フライ・フライド・プライド

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東京郊外のマンションの角部屋。

大石秀一郎と菊丸英二がここにいわゆる「愛の巣」を構えることにしたのは、今年の3月末のことだった。
少々古い物件だったが、角部屋なので風通しがいいところが気に入り、借りることにしたのだ。

初夏の訪れを感じさせる爽やかな風が吹き抜ける。
梅雨が訪れる前の、ひとときの青空が広がっている。


「天麩羅日和りだねえ…」

大石の二十数回目のバースデイのその日。
英二はエプロンを腰に巻いた。

中高大の10年間をテニスで鍛え上げた両腕に、腕パッチをはめる。
天麩羅油の跳ねから守るためである。
腕パッチは祖母の手製、姉の娘の幼稚園バッグの裏布の残りを利用したものだ。
ちなみにピンクのウサギ柄であることを付け加えておこう。

英二はボールに小麦粉を入れて、卵黄を落とし、水を注ぎ入れた。
菜箸でそれらを混ぜ、玉葱の薄切りと桜海老を加える。

かき揚げを作ろうというのである。
レシピは大石の母のものだ。
もう一種のタネは、帆立貝の貝柱と水菜である。
天つゆの配合も、もちろん大石の母から教わった。

かき揚げは大石の母の得意料理だった。
英二も何度も賞味したことがある。
めったにないほど美味しい代物だった。


雨が降り始めた時のような音が部屋中に満ちる。
香ばしい天麩羅油の匂いが鼻腔をくすぐる。

皿の上に新聞紙を敷いたその上に、黄金色のかき揚げが載せられていく。

「大石、あれ、開けて」
「あの、いただいたやつか」

相変わらずの「あれ」「あの」である。
こういうところは、十年という時が経ても変わらない。

大石は冷蔵庫からワインの瓶を取り出した。
ソムリエナイフを右手に、手慣れた様子で栓を開けにかかった。

「揚げたてのうちに食べようよ」

エプロン姿、腕パッチをはめたままで英二が食卓につく。
大石はワイングラスにうっすらと黄色がかった液体を注いだ。
二人で新居を構えた時にいただいた、祝いの品の白ワインである。

「ええと。何に…」
「決まってんじゃん!大石の誕生日に〜!」

「乾杯!」

飲む前から飲んだようなテンションだ、と大石は英二を見ながら思う。
とはいえ、大石の頬もどこから見ても緩んでいる。

一緒に住んで初めての誕生日。
今年の誕生日は土曜日で、スポーツメーカー勤務の英二にとっては休日である。
大石の方は医師という職業柄忙しいが、もくろみ通り誕生日休暇はなんとかもらうことができた。
英二の性格からいって、祝ってくれないわけはないのだが、気合いの入れっぷりが感じられて嬉しい大石である。


「ううっ」
「どうかしたのか?英二」

かき揚げを一口食べて、英二のテンションは見る見るうちに急降下した。

「違う…」
「えっ?」
「おばさんのと違う〜!」

英二はすでに涙目である。

「同じに作ったのになんで〜!?」
「うん。同じレシピだもんな」

大石もかき揚げを一口つまむ。
口に残る油が幾分多く感じられた。
要は、からっと揚がっていないのである。

「さくさくってしない〜!」
「お、おいしいじゃないか」
「うそだ〜!」

英二は、またかき揚げを口に入れる。

「油の温度が低かったのかな〜」

英二はしんみりとした口調で、箸をくわえたまま思いに耽った顔つきになる。
と思うと、思い切ったようにワイングラスをあおり、ぐびぐびと喉を鳴らした。

「同じに作りたかったのに」

グラスを置いて、ぐすんと英二が鼻を鳴らす。
ワインボトルを傾け、2杯目をグラスに注ぎ入れる。

原因は、確かに油の温度かもしれない。
母のレシピといっても目分量で、当然ながら油の温度についての言及はなかった。
しかし、大石はそれ以上かき揚げについてのコメントは控えることを心に決め、黙々とかき揚げを口に運ぶ。

