

この子は、もしかしたら、俺の気持ちに気がついているかもしれない。
以前からそう感じてはいたけれど。
そんなことは、別に、どうでもよかった。


英二と山本さんは、高等部に入学してすぐに、付き合い始めた。
中等部の時も、ごく短い期間だったけれど、英二には彼女がいた。
だから、こういうことは想定の範囲内で、問題じゃない。

彼がだれかと仲良くするのも、気に入った後輩を連れ回すのも、よくあることで、別に問題じゃない。


ただ、あの眼差しで、彼が、俺以外の、他の誰かを見つめること、それに我慢がならなかったんだ。


階段の前で立ち止まり、考えた。
上か、下か。
2階か、4階か。

理科教官室なら、2階。
生物準備室なら、4階だ。
4階、と思い、階段を上った。


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先週の、ある昼休みのこと。
この階段を英二が上ろうとしていた。
両手に大量の雑誌を抱えて。

声をかけた俺に気を取られて、彼は足を滑らせた。
俺は慌てて、彼を後ろから抱きかかえた。

香水の香りに混じって、彼自身の匂いが鼻を掠めたから、どきりとした。

「ふぅ〜っ。アブナイアブナイ。」
「英二、何してるんだ?」
「お引越し〜。俺、助手だから、手伝ってんの。」

助手?なんだそりゃ。

一柳が、慌てて踊り場まで下りて来た。
「菊丸、大丈夫か?」

また、こいつ絡みか。
俺は、思いきり、睨みつけてやった。

そしたら、あいつは呆けた顔で、俺を見ていた。



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「失礼します。」

生物準備室の戸を引くと、5人の顔がこちらを向いた。

一柳、英二。
それから、生物部員だろうか、おとなしそうな男子生徒が3人。
たぶん、5年生だ。

一同、珍客の登場にぽかんとした様子だった。


「英二、今、ちょっといいかな?」
彼はこちらへ歩いて来た。

「どしたの?大石。急用?」
「新しいフォーメーション、思い付いて。説明、聞いてもらえる?」

「黒板、必要?」
俺が頷くと、彼は、あいつにひと声かけて、生物室に続くドアを開けた。


俺は、チョークで黒板に図を描いて説明した。
彼は、俺の話に一心に耳を傾けていた。
瞳がだんだんと輝きを増してくる。

「どうだろう?」
「いいね。やろう。早く試したい。」
「よかった。」
思わず、笑みがこぼれた。


「大石は、やっぱりすごい。頼りになる。」

彼の瞳に、信頼と、尊敬の色が浮かんでいた。
やっと、取り戻すことができた、この眼差し。
俺だけのものに、できたらいいのに。

体に、血が通い始めて、だんだんと、体温が上がってゆく…。


「さっき、ごめんな。何してたんだ?」
「あ。生物部の人たちに、ショウジョウバエの実験の話、聞いてたんだ。5年になったら、俺達もやるんだよ。みんな先輩だけど、気さくでさぁ。話してみたらすごく面白い人たちだよ。」

ちょっと前の英二なら、彼らの顔の区別もつかなかったんじゃないか?
と、俺はひねくれた想像をした。
「メガネ先輩A、B、C」と命名する姿が思い浮かぶくらいだ。

「ふぅん。昼休みはだいたいここにいるみたいだけど?」
「そう。理科教官室、追い出されちゃったから。雑誌のバックナンバー読破するために居座り過ぎた。」
と言って、彼は笑った。


「あのさ、大石。俺、将来の夢、見つかったよ。」
「そう。よかった。で、なに?」
「先生。生物の。」

それは意外な回答だったけれど。
でも、ごくごく自然な選択、と感じた。

英二は動物とか生き物全般が大好きで、あいつにくっついてしている質問も、たぶんそのたぐいなのだ。
次々とわいてくる質問を、片っ端から尋ねているのだろう。
彼がテニスを始めたばかりの頃も、そうして俺にくいさがったことがあったっけ。

ああ、助手って。
だからか。

「そっか、いいよ。英二に合ってると思う。」
「ホント?笑われるかと思った。俺が先生なんて、おかしいだろ?」

「そんなことない。こんな先生いたら、みんな、好きになるよ。」
「おーいし!お前、いいやつだなぁ!」
破顔して、つけ加えた。

「でも、まだ内緒にして。特にテニス部の奴らには言わないで。」
「わかった。言わないよ。」

俺にだけ打ち明けてくれたのか。
うれしかった。


英二は、教師としてのあいつに憧れてるのか。
だから、あの眼差しで見つめるんだろうか。

でも、あいつは、一人の男としても、俺よりずっと上だ。
悔しいけれど、俺は、あいつに、一つも敵うところがない。
今はまだ。

早く大人なりたい。
いつも思っているけれど、今日ほど感じたことはなかった。


だけど、英二の世界が広がっていく。
そのことに、俺の心は、じんわりと温みを持った。
いとおしい者がしあわせな顔で過ごせれば、それはとてもうれしいことだ。

俺ってほんとに単純だ。
人の心とは、案外にシンプルだ。
そう、思った。


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生物室を後にしながら、みっともなかった、と反省した。
あんなに焦って、追いかけまわして。

俺、嫉妬したんだ。
今更ながら、気がついて、なんだか呆然とした。


自分は、そういう醜い感情とは無縁だと、どこかで思っていた。
でも、そんなわけは、なかった。

だって、俺は、叶わない恋をしているんだから。
きっと、これからも、こんな苦い思いを味わいながら、英二に焦がれ続けるんだろう。
この先も。


気が付くと、俺は、うっすらと汗をかいていた。
体が熱かった。

2月の、冷え冷えとした廊下を歩いているというのに。
英二の傍に立っただけなのに。


彼の内なる、激しく燃える熱情に、俺の体が慣れることは、ないのだろう。

きっと、いつまでも。


end


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