お前のこと、もっと知りたい。
明かしてほしい、どんなことも。
俺を、もっともっと知って。
恋をするまで知らなかった。
自分を知ってもらうことが、こんなにうれしいってことを。
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「英二、進路調査表。」
練習が終わって部室へ戻るとき、乾が英二を呼び止めた。
俺はその声の方へは、振り返えらず、耳だけを傾けた。
「あっ…やべ。いっちー、怒ってた?」
「明日、朝イチで出すのが賢明だろう。」
高等部に上がって 、英二と乾は同じクラスになった。
二人は噛み合わないようでいて、実はそんなことはない。
英二はなんだかんだと乾を頼っているし、乾は英二のペースに巻き込まれて、今やクラスの中心人物になっているらしい。
二人のクラス担任は、ベテラン教師が多い青学の中では際だって若く、生徒たちが親しみを込めて愛称で呼ぶのをそのままにしている。
そして、彼らのクラスは、文化祭を前に異様な盛り上がりを見せていた。
それに比べて、俺のクラスはおとなしいというか、冷めているというか。
だから、彼らのクラスがうらやましい、というのが本音だった。
部室に戻り、二人並んで着替えながら、話はまだ続いていた。
「どうしよー。なんて書けばいー?」
「あのまま出せばいいじゃないか。」
「面白がってんだろ?」
じろり、と英二が乾を睨んだ。
俺が二人の会話に入るタイミングを掴みかねていると、横から不二が声をかけた。
「英二、なんて書いたの?」
「第一志望、全国制覇。第二志望、以下同文。」
乾が代わって答えると、不二が吹き出した。
「だってさー。当面の目標はそれだろ。その先はまだ考えてないもん。」
英二は口を尖らせて言い訳した。
「青学の適当な学部を書いて出せばいいじゃない。」
「だってそれ嘘だろー?不二はー?不二はなんて書いたんだよー。」
「適当だよ。」
その後も二人でなにやらひとしきり話していたが、不意に、不二がこちらを見遣って言った。
「ほら、将来の目標がしっかり決まっている人が、いるじゃない?話、聞いてみたら?」
俺と英二の目がばっちりと合ってしまった。
「大石は第一志望、外部医学部って書いた?」
「うん。」
「じゃさ、なんでお医者さんになりたいの?」
言葉に詰まってしまった。
一言で説明するのは、難しかった。
そういうわけで、二人で話しながら帰ろう、ということになったのだった。
「えーっと、まずは、世の中のためになる仕事をしたいってこと。奉仕、っていうか。それができればなと。」
…なんだか面白くもなんともない話だ、と思った。
まぁ、事実だからしかたない。
でも、英二の参考になるとは思えなかった。
「あと…。英二、この世に生まれてから、いちばん初めの記憶ってなに?」
「んー。クリスマスかな。たぶん3歳くらい。」
「うん。それがね、俺の場合、病院なんだよ。」
「へえ!」
「その病院が近所のとは違って。俺、ずっとその記憶が夢だと思ってたんだ。」
「うん。」
「夢、って思うくらいしあわせな記憶でさ。」
「へえ!」
「で、結局、それが現実で、しかも俺が覚えている限り、いちばん最初の記憶だってわかったんだ。」
「なんか、運命っぽいな…。」
「うん…。」
…あれはたぶん、もうすぐ4歳になるって頃。
白い壁、白いベッド。
白い部屋。
銀色の聴診器。
あんず色のシロップが入った薬びん。
窓から海が見える。
大きな船がたくさんとまっている。
僕はふわふわと、雲に乗っているような気分だった。
白衣のおじさんは聴診器で、僕のお腹と背中の音をゆっくり聞いた。
そして、僕ののどに薬をつけた。
苦しくて、ちょっとせきが出た。
あんず色のシロップを飲みたい、とねだったら、一口飲ませてくれた。
苦かった。
でも甘い。
変な味。
でもこの味、好き。
「えらかったね。いまごほうびあげるからね。」
おじさんは外人さんだと思ったのに、僕のわかる言葉で話した。
お母さんはおじさんを見た。
二人はなにも言わないで、笑いあった。
お母さんはとってもうれしそう。
だから、僕もとってもうれしくなった。
おばあさんが部屋に入ってきて、お皿とスプーンを机に置くと、何か言った。
それは、僕の知らない言葉だった。
呪文だ、と思った。
魔法使いのおばあさんなんだ…。
お皿にはなにか白いものが入っていた。
「あら。これ、りんごじゃないのねえ。」
お母さんが言った。
「スンジャさんの国ではこれなんだ。日本ではたいてい、りんごでしょう?お隣りの国なのに、おもしろいよね。」
おじさんは僕を見てにこっと笑うと言った。
「冷たくておいしいよ。」
お母さんがそれをスプーンですくって、僕の口に運んだ。
口に入ると、腫れたのどの奥がひんやりとして、とっても気持ちがよかった。
「…お母さん、これ、雪?」
「…まあ!」
お母さんは目を丸くして、おじさんを見た。
二人は目を合わせると、吹き出した。
そして、ほんとに楽しそうに笑った。
雪じゃないの?