英二は早くも3杯目をグラスに注いでいた。
それを眺めながら、なんとはなしにここ一ヶ月の英二の言動が思い起こされた。

寝ていていいと伝えたのに、夜遅くまで大石の帰りを待っていたり、かと思うと、自分が休みの日でも朝食を作りに起きて大石を送り出したり。
部屋はいつの間にか片づいていて、ゴミもいつの間にか捨てられている。
居心地が良いような悪いような、平たく言えば妙な違和感があった。


「…別に、同じに作らなくてもいいじゃないか」
「だって、せっかくの誕生日なんだから、おばさんの美味しいかき揚げ食べてもらいじゃん」

空のワイングラスを手にしたまま、英二が俯く。

大石には、妙な違和感の理由がわかりかけていた。

「…俺は母さんの料理が食べたいわけじゃない」
「・・・」
「英二の料理が食べたいんだ」

英二がはっとした様子で顔を上げた。

「俺は母さんが欲しいんじゃないよ。…英二だから。英二だから、一緒に居たいと思うんだ」
「おおいし…」

英二は瞳に涙をいっぱいに浮かべ、ずずっと鼻をすすり上げた。

「もっと俺を頼ったり、甘えたりしてよ。頼りないとは思うけど…」

うえっうえっと声を上げて、英二はしゃくり上げ始めた。
アルコールのせいで、いつも以上に感情表現が豊かである。

「母さんのかき揚げは、俺が今度作ってみるから。英二は、英二のお母さんやお祖母さんが教えてくれた料理を作ってよ」

「おおいし、やさし〜!!」

英二は感極まって立ち上がった。
ばたーんと大きな音を立てて、椅子が後ろに倒れる。
英二は、向かいに座っていた大石の膝の上に乗り上げ、勢いくちびるを貪った。

「え、えいじ・・・」

激しい接吻に、大石は息も絶え絶えである。
しかしこの後、真っ昼間から致すことになったのは言うまでもない。




☆☆☆☆☆




都内ホテルのスウィートルーム。

プロ選手と言ってもまだ20代前半の越前リョーマには、過ぎたる環境だ。
ちなみにこの部屋の提供者は、リョーマの個人スポンサーである跡部景吾の実父であった。

10月初旬に東京で行われる国際試合のために、リョーマは帰国した。
「おチビ」というあだ名も、といっても呼んでいたのは英二だけだが、既に過去のものである。
今や、身長は180センチを超える堂々たる体躯であり、現在進行形で身長は伸び続けている。

リョーマがホテルにチェックインして間もなく、部屋の電話が鳴った。
外線の取り次ぎであった。

「××スポーツ、菊丸様よりのお電話ですが、お繋ぎいたしましてもよろしいでしょうか」

菊丸という姓がそう多くはないことは、帰国子女のリョーマでも知っていた。
急な目眩に襲われながら、取り次ぎを頼む。

「おっちび!ひっさしっぶり〜」
「はあ…おひさしぶりっす」
「あのー…あのですねえ。天麩羅の出前はいりませんかあ!?」
「…出前?天麩羅!?」


・・・そして小一時間後、スーツ姿の菊丸英二がホテルのスウィートルームに現れた。
やたらな大荷物である。

ひとしきりの近況報告ののちに、英二は上着を脱いで椅子に無造作に掛けた。
大荷物の中から黒いギャルソン風エプロンを取り出し巻き付けた。
ワイシャツの袖をまくり上げ、そこにウサギ模様の腕パッチをはめる。

ワイシャツにギャルソン風エプロンはともすればお洒落と言えなくはないが、ウサギの腕パッチはさすがにどうなのか。

「あの…。これが最新の接待スタイル…?」

英二が勤務するスポーツメーカーは、リョーマの公式スポンサーである。
中学時代の先輩後輩ということで、英二はこれまでもリョーマの接待の席に同席したことがある。

「…せっかくかわいい後輩が帰ってきたんだから歓待したいじゃん。会社には直帰って言ってきたけどね」

英二は、ゲストルームの大きなテーブルに荷物を広げた。
魚貝の類いに季節の野菜、まな板、包丁を出す。

「大きい海老…」
「経費で落とすから心配しないで。材料は奮発したよ」

英二は、IHヒーターと天麩羅鍋をテーブルの上にセットして、天麩羅用の食用油を注ぎ入れた。

ともすれば、英二はスポーツメーカーではなく、調理器具メーカーの営業マンのようにも見えてくる。
ワイシャツにウサギの腕パッチも、だんだんと違和感なくリョーマの目に映るようになってきた。

