兄の恋人
しとしと、しとしと。
秋の長雨に降りこめられて。
たのしみは、とりとめのないおしゃべり。
話し相手は、兄の恋人。
☆☆☆☆☆☆
昨年、兄は、研修医期間を終えて、都内の病院に配属された。
それを祝って久しぶりに、家族4人水入らずで食事をした。
母の心づくしの、夕餉だった。
食事のあとの皿洗いは、いつも私の仕事だが、この日は主賓の兄がやってくれた。
俺がやるよと申し出た、その言い方に厭味がなかった。
むかしは、家事なんて、まったくできない人だった。
実家を出てからは、長い休みに帰ってきては、台所に立つようになった。
一人暮らしが長いとこうも変わるものか。
感心して、兄を眺めた。
「帰ってくるの?」
兄の勤め先はここから1時間弱。
実家に帰ってきても不思議はない。
「まさか。おまえも、一度うちを出たらわかるよ。戻るのは無理だよ。」
笑いながら、そう言った。
「…それに、この機会に、恋人と一緒に住もうと思って。」
恋人、いたんだ…。
なんだか、驚いた。
兄に、彼女を紹介されたことはなかった。
それに、なんとなく、兄は恋愛結婚をしないものと思っていた。
お見合いかなんかで知り合った、ちゃんとしたおうちの人と。
…たぶん、医者の娘とか、そーゆー人で。
いまどき、結納式なんて、やっちゃったりして。
当然、同棲なんてするはずもなく。
そういう結婚をするんだろうって、思っていた。
「…なんで、うちに連れてこないのよー?」
「何回も来てるよ。」
「…え?」
「英二だよ。」
兄は微笑って、そう言った。
「今夜はカレーだよ。」とか、「外は雨だよ。」とでも言うような、気安さで。
地面がぐらり、と揺らいだ気がした。
姿勢を立て直そうと、兄の腕につかまった。
そのまま、体にぎゅっとしがみついた。
ひさしぶりに、とてもひさしぶりに。
兄のことが、大好きだと思えたから…。
☆☆☆☆☆☆
兄と恋人の住むマンションは、東京の東のはずれの、下町にある。
地下鉄の駅から、川沿いの道を歩く。
いわゆる、リバーサイドのマンションが、彼らの住まいだ。
川の両岸には、桜の木が植えられている。
春になれば、さぞかし壮観だろう。
桜並木が途絶えると、今度は柳の木だ。
まだ夏の盛りのように、細長い葉がゆたかに繁っている。
雨の日の今日は、緑がとりわけ鮮やかだ。
私と兄が育った街には、こんなに大きな川はない。
それに、並木道といえば、なんといってもケヤキだ。
手土産を買おうと入った和菓子屋で、地元のご老人に話しかけられた。
この街では、買い物客同士が気軽に言葉を交わすのだ。
お店のおじさんおばさんも、とても気さくな人たちだった。
話し方はちょっと乱暴だけれど、笑顔を絶やさない人々。
少し電車に乗っただけで、同じ東京でも、ずいぶんと雰囲気がかわるものだ。
マンションの下まで来ると、ガラスのドアの向こうで、兄の恋人が手を振っていた。
彼が一度外へ出てきて、自動ドアが開いた隙に、二人でマンションの中に入った。
私たち、恋人同士に見えるだろうか。
でも、ちがうのだ。
二人の関係は、なんだろう、しゃべり友達…?
