Happiness is being glad you're you.

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どうしたら、近付けるのか。
どうしたら、並んで歩けるようになるのか。

そうならなければ、なにもかも、始まることすらないのだと、思い詰めていた。
あの頃…。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「一柳先生、いらっしゃいますかーー!?」
大声のした方へ目をやると、担任クラスの生徒、菊丸英二が、教官室の入り口に立っていた。

「おう、菊丸。今日から入室可だから。入ってこい。」
「なんだぁ…。」


今日は2学期の終業式だった。
2学期の成績が生徒本人に渡った今日の午後から、各教科の教官室は生徒の入室が可能となる。

「どうした?」
「いっちー、あのね…、進路のことなんだけど…。」


「菊丸、あのねとはなんだ、あのねとは!」
横から、別の教師が口を出した。
いつものことだった。

「…すいません。えっとー、進路のことなんですけどーー。」
「『ですけどーー』って、お前、ちゃんとしゃべれないのか。」
今度は、また別の教師だった。


「……先生、話が進まないから、生物準備室で、ってのはどうでしょう…?」
…同感だった。

いつまでも中学生気分がぬけない菊丸も悪いが、ほかの教師も、幼さを隠さない彼を構いたいのだ。
教師というものは大体において、少々出来が悪くても可愛いげのある生徒が好きなものだ。


とはいえ、このままでは本題に入れないので、生物準備室へ移動し、改めての進路相談となった。

先だって10月に、進路面談を行っていた。
その前に菊丸が提出した進路調査表には、第一志望「青学、学部未定」と書かれていた。


青学は、ほぼ全員が進学するが、その7割は外部の大学に進学する。
国立大学、私立でも早慶レベルを目指す者、医歯薬系への進学を目指す者がほとんどだ。

残りの3割が青学の大学部に進学する。
つまり、進学校であると同時に、のんびりと構えている生徒も決して少なくない。


ともかく、4年生であれば、具体的な進路が未定なのは珍しいことではない。

むしろ、決まっている方が、珍しいくらいだ。
だから、俺は、特に心配もなく、面談に臨んだのだった。

しかし、菊丸の場合は、少々様子が違った。
話をしているうちに、彼は泣き出してしまった。
早く将来の目標を見つけたいのに、見つからないのだと、訴えて。

どうしてそんなに焦る必要があるのか、何が彼をそんなに焦らせているのか。
皆目、見当もつかなかった。

教師といっても、生徒の心の中まではわからない。
いや、むしろ、教師だからこそ、見えないものは、たくさんあるのだ。


「獣医って、なるの、難しいのかな…?」

そうきたか。
自分が生物の教師になってから、一番たくさん受けてきた進路関係の質問が、これだった。

「うん、すごく、難しいのは確かだね。」
かくいう俺も、かつては獣医になるのが夢だった。

どうしてなりたいとか、そのたぐいの話はとりあえず置いておくことにした。
立ち上がって本棚まで行き、進路関係の雑誌を手に取って、付箋が貼ってあるページを開いて彼に見せた。
付箋を貼っておきたくなるほどに、よくある質問だった。

そのページには、主だった大学の、獣医学部、獣医学科の偏差値が、表の形式で書いてある。
理系のその他の学部、学科も併記してあり、比較がしやすい。

それを見せると、たいていの生徒は愕然となる。
菊丸も、例外ではなかった。

「…医学部と、たいして変わらないじゃん…。こんなに難しいなんてな…。」


そうなのだ。
獣医学科は難関も難関。
しかも、志望者はあまたの、超人気学科だ。

そのうえ、6年通うから学費もかかるし、一人前になるまでも、なってからも楽ではない。
まずは学科が超難関であること、それから、その職業的地位なども生徒が知った上でないと、よし目指せとは言い難いのだった。

「…甘かったなぁ…。」
そう言って、菊丸は、文字通り、がっくりと肩を落とした。
確かに、菊丸の成績では、一浪したとしても少々無理があるかもしれなかった。


「どうして、獣医に興味を持ったんだ?」
生徒の答えは9割方わかっているのだが、次の質問のためにも、必ず尋ねるのだ。

「動物が好きだから…。」
「動物のことが勉強できるなら、他の学科でもいいか?」

「…そんな学科あるの…?」
「ないことは、ないぞ。」

また立ち上がって、今度は、俺の出身大学のパンフレットを取ってきて見せた。
実は、ここまでの流れも、いつものパターンなのだった。

パンフレットを開くといきなり、牛の顔の写真である。
「牛だ…。」
素直な彼は、見たままを口にした。
「そうだ、牛だ。この大学にはな、畜産学科というのがある…。」

青学にはないその学科について、入学してからどんなことを学ぶのかを説明し、ファームステイ、農場実習などについても話をした。
だんだんと、瞳が輝きを増してきた。
うんうんと頷きながら、熱心に話しを聞いていた。
無事に悩み解決か、と思ったその時。


「で、なにになれるのかな…?俺。卒業したら…。」
そうだった。
なぜかは知らないが、彼の場合は、むしろそちらが重要だった。
というか、本来は、かくあるべきなのだ。
彼は、しごく、真っ当なことを言っていた。

「そうだな…。」
と言いながら、俺は「卒業生の進路」のページを開いた。
畜産学科を出て酪農家になる学生は、当たり前だが、ごく一部だ。

とりあえず、読み上げながら、解説を加えた。
一口に研究者といっても、大学のと企業のは違って、どうこう…、というように。
菊丸は、非常に真剣に聞いていた。

公務員、教員、と読み上げると、彼が俺の目を見た。

「…いっちー、ってことか…。」
「まあ、そういうことだ。俺も、獣医志望だったんだ。中等部まで。」
「ほんとに?」
「ああ、小さい頃から、動物のお医者さんになるんだ、と思っていた。」
「なんで、諦めちゃったの?」
「諦めたというより、方向転換かな…。ある人に近付きたくて…。」
「ある人…、みたいになりたいと思ったの?」

…近付きたいというのは、実は、物理的な距離のことで、不純と言われればその通りの動機だったのだが。
菊丸は、いい方に解釈してくれている、と思い、頷いて肯定した。

「ふぅ…ん…。」
なぜだか、彼は満足そうな顔で、俺を見つめていた。

「…俺、見つけたかも…。」
「…えっ。」

彼は、椅子から立ち上がると、すがすがしい顔で言った。
「ちょっと考えて、また相談にきまーす!じゃっ、俺、部活あるんで!ありがとうございましたー!」

…行ってしまった。
嵐のような奴だ。
まぁ、いいか。
笑顔で帰って行ったのだから…。


…彼は、あんな風に、甘えたがりに見えて、その実、早く大人になりたいのだ、と思った。

…俺も、そうだった。
大人に、なりたかった。
あの人に近付きたくて、距離を詰めたくて、早く並んで歩きたいと、焦れていた。
溺れそうになりながら、もがいていた。
しかも、今も、岸にたどり着けてはいないのだ…。


…菊丸が、どこへ泳ぎつこうとしているのかは知らないが、無事にたどり着けるといい。
そう思って、煙草に火をつけた。


年が明けて、新学期になると、彼は、理科教官室の常連となった。
彼いわく、職業実習だそうだ。

教師の仕事を近くで見るための…。


end


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