英二は、水と卵黄で溶いた小麦粉の中に、南瓜の薄く切ったのを入れてまぶした。
そしてそれを菜箸で取り、静かに鍋の中に滑り込ませる。

雨だれの音。
香ばしい油の匂い。
日本に着くや否や、懐かしい日本食をまさか部屋でくつろぎながら味わえるとは思わなかった。
リョーマは、突飛とも思える英二の思いつき、いや、気遣いに感謝した。


英二は、今油から上げたばかりの南瓜を皿に載せた。

「さあ、揚げたてをどうぞ」
「いっ、いただきます…」

いかに現在の立場が違うとはいえ、元々は先輩後輩の間柄だ。
さすがのリョーマも少々居心地が悪かった。

「どう?」
「う、美味いッス」

その後も、英二は一つ揚げては、皿に載せ、リョーマは揚げたてのあつあつの天麩羅を賞味した。
なんという贅沢だろうか。
これが接待とすれば、悪くない。
リョーマは英二を見直した思いだった。

「あっ…こののかき揚げ、超うまい…」
「だろ?それ、大石のお母さんのレシピなんだ」
「へえ…」

英二は、くっと菜箸を握りしめ、眉を寄せた。
やけに芝居がかった様子である。

「ここまで来るのにどれだけ苦労したことか!」
「はあ…」
「…聞いてくれる?」
「はあ、まあ…」

結構ですと言ったって、結局は話すのだろう。
リョーマはそう思いつつ、かき揚げをもう一つ口に運んだ。




☆☆☆☆☆




リョーマは、今年の大石の誕生日の日の出来事を、英二の口から聞いた。
正直、言葉もないリョーマである。

「…いい話だろう?」
「…すごいッスね」

リョーマは心から思った。
こんな寝ぼけたノロケ話を後輩に聞かせようと思い、それを実行する英二先輩はすごすぎる。
かねてから、そういう面ではたいがい迷惑な先輩だと思っていたが、それでも実体は想像を遙かに超えるものだった、と。

「それからだよ。かき揚げの出前を始めたのは…」

英二はふっと自嘲の笑みのようなものを口元に浮かべ、窓辺に目を遣る。
窓の外には秋の高い空が広がっている。
言い忘れたが、ホテルの最上階である。
眺めは抜群だ。

「えっ!?なんて言ったんすか、今…」
「経費で落ちなくたって、俺は金を取ったりはしないよ」
「いや、そこじゃなくて…。出前、何で、出前?」
「…修行のためさ」

修行!?
思いもかけない日本語が度々登場するので、リョーマは頭がくらくらした。

「苦節5か月…」

英二は、ゴールデンウィーク明けに不二の家を訪問したのを皮切りに、桃城、海堂、河村の家に押し掛け、いや訪問し、かき揚げを振る舞ったというのだ。

「乾の職場を訪ねた時なんてね…」
「しょ、職場まで押し掛け…、いや、行ったんすか?」
「だって、乾の奴、家に帰ってこないっつーか、帰れないんだよ。あいつ、かき揚げ食って泣いてたよ…」

乾は、メーカーの研究室に就職したはずである。
大手企業で、それほど職場環境が悪いとも思えない。
おそらく、自前の研究で自らの首を絞めているのだろう。
はらはらと涙を流しながらかき揚げを食す白衣姿の乾を思い浮かべると、リョーマはなぜだか寒気がして身震いを一つした。


「あとは、あの朴念仁だけだ」
「は?」
「あいつに決まってるだろう、手塚だよ」

その名を聞いて、リョーマはどきりとした。
というより、とっさに顔色が変わるのを英二に気取られないかと案じたのだ。

「手塚は明日帰国予定だって聞いたけど」
「そうなんすか」

リョーマは英二から目をそらして、窓の外の空を眺めた。

「明日は、俺、ダメだから、おチビが行くといいよ」
「はあ!?」

なんでわざわざ自分が、手塚に会いに行かなければならないのか。
しかも、どうしてそれを英二に指図されなければならないのか。

そんなリョーマの思いをよそに、英二はすずしい表情、というより、どこか勝ち誇ったような表情に見える。

「明日は俺、うちでかき揚げやんなきゃだからあ…」
「は?…もしかして…」

明日は、9月30日である。

「そ。毎月30日は、かき揚げ記念日♪」
「…え、英二先輩って、意外としつこかったんだ…」

だいたい、かき揚げは作らなくていいと、言われたのではなかったのか。
リョーマには、英二の修行と称した自宅襲撃やら、かき揚げ記念日とやらも、単にノロケ話を聞かせたいだけのような気がしてならない。