☆☆☆☆☆☆
兄のことが、大好きだった。
小学校を卒業して、青学の中等部に入学するまでは。
学年で1番の成績を取っても、委員会や生徒会でどれだけ貢献しても。
さすが、やっぱり、「大石の妹」。
その一言で片づけられてしまった。
普通に、私自身を、褒めてほしかった。
それだけだったのだけれど。
なかなか、それにはありつけなかった。
大学は、外部受験をして、合格した。
空気の密度が変わった、と思った。
兄の名前からのがれて、私は自由になった。
私は、優等生じゃない。
みんなのためなんて、ほんとうは、思ったこともない。
気ままで、周りに流されやすい、普通の、女の子。
それを認めることで、こんなに楽になるなんて、と思った。
そうして自由になって初めて、自分のすすむ道が見えてきた。
商学部に入って、簿記の勉強を始めておいてよかった、と思った。
父の税理士事務所は、子供の頃から遊び場だった。
そこで働く父の姿を、素敵だと思っていた。
引退はまだ先の話だけど、いつかは事務所を畳むことになる。
あの場所をなくしてしまうのは、どうしてもいやだと思った。
そういうわけで、2年生になるとすぐに、国家試験のための勉強を始めた。
去年、3回目の受験で、全5科目の合格を果たした。
在学中の全科目合格という目標は、クリアできなかったけれど。
父は、ことのほか、喜んでくれた。
☆☆☆☆☆☆
「この紅茶、おいしーい。」
「ほんと?よかった。あんこ玉、紅茶にあうねー。」
「うん、きっとあうと思ったの。芋ようかんにしようか、迷ったんだけど…。」
「芋ようかんには、コーヒーのほうがあいそうだね。」
兄の恋人と私には、共通点がいろいろある。
話題には、ことかかない。
中学、高校と、同じ学校。
コーヒーも好きだけど、ほんとうは、紅茶党。
猫も好きだけど、ほんとうは、犬派。
そして、大好物は、恋の話。
「…で、消滅させちゃったわけ?」
「…だって。何考えてんだかわかんないんだもん。理系の男って、ホント、意味わかんない。」
「つーか、俺も理系の男だし…。ついでに、君のお兄ちゃんも。」
「…理系、多すぎ…。」
彼は、笑いながら席を立って、見慣れたチェックの柄の箱を手に戻ってきた。
「わー!ショートブレッド!」
紅茶のお茶請けとして鉄板のショートブレッドも、二人の共通の好物だった。
「淹れなおそうか。もう一種類、茶葉買ったんだ。そっちも飲んでみてくれない?」
「わーい。ここ大好きー!帰りたくなーい!」
「いーよ。住んじゃいなよ。どーせ、大石あんまり帰ってこないんだからさ。」
「そーしよーかなー…。」
彼が、紅茶を淹れる姿を眺めた。
意外な几帳面さでもって、茶葉の量をはかり、ぐらぐらの熱湯を注ぐ。
やわらかそうな前髪が、はらりと睫毛の上にかかった。
捲くりあげたシャツの袖から伸びた腕は、すらりと長い。
その腕が、赤い色の液体をカップに注いでゆく。
母校の教師をしている彼は、女子中高生が好みそうな容貌をしている。
兄は、ああ見えて、繊細で美しいものが好きなのだ、と思いだした。
きっと、兄も、こうして彼を眺めているのだろう。
もちろん、もっとずっと、甘やかな気持ちでもって。
「…私も、ちゃんと、見つかるかな。…運命の人。」
「案外、もう会ってたり、するんじゃない?」
「…それは、いや。夢がないよー…。」
顔をしかめて彼を見つめたら、愉快そうに笑ってよこした。
☆☆☆☆☆☆
長く居座ったあげく、夕飯をいただいて帰ることにした。
彼といると話が尽きない。
時間が経つのを忘れてしまうので、たいてい、こうなる。
しゃべりながら作り、しゃべりながら食べ、駅まで送ってもらう時も、ずっと、どちらかがしゃべっている。
「これ、青学産。」
えんどう豆のつるを始末しながら、彼が言った。
口許には微笑みが浮かんでいる。
「…畑なんて、あったっけ?」
「作ったんだ。弓道場の横に花壇があったでしょ。あそこに。」
「…花壇潰して、畑?さすが、英二くん。花より団子だぁ。」
思わず吹き出したら、彼も笑っていた。
「生物部に、ハウス栽培やらせてんだ。」
