俺のからだはここにあるけど
俺のこころはここにはない
こころは、彼のところにおいてきてしまった
だから、俺はぼんやりしている
一日中、ぼんやりしている…
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
渋谷の駅前は、いつも以上の人出だった。
今夜は、今月に入って3回目の新歓コンパ、つまり毎週末この街に繰り出していることになる。
どこを見渡しても大学生、といった感じだ。
俺が所属するのは体育会系の部なのだが、新歓コンパだけは、毎年、お気楽サークル並みにやっていた。
俺は、今年になって禁酒を解いた。
というか、恋人のお許しをもらった。
酒に酔って浮気をしたのがばれて、自ら禁酒を宣言したのだった。
相手の一人に、同性の後輩がいたことは、内緒にしている。
去年までは、あんなに楽しいと思っていた飲み会というものも、今年になってみると、なんだか途端に色褪せたものに見えるのだった。
きっと、大学に入ったばかりでなんでも新鮮だったのだ。
それから、さみしいのを忘れられると思ったのだ。
それに、それに。
お酒なんかより、もっとずっと。
楽しいことがある。
ほっとするところがある。
いまは。
だから、なんだろう。
あまりの人出で、なかなか目的の店まで到着しない。
こうして人の波に揺られながら、俺はただぼんやりしている。
最近は、いつも、こうだ。
新歓コンパが始まって、2回目の乾杯の音頭を取らされた。
「インカレ、男子シングルスベスト8入賞、菊丸英二くんの乾杯の音頭でーす。」
と女子部の副部長が紹介した。
一応、俺はこの部の看板選手なのだ。
全国制覇は遠く及ばなかったが、今は頂点に立つことが目標じゃないから、どちらかと言えば、シングルスの戦い方を学びなおしているという感じだ。
去年の秋から青学高等部の練習を手伝っていた。
最近は、自分の練習よりも、むしろそっちの方に思考が向かいがちだった。
俺に指導者なんて無理だと思っていたけど、案外向いているのかも、と思い始めていた。
割り振られた仕事をこなすと、今度は男子部の部長に声をかけられた。
「英二、お前のファン。あそこの3人組ね。相手して。」
俺はホストじゃねーぞー、と思ったが、これも新入部員確保のため。
俺だって、去年はさんざんちやほやされたのだ。
おとなしめな顔立ちの女のコたち3人。
顔色はたしかに、一般の女子大生より黒い、明らかに。
中・高とテニス一直線でした、って感じだ。
俺のファンってことは、高校時代の、だよな。
「お会いできて、うれしーです。」
「シングルス、やってるんですね。」
「ダブルス、もう、やらないんですか。」
当たり障りのない答えをし、グラスの空き具合に気を配り、追加のつまみをオーダーし。
そうして仕事を片付けながら、俺の頭はまた、ぼんやりとぼんやりと、し始める。
ぼんやりと、思い出すのは、もちろん恋人との逢瀬。
先月の、早春の、朝のこと。
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ふとんの中はぬくぬく。
彼がいれば、寒くない。
人間湯たんぽだな…。
冬は助かる。
夏は御免こうむるけど。
暦の上ではもう春だけど、大石の住む街では、まだ夜などはずいぶん冷える。
昨日は、二人して妙なテンションで、キスだけはやたらにした。
大石は引越し疲れというのもあり、俺もはしゃいで疲れたようで、そのまま体をくっつけあって、何もしないで寝てしまった。
彼はすーすー寝息を立てている。
眠りが深いんだよな。
大石は上下きちんとパジャマを着ていた。
それも、うちの母が父に買ってくるようなデザインのだ。
こういう、いかにも育ちがいいです、ってところも気に入っていた。
大石のお母さんは、彼を大事に大事に育てたのだ。
だから彼は、こんなに、真っ直ぐに、ちゃんとした人に育ったのだ。
その彼を、俺はいけない道へと引き込んでしまった。
