Brighter than snow
ベッドの片側がずしりと沈んだと思うと、恋人が遠慮がちに髪に触れた。
指先から煙草の匂いがして。
冬の朝の冷たい空気がそこに混じっていた。
「…とうちゃん…」
口をついで出たのは、自分でも思いもかけない言葉で。
「お父さんの夢、見てたの…?」
恋人の問い掛けに、何故だか気まずくて口をつぐんだ。
煙草の匂いに鼻腔が刺激されて、くしゃみを二つした。
恋人は自分のシャツの匂いを確かめて、染み付いてるなと呟いた。
そうして、部屋を出て行った。
☆☆☆☆☆
父は新聞社勤めで、ずっと朝刊を担当していたから、夕食を一緒に食べた記憶はほとんどない。
夜勤が明けて早朝に帰って来ると、父は時々俺の布団に潜り込んだ。
そういう時には眠いのも忘れてこれ幸いと甘えていたから、父がいなくて寂しいと思ったことはたぶんない。
父の記憶は、煙草の煙と汗が染み付いたシャツの匂い。
明け方の匂いをうっすらと纏って。
頬に触ると、すっかり髭が伸びていてちくちくと痛かった。
「ねえ、父ちゃん。面白いお話、して。」
俺がそう言ってねだると、父は上司の失敗談や後輩の武勇伝を語ってくれた。
父は仕事柄、様々な業種、階層の人と出会い語らったことがあったから、もちろんそういう役に立つ話、感心する話もあった。
父は静かで穏やかな人だったけれど、その口から飛び出す言葉はユーモアに富み、どんな話も面白くして聞かせてくれた。
中でも俺がとりわけ好きだったのは、ぬいぐるみの大五郎の物語だ。
大五郎は、そもそも長姉の持ち物だった。
それが末っ子の俺まで下りて来たわけだから、いわばお下がりもいいところの品だった。
その頃、俺は、お下がりやお古という言葉は聞くことさえも嫌だった。
そんな俺が大五郎だけは愛着を持って扱った、それはひとえに父の語る物語ゆえだった。
すぐ上の姉も、大五郎の物語は一度も聞いたことがない。
その物語は、俺と父だけのものだったのだ。
初めて父から大五郎の物語を聞いたのは、忘れもしない、2月の祝日の朝のことだった。
いつもの通り、汗と煙草の匂いをさせて。
だけど、父の纏っていた匂いはいつもより何となく清々しかった。
「雪が積もったよ」
「うそ…」
そう答えながら、それは間違いないだろうと思った。
言われてみれば、父が纏っていたのは確かに雪の匂いだったから。
窓を見遣れば、おそらくは雪明かりのために、いつもより外がほの明るく見えた。
鳥の声も、車の音も、雪に吸い込まれたのか部屋の中までは聞こえてこなかった。
静かな朝だった。
それはその冬の初雪だった。
だから、すぐにでも見たかったし、早速遊びに出かけたかった。
だけど、その時父は真面目な顔で尋ねたのだ。
「大五郎の秘密を知りたいかい?」
俺が神妙に頷いたのを見ると、父はゆっくり口を開いた。
父の話によれば、菊丸家に来る前までは、大五郎は生きたクマとして、サーカスで働いていた。
バイクの曲乗りが得意の人気者で、サーカスの一員としてありとあらゆる国を回って、たくさんの友達を作ってきた。
父の話を聞きながら、俺は大五郎と一緒に世界のあちこちを旅して、友達を作る気分を味わった。
大五郎は、生き別れのお母さんを探しながら旅を続けていた。
あと少しで会えるところだったのにすれ違ってしまう親子。
父の話は巧みに俺の心を引き付けた。
「…どこまで話したっけ」
父は、いつでもそう聞いた。
「どうしていつも覚えていないの?」
「しっ。静かに。お兄ちゃんが起きちゃうよ」
俺は焦れて声を荒げながら、前回の物語の終わりを説明した。
そうして続きを催促したものだった。
大五郎は、一座で一番のスター、空中ブランコ乗りの少女に恋をしていた。
「大五郎はクマでしょう?人間の女の子を好きになっちゃうなんておかしいよ」
「おかしくなんかないよ」