「すごい、普通の畑じゃないんだ。」
「すごいっつーか…。こいつらが入っちゃうから、ビニールハウスにするかってことになったんだけど…。」
そう言って、思い思いにくつろいでいる猫たちを見遣った。
この子たちが、青学から連れてこられたことは、聞いていた。
そういう理由だったのか。
「でも、いーの?私なんかが食べちゃって。」
「顧問がいいって言うんだから、いーんだよ。」
機嫌よさげに、豆のさやからすじを剥いている。
「顧問じゃなくて、副顧問じゃない?怒られたり、しない?」
「二人分くらい、わかりゃしないよ。」
「いーかげんだなぁー…。」
「冬が近くなったら、今度はうちの畑のができるから。今年中にもう一度、おいで。」
「畑?家庭菜園でも、はじめたの?」
「うん。」
褒められた子供のように、にこにこと笑って顔を上げた。
「うちの畑で取れましたって言いたくて、借りたんだ。ほんとは月いちしか行ってなくて、管理人さんが手入れしてくれてるんだけど。」
「なにそれ…。」
おかしくなって、また吹き出して、声を立てて笑った。
兄が彼を好きな理由の、ほんとうのところがわかった気がした。
彼は一瞬ぽかんとして、それからしみじみとこう言った。
「…きょーだい、おんなじ反応だぁー…。」
「…私も早く、見つけなきゃ。」
「…どしたの。いきなり…。」
今度は彼が、笑い出した。
「どこかに、いると思う?」
「…さあ。いると思えば、いるんじゃない?」
いたずらっぽく微笑んでいる。
「ひとごとだぁ…。」
「当たり前じゃん。自分のことで精一杯。君のお兄ちゃんに逃げられないようにね。」
「…。それって、ノロケなの?」
「…なのかな?」
二人とも、笑いが止まらなくなった。
兄は、愛されているのだ、この人に。
探し当てた、人に。
☆☆☆☆☆☆
「おまえが、跡を継いでくれるなんてなぁ。」
兄は、洗った皿を手際よく、ふきんで拭いては重ねていく。
「ありがとう。肩の荷が下りた気分だよ。」
「…自分のためだもん。お父さんや、お兄ちゃんのためってわけじゃない。」
「…そうか。無理したんじゃないなら、よかった。」
こういうとき、もっと小さい頃なら、頭を撫でてくれた。
「俺は、男だからさ。なんでも、自分で選んで、決めたいんだ。」
「へえ…。」
「期待されてることをするのは、レールの上を歩いている気分になっちゃって…。性に合わないんだな。」
意外だった。
兄は、期待に応えるのが好きな人間なのだと、ずっと思っていた。
「そういうのは、いやだって、逃げ出したいって、いつも思ってたんだ。」
そう言うと、窓の外を見遣った。
台所の小さい窓の向こうには、月も、星も、なんにも見えない。
ただ、夜の薄暗がりが、切り取られているだけ。
そこを見つめて、微笑んだ。
なんにもないそこに、とてもいいものが、浮かんでいるみたいに。
むかし、兄は、しょっちゅう、遠くを見ていた。
どこを見ているの、って思っていた。
兄は、探していたのだ。
ここではないどこかを。
用意されたものではないなにかを。
ともに生きるだれかを。
兄こそが、心から、自由を希求する人だった。
そして、それを、探し当てたのだ。
☆☆☆☆☆☆
「雨、やまないねぇー。」
しとしと、しとしと。
いつやむとも、わからない雨。
しゅんしゅんと、鍋の湯が煮え立って。
えんどう豆は、鮮やかな緑をかがやかせて、鍋の中で踊っている。
窓には結露。
外は寒いのだ。
暮れ始めた街の灯が、きらきらと反射している。
水滴を手で拭うと、対岸の川下に、兄の勤める病院が見えた。
彼はここから、兄の居るところを眺めているのだろう。
そして、兄も、ときにはこちらを眺めているのだろう。
甘い気分に、めまいを起こした。
どこに、いるの?
私の、その人は。
ほんとうに、どこかに、いるの?
それとも、もう会っていたり、するの?
しとしと、しとしと。
雨は降りやまない。
兄の恋人は、鼻歌を歌いながら、えんどう豆の入った鍋を火から下ろした。
その歌は、たしか10年ほど前に流行った、恋の歌だった。
end