恋愛は、結局は追いかけっこ。
そうしたくなくても、そうなるように、できている。
本能のままに。
追いすがり、求めて。
追いかければ、逃げられる。
わかっていても、追いかけずにはいられない。
☆☆☆☆☆☆
「馬ってさ、一頭一頭、性格が全然違うの。たて髪の髪質だってさ、全然違うんだよ。」
「へえ。髪質まで?」
「うん。直毛だったり縮れ毛だったり、柔らかかったり剛毛だったり、それぞれ違うんだ。」
「そうなんだ。あ、伸びちゃうよ、早く食べないと。」
「あ。うん。」
英二は、思い出したかのようにラーメンを啜り上げた。
彼が食べたいと言うから、ラーメン屋に来た訳なのだが、すっかり自分の話に夢中なのだ。
「やっぱ、魚系。」
れんげでスープを掬って飲むと、満足気ににっこり笑った。
「成田着いてまず、思った。魚系食いに行くって。」
「いもばっか、だっけ?」
「うん。当分、いもは見たくない。」
目を合わせて笑い合った。
英二のホームステイ先では、主食が朝はパンだが、昼と夜はじゃがいもだったのだそうだ。
毎日毎晩、山盛りのいも食ってみろ。
その愚痴は、電話で何度も聞かされていた。
「でさ。暴れ馬とかっているじゃん。なんでそういう馬になっちゃうかとゆーとさ。」
「英二、ほら、まず食っちゃって。」
「あ。うん。」
彼は丼を持ち上げると、ずずっと音を立てて、スープを飲んだ。
☆☆☆☆☆☆
店を出て、自転車の鍵を外しながら、ふと、英二の方を見遣った。
夜空を見上げていた。
大人びた横顔にどきりとした。
「後ろ乗りたーい。」
「だめ。ここ、お巡りさんよく通るんだ。うちの学生、常習犯だからね。」
「えー…。」
くちびるを尖らせて不満を訴える顔は、まさに昔からよく見慣れた表情なのだけれど。
「まあ、いいか。腹ごなしに歩こう。」
ニッと笑って前を向いたから、思わず、横顔を盗み見た。
機嫌よさ気に空を見上げている、よく見知った顔があった。
「そう、さっきの。暴れ馬の話、つづきね。馬はさ、人間が怖いの。めちゃくちゃね。」
「そうなの?」
「食物連鎖でさ、人間は頂点にいるわけじゃない?馬は食べられる方、人間は食べる方なわけ。」
「そうか。」
「むかし、っても何千万年も前だけど、人間は馬を食って食って食いまくって、絶滅寸前まで追い詰めたんだよ。だからさ、馬は人間のこと、怖くて仕方がないんだって。むかしの記憶が遺伝子に刷り込まれてるのかな。」
「なるほどなー。」
「成長する途中で、人間から恐怖を与えられると過剰防衛が起こって、敏感だったり偏屈だったりって性格に育っちゃうんだ。人間のやり方一つなんだよな。」
横を見ると、また、見慣れない表情があった。
「人間はさ、神様に使命を戴いてるんだって。世界のすべての生き物を正しく管理する使命。それを忘れたら、驕ってしまう。自分が神様より偉いと思って、滅茶苦茶してしまう。だからいつもそれを覚えてないといけないって、言ってたよ。」
英二の紡ぐ文に主語がないのは、よくあること。
ホームステイ先の誰かの、言葉なのだろう。
彼の瞳が見開かれて、くちびるが開いた。
「流れ星…。」
「え。」
「はやっ。三回も祈るなんて、絶対無理だよなぁ。」
「見逃した…。」
「あらら、残念。」
ほんとうに、残念だ、と思った。
一緒に歩いていたのに、見逃すなんて。
自転車のハンドルを握った手の上に、英二の手が重ねられた。
「またきっと見られるよ。一緒にさ。」
「…うん。」
そうして、俺の一番欲しい言葉をくれて。
俺をもっと夢中にさせてしまうのだ。
もう、彼のいない人生なんて、考えられないほどに…。
☆☆☆☆☆☆
コーヒーメーカーが、こぽこぽと音を立てて働いている。
馥郁たるかおりが、鼻をかすめて。
奮発して高い豆を買ってよかった、と思った。
英二は、出来上がりを待ち兼ねて、その機械の前に佇んでいる。
この機械が淹れる水出しコーヒーの味が、いたくお気に召したようだった。
彼は、漆黒の液体を二つのグラスに注ぐと、それを両手に持ったまま、俺の隣に腰掛けた。
グラスを受け取る時に、また、彼の表情を盗み見た。
グラスを傾けて、その液体を喉の奥に流し込む。
満足気な表情は、いつもとなにも変わらない。
「美味しい?」
「うん。…向こうもコーヒーは美味いんだけどさ、アイスコーヒーは飲めなかったよ。街なかの店にはあるんだけどさ、そもそも習慣としてアイスはあんまり飲まないみたいよ。」