「どうして?英二知ってるもん、犬と猫だって結婚できないんだよ」
「どうしてもなにもないよ。好きになるってそういうことだもの」
俺は、この大五郎の物語、父が即興で語る物語の、半分は信じていたが、半分は信じていなかった。
子供の世界では、事実と虚構の違いはごく曖昧だ。
本当かもしれないし、本当じゃないかもしれない。
だけど、本当かどうかなんて実のところ、全く重要ではない。
重要なのは、それが素敵で魅力的かどうか、ただそれだけにかかっている。
これが、大人の世界と子供の世界の一番大きな違いじゃないだろうか。
父は大学をでてからずっと記者一筋の道を歩いてきた。
そんな父が若い頃は童話作家になりたかったのだと知ったのは、俺が成人してからの話だ。
その話は、母から聞いた。
俺と母はある時期から急に近しくなり、しばしば深く話し合うようになった。
子供たちが次々に家を出て淋しくなったのかもしれないし、俺と話し合う必要を母なりに感じていたのかもしれなかった。
なにしろ、教育、といっても幼児教育の分野だが、その分野では母はプロ中のプロなのだから。
自分の子供たちの教育は、祖母に任せきりなところがあったのは事実だが。
幼稚園の先生になりたい女子大生と、児童文学研究会所属の大学生。
二人の出会いは偶然だったが、惹かれ合ったのは必然だった。
父は、自分の書いた童話を出版することを諦めてはいなかった。
それは父だけでなく母と二人での、ささやかな夢であり目標だった。
子供からは異なる地平を歩いているように見えた二人が、同じ太陽を見て歩いていた。
それを知ることができたのは、俺にとっては大きな収穫だった。
なぜならば、俺はその頃にはもう、一人の人と生きていく覚悟を決めていたのだから。
そうして、20代の終わりに家を出た。
恋人が大石であることは我が家の公然の秘密のようになっていたが、不在がちな父だけは全く知らなかった。
それから1年ほど経った頃、留守番電話に母からの伝言が入っていた。
「お父さんの本が出たから、送るわね」
母の伝言はいつもなんだかそっけない。
だから、ついつい、折り返し電話をかけてしまう。
「留守電聞いた」
「…読んでから電話するもんじゃない?」
「…そうだね」
直接話しても容赦なくそっけなかった。
「大五郎の話が載ってるから」
「えっ」
父は本に載せたのか、俺と父と二人だけの物語を。
それは予想もしないことで。
うれしくもあり、さみしくもある。
端的にそう纏めることもできるだろうが、時間によって醸造された思いは、もう幾分か複雑だった。
「本当は載せるつもりはなかったけど悔しいから載せてやったって言ってたわ、腹いせに」
「腹いせ…」
「お父さんて、案外子供っぽかったのねえ。今まで知らなかったわ」
そう言いながら、愉快そうに声を立てて笑った。
俺もつられて笑った。
おそらくは、父にとっても大五郎の物語は特別なものだった。
俺への、あるいは俺の恋への複雑な思いは、むしろその物語を手放したいと思うほどであったのだろうか。
俺は父の心持ちへと思いを馳せた。
大五郎は今、俺の勤務先で第二の、いや、サーカス時代から数えれば第三の人生を満喫している。
ぬいぐるみ打ち直しの業者から戻ってきた大五郎は、ぱりっとして表情もりりしく、何歳も若返ったように見えた。
彼は、生物部のマスコットとして生物準備室のソファーを陣取って、部員たちの成長を見守っている。
「父ちゃんに伝えてよ、大五郎は今も元気だよって」
☆☆☆☆☆☆
石鹸の香りをさせて、恋人が布団に潜り込んで来た。
「雪はまだだよ」
「雪降った?」と毎回尋ねるものだから、当直明けの恋人は俺が聞かずとも教えてくれるようになった。
彼の顎の下に剃り残しの髭を見つけてそこにくちづけた。
くちびるに髭が刺さるとちくりと痛かった。
石鹸の香りは雪の匂いのように清々しかった。
end