「知らなかった?ま、おチビほどじゃないけどね」

英二は下をぺろりと出して、おどけた表情を見せた。

その言葉と表情に、リョーマはひやりとして息を飲んだ。
英二は何を言いたいのか。

世界ランキングで自分の少し上を行く手塚を、リョーマは常に意識していた。
しかし、中学時代は無邪気に手塚へのこだわりを見せていたリョーマも、長じていつしかそれを隠すようになった。
しつこく追い続けているという目で周囲に見られるのも嫌だったし、手塚と真に対等な立場で闘えるようになった今、敢えて関心がないように振る舞いたいというプライドめいたものもあった。

それとも英二は、ただ単にテニスに対する執着心を話題にしているにすぎないのか。
一瞬の間に、リョーマは様々に思い悩み、返す言葉を決めかねた。

「しつこいってのは、悪いことじゃないよ…」

窓辺にたたずむリョーマの隣に英二が立つ。
身長差は10センチほどである。
リョーマは英二の横顔を見遣った。
やや伏せた睫毛が何もかも悟っているかのように、眼下の街を見下ろしている。

「…こだわって初めて、何かが始まるんだからね」

何かを示唆しているような言葉であった。
リョーマは相変わらず黙りこくったままである。

「いうならば、こだわりこそが青春じゃないかな」

「…じゃあ、英二先輩は今まだ青春真っ盛りっすね。かき揚げにこだわり抜いて…」

リョーマは、やっと言葉を紡いで返すことができた。

「ばーか。俺の青春は大石だっつーの」
「・・・!!」

やっとの思いでした返事に、最強の答えが返ってきた。
絶句するリョーマの横で、英二はさも愉快そうにからからと笑い声を立てた。


「おチビは…」

英二はリョーマの方に向き直った。

「だいぶ素直になったけど…」

そして、人差し指を突き出して、リョーマの胸の真ん中を軽く突いた。

「…まだまだだね!」

にっと笑ってリョーマを見上げた。

「・・・な!」

リョーマは自分の決め台詞を奪われて、柄にもなくかっとなった。

「な、なんかムカつく!!」
「素直でよろしい!いい調子だゾ!」

英二は晴れ晴れとした表情で片づけを始めた。


こだわって初めて何かが始まる。
英二の言葉を、リョーマは心の中で繰った。

軽口を装った言葉と、その裏の熱情。
その熱情は、リョーマにとっても身近なものだった。
では、自分の抱えるこだわりは、英二が示唆するものと同じなのか。

まさか。
「俺の青春は大石だ」
きっと、この言葉の熱にあてられただけだろう。
明日、手塚に会ってみればきっとわかる。
そうではないとわかる。

リョーマは英二の口車に乗せられて、手塚に会いに行くことを決めていた。


「ホテルは眺めがいいけど、はめ殺しの窓じゃあね…」

英二が片づけの手を休めて、こちらの窓の方に目を遣る。

「…最上階じゃ、風が強すぎて開けられないだろうけど」

英二は、手際よく荷物をまとめる。
どうやら「出前」というのは冗談でもなんでもなかったようだ、とリョーマは英二を眺めた。

「じゃ、そろそろおいとましようかな。おチビ、一度うちへ遊びにおいで」
「いつか、また」

リョーマは英二の笑顔に微笑んで返した。

同時に、英二と大石の自宅を訪ねるのは、まだ先だと思った。
今はまだその時ではない、まだ闘いたい、と。

自分は、英二の残していった、穏やかであたたかな空気にやられている。
空気を変えなければだめだ。
はめ殺しの窓ではだめだ、と。






「フライ・フライド・プライド fry-fried-pride」
end

もうちょっと大石誕生日SSらしく仕上げるつもりだったんですが…!
リョーマが主人公ですね…
英二から大石への愛は十分に盛り込んだつもりなので何卒ご容赦ください…



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