いちゃつきの延長で、どちらが先に好きになったのかなと話したことがあった。
たぶん同じ頃だよと彼は結論づけた。
でもほんとうは、きっと俺の方が先だ。
先に、俺が彼を、すごくすごく、好きになったから。
それが彼に伝染ったのだ。
先に好きになったのも、好きだって最初に言ったのも、キスしてって言ったのも、その先をしたいって言ったのも、俺。
彼が戸惑っているのを見ると、俺は手を引っぱって、飛び込んでしまう。
考えてみれば、そうやって関係が進展してきたのだ。
こんなこと、彼に言ったらきっと怒られる。
でも俺の中にいくばくかの罪悪感がある、それは事実だった。
指で、大石の鼻筋と、眉の上をなぞった。
いつも、彼が俺にするみたいに。
全然起きる気配はない。
しばらくそうしていたけれど、さすがにつまらなくなった。
指でまつげの先に触れた。
彼がぱちっとまぶたを開いた。
「…んわっ。・・・英二?」
「おはよ。」
「んっ。おはよ…。」
彼はうーんとうなりながら、伸びをした。
まつげに触ると、一発で起きちゃうのだ。
菊丸家伝統の必殺技。
「・・・起きてたの?」
「うん。大石の顔で遊んでた。」
「そーなの?全然気付かなかったよ。」
また、指で彼の鼻筋をなぞった。
「お腹空いた?」
彼が尋ねた。
「俺、朝飯食わないの。」
「乾メニューじゃないのか?」
「ニンジンジュースだけ。ほら、石原都知事のさ。」
「なに、それ?」
「体調いいんだよ、朝抜くと。」
今度は、彼の眉の上をなぞった。
「朝飯つくってやるよ。パンとか買っといたろ。」
「ほんと?うれしいな。じゃ、フレンチトースト作って。」
「いーよ。ハムはさんで甘くないやつ作ってやるよ。」
彼はうれしそうな顔になって、俺の額にキスをくれた。
彼がうれしいと、俺もうれしい。
「…そうだ。忘れないうちに。」
彼はおもむろに立ち上がって、机の引き出しを引いた。
そして、なにか小さいものを手に掬って、こちらへ戻ってきた。
「これ。」
広げた手の平の上に、鍵がのっていた。
くれるってことなんだよな…。
この部屋の、鍵。
朝の光を受けて銀色に光っている。
何の変哲もないその物体が、俺にとっては、とてつもなく高価で貴いものに見えた。
うれしさに、心が震えた。
「…いいの?」
「もちろん。」
「…俺、返せって言われても返さないよ。お前が浮気したら家ん中めちゃくちゃにするよ。それでも、いーの?」
彼はちょっと驚いた顔をして、それからクスクスと笑った。
「いーよ。ずっと返さないでいい。ずっと、持ってて。」
そう言うと、真剣な顔になった。
そして、手の平を閉じてしまった。
だから、彼の手を握って、開けてと目で訴えた。
「…そのかわり、俺のこと、待ってて欲しいんだ。あと何年も、待たせちゃうけど…。俺が、ちゃんと、自分で稼げるようになったら…。」
なったら…?
言葉の続きを待った。
「そしたら、一緒に住もう。二人で部屋探して、借りて、一緒に暮らすんだ。」
ほんと?
ほんとに?
俺も同じこと考えてたよ。
そう言おうと思ったんだけど、のどがはりついたみたいになって声が出なかった。
だから、抱き着いて、キスした。
くちびるが離れると、彼が言った。
「それまで、返さないで。ずっと持ってて。」
彼は、握った手の平を開いた。
鍵は、やっぱり光って見えた。
俺は、それを掬い上げて、手の中にしまった。
「…返すわけない。」
やっと、出てきた声は、かすれていた。
それからもう一度、長い長いキスをした…。
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「英二、英二!」
はっとして、我にかえった。
「ほら、あそこ。女のコ、飽きちゃってるから。行って、盛り上げてきて。」
先輩に促されて、あわてて席を立った。
あれから、ひと月も経つのに、俺はまだ余韻に浸っている。
彼のくれた約束を。
開かれた、心の証を。
銀色にかがやく鍵を。
思い出しては、ぼんやりとしていた。
ただ、ぼんやりと、ぼんやりと…。
end