愛の歯

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われわれはみな堕落しつつある。

この手も堕落してきている。

堕落の病に逆らえるものは何もない。

それでも、つねに唯一の存在が、そのやさしい手で世界の堕落を止めてくれているのだ。(Graham Greene)


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激しい痛みに目を覚ますと、まだ明け方だった。
ついにきたか…。
口の中に飼っていた、おやしらずが暴れ出したのだ。

ばちが当たったのかな…。
昨夜の記憶を辿った。



ヘッドフォンを外し、部屋を出た。
買ったばかりの問題集に熱中していたら、数時間が経っていたのだ。
グラスはからっぽで、何か飲むものを取りにキッチンへ向かった。

姉の部屋から話し声が聞こえた。
母と姉と、もう一人。
昨年嫁いだ上の姉だった。
帰ってきてたんだ…。

「…1年も…」
「…自分より若いならまだ…」
「…別れるって…」
「…本気じゃない…」

聞こえてくる言葉の断片から、長姉の夫が浮気をしたのだと推測できた。
あの義兄が…?
信じられなかった。
人が良くて、誠実で、姉にベタ惚れなはずの、彼が…?

結婚して間もないが、二人の交際期間は長かった。
長く付き合うと、そういうこともあるのかな。
相手に飽きるとか?


俺は、大石に飽きるなんて考えられない。
大石は浮気ってより、本気になっちゃいそうだけど。
そうなったら、身を引くしかないのかな。

結婚しても、浮気の心配ってしないといけないんだ。
…当たり前か。
俺、結婚に夢見てたかも…。
そういえば、父や祖父はどうだったんだろう。
一回も、浮気してないのかな。


キッチンでペットボトルの水を飲みながら、考えた。
長姉が出戻ったら、うちに大石を呼べない、ということを。
呼べないことはないが、エッチは無理だ。
彼女は勘が鋭いから。
困った。
なんだよ、もー。
旦那に浮気なんかされてんなよ、姉貴の奴…。



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姉の心配をするのではなく、自分の欲望の心配が先に立った。
その罰だ。

いや、ちがう。
神様は、罰を与えたりしないってこと、俺は知ってる。
むしろ、神様は悲しんでいる。
涙を流してる。
俺が大石を好きなこと。
俺と大石がしていること。

痛みは、口の奥から頭のてっぺんまで、わんわんと唸るようにのたうっていた。
首から上を取り外すことができればいいのに。
鎮痛剤はなかなか効かなくて、眠れるわけない、と思った。



神様が、尋ねた。
この木から取って食べたのは誰?
…英二なの…?

…俺です。
俺が木から取りました。
そして、大石にあげたんです。
美味しいから、一緒に食べようって言ったんです。

神様の姿は見えなかったけれど、泣いていた。


保育園の園長先生がいたから、俺は尋ねた。
「せんせー、かみさまはどうしてみえないの?何でできてるの?」
「神様は愛でできてるんですよ。」
「あい?あいってなーに?」


教会学校の友達が、園長先生を取り囲んで訴えた。
「せんせー!エージくんはわるい子でーす。」
「エージくんはわるい子だから、ばちがあたりますか。」

「神様は英二くんを愛していますから、ばちなんて当たりませんよ。でも、神様はいま泣いていらっしゃいます。とても悲しんでいらっしゃいます。」

そこで、目が覚めた。
俺が、泣いていた。
3時間も眠ったようだった。

「受験日に痛みだしたら大変だ。」
「早めに歯医者に行っておけよ。」
彼に言われていたっけ…。

階下に降りて、家族行きつけの歯科医院に電話を入れた。
ひとまずすぐに来るように言われた。


今日は予備校休んで…。
大石のうちへも行けないや。

大石へメールを送った。
「おやしらず痛い。今日行けない。ごめん。」

返信はすぐに来た。
「大丈夫か。歯医者行くのか。」

歯科医院に行く旨を知らせると、安心したのか返信は途絶えた。


母が支度をしておいてくれた、テーブルの上の朝食を片付けた。
歯が痛いと、お腹も空かないんだな、と思った。


9時半に歯科医院へ到着した。
診療開始は10時からだが、馴染みのよしみで時間外に診てくれたのだ。
「抜いちゃおう。今日の夜、大丈夫?それか、明日の夜。どっちがいい?」