「ふーん。」
「これ、ほんと、美味いよな。」
「うん。」
☆☆☆☆☆☆
蜜の味に、漆黒の液体の味が混ざって、甘いけれども、苦い。
苦味は不思議な癖になって、唾液を啜っては、飲み込んだ。
息を荒くした英二は、俺の胸に手をついて、ちょっとまってと言った。
「いき、くるしー…。」
上気した頬がかわいらしくて、そこにくちづけた。
うるんだ瞳は、黒目のところが大きくなって、快感が充分であると教えてくれる。
こめかみも、耳も、くまなくくちづけて。
首すじも、鎖骨も、舌でその味を確かめる。
「…おふろ…。」
「…すこしだけ。」
「汗くさいのに…。」
「しょっぱいよ。」
「えーっ。やっぱダメ…おふろはいってからにして…。」
「ダメ。とまらないから。」
「…すこしだけでしょー?」
「最後まではしないから。」
Tシャツを脱がせる時にのぞいた腋下が、なやましい。
男というものはたぶん誰も皆、恋人が腕を上げて腋下を露わにした姿を特別に好んでいる。
何故なのかはわからないが、男という生き物はそういう風に作られているのだろう。
腋下にくちづけると、恋人は、汗くさいからダメ、と抵抗した。
「香水、最近つけないんだな。」
「動物がいやがるから…。おーいしは、香水つけてほしー?」
「ううん。何もつけない方がいいよ。」
好きなのは、味わいたいのは、恋人の匂い。
当たり前じゃないか。
腋下から胸筋へと、手の平で摩る。
指の腹と舌とくちびるで、弱く、強くと丹念に愛撫する。
体の表面で一番感じるところの一つ。
そこを愛撫し続けると、彼はそのうち腰をよじり始める。
これまでの情事の記憶が、からだの奥に甦ってくるのだ。
彼の高ぶり始めたものを手の平で包んだ。
「俺にも…させてよ…。」
ハーフパンツのウェストをずり下げて、彼の指が俺のものを包み込んだ。
骨ばって硬いけれども、どこか繊細さがある彼の指。
やさしく、やさしく。
指の腹でもって、先端を刺激する。
あんまりやさしすぎて、焦れてくる。
それがわかってるみたいに、絶妙のタイミングで刺激が強さを増し始める。
押し付け合った胸の鼓動が、大きく響いて聞こえる。
ますます鼓動が速まって、頭の芯がぼーっとしてくる。
手を動かすのももどかしくなり、そのまま腰を押し付けて上下に動かした。
一層激しくなる、互いの鼓動。
自分の下に、恋人はいる。
ここにいる。
たしかにいる。
こうしていれば、彼はどこにも行けないから。
だから、彼を抱くのだろうか。
地面に押し付けて。
どこへも逃げないように。
☆☆☆☆☆☆
「シャンプーの匂い…。」
俺は機嫌よく、英二の髪に鼻を突っ込んだ。
以前はよく、「犬みたい」と言われたけど、最近では何も言われなくなった。
「自分だっておんなじ匂いじゃん…。」
そう言って呆れている。
恋人と一緒に風呂に入って、いやらしいことをしないで出てくるというのは、かなりの精神鍛錬が必要だ。
前回彼がうちに来た時、初めて一緒に風呂に入った。
やめてと言われたのに、床にひざまづかせて無理矢理犯そうとしたら。
めちゃくちゃに怒られた。
「そんな人とは一緒に住めない」と言われてしまった。
セックスのことで怒られたのは初めてだったから、ショックだった。
だから、今回は自重した。
「ボディーソープの匂い…。」
そう言いながら、鎖骨にくちづけて、手の平で脇腹を摩る。
彼は、おなじおなじ、と言って笑っている。
同じじゃないのだ。
かすかに混じった彼の匂い。
それが、高まるごとに、強く匂い立つようになる。
その過程を、俺は楽しんでいるのに。
☆☆☆☆☆☆
まる三ヵ月ぶりなので、それに、あんな大人びた表情を見せられて、たぶん今夜はいくら求めても足りない。
繋がるかたちを変えながら、新しい刺激を与えようと試みる。
英二は正常位が一番好きなのだと、知っているのだけれど。
彼がいちばん欲しいのは、刺激よりも、温もりとか安らぎとか。
わかっていても、快感によって恋人を繋ぎ止めようと試みる。
これはきっと、男の悲しい性というものだろう。
おそらくは生殖のために、そのようにプログラミングされている。
自分たちはそれには無縁なのだが、その呪縛からは自由でない。
息を整えて、ぼんやりした頭のまま、ぐちゃぐちゃに汚した彼の下肢を拭った。
内腿に触れた時、その熱さにはっとした。