白くて冷たいよ。
「秀ちゃん、これは梨よ。梨を擦ったの。美味しいわねえ。」
「うん、冷たくて、とってもおいしいよ。」
そこで記憶は終わっていた。
「そのおじさんさー、おばさんの大事な人だったのかなぁ?」
「そうだって。初恋の人。」
「聞いたんだ?」
「うん、去年。もう大人だから、って教えてくれた。」
俺はそう言って、英二の方を見て笑った。
彼は、どんな顔をしていいかわからない、という表情で、俺の目を見つめ返した。
いま、母さんは俺達家族といられて幸せだ、と言う。
それは本気の言葉だと思う。
でも、叶わなかった恋の記憶が、母さんを、より凛とさせている。
それも本当だと思う。
砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているから。
ずっと前に読んだ、本の中の言葉みたいに。
解釈は自己流だと思うけど。
「母さんさ、父さんと喧嘩して、俺連れて家出したんだって。そしたら、俺が熱出しちゃって。」
「うん。」
「保険証置いてきちゃったのにどうしようって。」
「ありゃ。」
「それでおじさんを訪ねたんだって。」
「へえー。あ、そのおじさん外国人なの?」
「おじさん、国籍が無いんだ。もともとは東欧の人。」
「…なんか訳ありっぽいねぇ。」
「いろいろあって、国籍を取るのやめたんだって。日本国籍を取ることもできたんだけど。」
「じゃあ…きっと反対されたのかな…?お母さんと…」
「そうみたい。あと、歳がさ、ずいぶん上なんだよ。ふたまわり近いって。」
「そりゃ、難しいかも。」
「おじさんさ、保険が切れたりお金がない外国人を、ただで診てやってたんだ。」
「すごいね、そういうのなんだっけ…?えっと…。」
「あかひげ先生?」
「そう、それ!」
「だね。」
「大石、そういうお医者さんになりたいの?」
「…うん、…なりたいよね。」
「そっか…。」
英二の大きな瞳が、また、俺をじっと見つめた。
この話、やっぱり、聞いてもらってよかった。
「俺も、夢、見つかるかなぁ…。」
「見つかるさ。」
「進路調査表、青学って書く。でも、学部未定で。」
「うん。慌てないで、じっくり考えればいいよ。」
「梨…。」
「え?」
「梨、好きになったの、その時から?」
「たぶん…。」
俺の返事を聞くと、英二はにっこり笑った。
その笑顔が、記憶の中の母さんみたいで、はっとした。
街灯の下で見る英二の腕は、すっかり汗が引いて、まるで銀細工みたいに、ひんやりして見えた。
「衣換え…だな、あした。」
「うん。まだ夏服でいーのにな。」
そう言って、英二は、腕をさすり上げた。
英二を好きだと気が付いて、もう1年が経ったんだ。
彼が同じクラスの女の子と付き合い始めて、俺は気持ちを封印した。
でも、この1年で、俺は彼をもっと知ったし、俺をもっと知ってもらった。
自分について知ってもらうことが、こんなにうれしいってこと、俺は恋をするまで知らなかった。
空を見上げると、月はどこにもなかった。
雲のない晴れた夜なのに。
不思議に黒い夜だった。
横を見ると、少し俯いて歩いていた英二がこちらを向いた。
俺達はただ笑いあった。
二人ともなにも言わなかった。
しあわせだと思った。
どうしてこんなにしあわせだと感じるんだろう。
俺は、もしかして、これは夢なのかな、と思った。
俺達の歩く先には、二人が別れる四つ角が見えていた。
街灯に照らされたそこだけが、白く白く、光っていた。
end