今日の夜、もう一度来ることにして、いったん帰宅した。
居間へ入ると、ソファーに長姉が座っていた。
テレビもつけず、ぼんやりしていたようだった。

「…英二。…顔、腫れてる?」
「うん。おやしらず。夜、抜くんだ。」

姉は、急須にお湯を注ぎ、お茶をいれてくれた。
その動作はあまりに自然で、彼女が今も一緒に住んでいるみたいに思えた。



「親知らずなんていうからさ、もう少し大人になってから生えると思ってた。」

「韓国語だとね、愛の歯っていうのよ。愛を知ると、生えてくるって。」

なんだか、絶句するよりなかった。


「…愛って、神様の愛かな、人間の愛かな…?」

俺の突飛な質問に、姉は驚くこともなく、少し考えて答えてくれた。

「…人間の愛かしらね。…子供の方が、神様に愛されてるってこと、ちゃんとわかってるから…。」
「…そうだね。大人になると、忘れちゃうだけで…。…俺も忘れてた。」

「大丈夫よ。英二が忘れていても。神様は英二のこと、絶対忘れないから。ずっと、愛してくださってる。」


神様は、俺のこと、きっと心配してる。
悲しんでる…。

俺は知ってしまった。
俺を愛してくれる人がいることを。
神様みたいに、永遠に愛してくれるわけはないのに。

でも、俺は、その人の手を振りほどくことが、どうしても、どうしてもできないんだ。
だって、俺が、その人を愛してるんだから…。
誰にも盗られなくないんだから…。


気がついたら、俺は涙を流していた。
姉は、そんな俺を見ても驚かなかった。

「私たちも、神様みたいに、人を愛せればいいのにね…。人間は弱いから…自分勝手だから…。だから愛も、複雑になっちゃうのかしらね…。」

姉の言葉はむしろ、独り言のように聞こえた。

「…でも、英二。神様は、私たちの弱さを愛してくださる。何度罪を犯しても、何度でも許してくださる。愛することを諦めたりは、なさらないの。そうやって、お手本を見せてくださってるのね。」


俺達兄弟は、今も駅前にある、教会附属の保育園を卒園した。
俺は姉二人に連れられて、教会学校にも小4まで通っていた。
今もこうして自然に、姉と神様の話をできるのはうれしいことだ、と思った。


「泊まってくの?」
「ううん、午後帰る。」

「そうなんだ。ずっといればいいのに。」
ほんとに、そう思っていた。
歯痛で心細かったからだろうか。

「…英二、知ってたの?」
「昨日、立ち聞きしちゃった…。」
「…そう。」

「…別れないよね?」
「別れないわよ。私たちには歴史があるもの。」

「…だよね。…義兄さんのこと許せる?」
「…許そうと思ってる。そう思わないと、許せないの。」
姉はそう言って、苦笑した。

「自然に許すのは無理だけど、意志の力で許すってこと?」
「そういうことかしらね…。」


意志の力で許すか…。
そうやって、許して…愛し続けるなら…。
愛することを諦めなければ…。
神様みたいに愛することができるんじゃないかな…。


「俺、痛み止め飲んで、夕方まで寝るから。」
「うん、勝手にくつろいでるから。お大事にね。」
「ありがとう。」



夕方に起きると、姉はもういなかった。
歯科医院に行くため、家を出ると、門の前に大石が立っていた。

「はいしゃ…。」
「…うん。お姉さんに聞いた。」
大石は、それだけ言うと、手を差し出した。
俺は黙ってその手を取って、二人で歩き出した。


このやさしい手を、俺の方から離すことは、できない。

どんなに神様を悲しませても。

でも、ずっとじゃないから。

きっと、今だけのことだから。

少しの間だけ、許してください。

彼を好きでいることを…。


end


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