挿れる直前みたいに、熱い。
「…足りない?」
「…うん。もっとほしい。久しぶりだもん。もっと、してよ。」
そう言って、腰をすこしよじった。
そうだ。
逃げたりするだろうか。
どこかへ行ってしまったりするだろうか。
彼だって、こんなにも俺を求めているのだ。
「すぐ、挿れても、平気?」
「うん。すぐ挿れて。すぐほしい。大石、早く来てよ。」
射るような瞳でもって、見つめられて。
あぁそうだ、俺はこの瞳に魅入られたのだ、と思い出した。
彼の腕が、俺の首に回されて、再び互いの体を重ね合わせた。
脚を抱え上げて、その箇所に俺自身を食い込ませる。
注意深く動かすと、苦しそうに歪んだ顔が上気してゆく。
一層深く突くために、脚を高く持ち上げる。
漏れ出でる彼の吐息に、ときに意図しない声が混じって。
それが俺を安堵させる。
さらに激しく速く体を動かして、繰り返し繰り返し快感を与えていく。
特別な趣向はいらない。
一番感じるところを、ひたすら愛撫しつづける。
そんな、シンプルなセックスが、今の二人にはふさわしい。
俺の背中の上で、彼の両脚が組まれている。
ぐいぐいと、押しつけるようにきつくきつく。
もっと深く突いて、と言われてるみたい。
逃れられないように、縛られているみたい。
そう思って、恍惚とした。
彼は、頭を左右に振って、絶頂が近いことを教えてくれた。
やわらかい髪のあかるい色が、シーツの上に散ってまぶしい。
「まって。いっしょにいこう。」
「…だめ。も、げんかい…。」
ほんのひと足先に彼がいって、すぐあとを追った。
☆☆☆☆☆☆
二人で体を投げ出して、心臓を押し付けあって、こうしてぼんやりするとき。
それが、俺がたぶん一番しあわせで、安らぐとき。
「…あんしんする…こーしてると…」
英二が耳元でささやいた。
彼も、おなじなのだ。
「…うん。俺もおなじこと考えてたよ。」
「…ほんと?」
安堵の表情を浮かべて、俺の目を覗き込んだ彼を見て、不安なのは自分だけじゃないのだ、とわかった。
「セックスっていいね。」
「…うん。」
「もうしばらくこうしてよう。」
「うん…。」
焦れて追い掛け回すのはやめようと思っても、すぐに不安になってしまう。
きっと、これも、生殖のためのプログラミングのせいなのだ。
俺達は、連綿と続く系譜から無縁に生きているはずなのに。
でも、こうして二人で体を打ちつけ合って、肌を寄せ合って。
鼓動を互いに確認していれば。
追い掛けてくる不安とは無縁だから。
「早く一緒に住みたいね。」
「…うん。…でも、お風呂エッチはだめだからね。」
「…なんか敷いたら、痛くないんじゃないかな。」
「…恥ずかしいよ。」
「膝が痛いからやなんでしょ?」
「それもあるけど。」
「じゃ、ほら、キャンドルとかさ、使ったら暗くなるよ。」
「…もー、その話はいー…。」
機嫌を損ねて、そっぽを向かれてしまった。
でも、こんなやりとりも。
やすらいで、しあわせで。
指と指をからませて、手をつなぎ合った。
瞳と瞳を合わせて。
くちびるとくちびるとを触れ合わせて。
遠くを見つめていたとしても、彼は隣にいるのだ。
ほしい時は、必要な時は、手を伸ばせば、その手を取って握り返してくれるのだから。
頼られても、頼られなくても。
彼は隣を歩いている。
頼っても、頼らなくても。
必要なときには、手を差し出してくれる。
「お腹空いちゃったぁ。」
「えっ。めずらしいね。」
「…運動したからねぇ。ホットケーキ、上手になった?」
「うん。実家で成功したよ。あとさ、みそ汁、作れるようになった。」
「すげーじゃん!…でも、まだ小5レベルだな。」
彼がそう言って、二人で笑い合った。
「んじゃー、夜食タイムにしてー。」
「はいはい。少々お待ちください…。」
台所の天袋からホットプレートの箱を出すと、英二はニヤニヤ笑って、眺めていた。
「ホットプレートあるんだもんね。そしたら、お好み焼きも作れるよね。今度来る時までに…。」
「…了解。精進します。」
香ばしいホットケーキの香りが部屋に満ちて。
テーブルに頬杖をついて待っている、恋人。
こちら見て、いたずらっぽい微笑みを浮かべている。
「なに?」
「ひっくり返すの失敗しないかと思って。」
「…。」
頼っても、頼らなくても。
頼られても、頼られなくても。
いっしょに歩いていこう。
君と、いっしょに。
end